Sokratesさんの備忘録ないし雑記帳

書きたいことを書いている.駄文注意.

【詳細版】 1+1=2 笑えない数学 ~笑わない数学の笑えない間違いの話~

NHK で放映された『笑わない数学』という番組の次の回が話題になっていた.
www.nhk.jp
企画意図としては「\(1+1=2\) という式を通して数学基礎論という分野を紹介する」というものだったのだが,怪しい説明や誤解を招く説明,端的に誤っている説明があった.というか,全体を通してそういうものがとても多かった.どう少なく見積もっても番組の内容の半分以上がそういうものになっている.正直,全然笑えない.笑わないのではなく笑えない.
そういった説明に注意喚起を促し,簡単にだが訂正をするための記事を以前書いた.その記事は速報性を重視して書いており,「ここが怪しい」「ここが間違っている」ということだけを伝えることを目的としていたため,詳細や「具体的にどう直すべきだったのか」という点の記述が不十分であった.というか,一部わたしも素でまちがったこといくつか書いちゃった(訂正・取り消し線による削除済み).
sokrates7chaos.hatenablog.com
やっぱり,3,4時間で書いた記事はダメ.いや,3,4時間で書いた記事よりも間違っている番組にゴーサインを出した自称専門家の監修者*1の方がまずいんか?わからん.
ともかく,この記事はその際に書くと宣言していたフルバージョンである.この記事では番組の説明の問題点を指摘し,どう間違っていたかを書いた後,番組の改善案を考察し,提案する.
『笑わない数学』は評判の良い番組のようだ.少なくとも,私が見た「1+1=2」の回は映像作品としてよくできていた.実際,「後半ほとんど嘘しか言っていないじゃないか」と思いながらも最後まで見れてしまった.これはとてもおそろしいことで,彼らの映像技術は「(たとえ誤ったものであっても)主張を最後まで飽きることなく見せる(伝える)ことができる」力があるということを示唆する.
【速報版】に対する反応などを見る限り,この記事を最後まで読み通せる人は少ないであろう.「おもしろかったら間違っていてもそれでいいじゃん」とする刹那主義者たちは読もうとすら思わないだろう.残念なことに読まれなかった部分の主張は,当然,伝わらない.
『笑わない数学』スタッフとわたしの「伝えること」に対する力の差は歴然としている.こういう「マスコミの誤った報道に対する訂正」をめぐる戦いは,最初から負けが見えているものなのかもしれない.それでも,わたしは訂正記事を書こう.せめて,心ある人には届くと信じて.

わたしのスタンスについて(2023/11/09 追記)

この記事を出してから,思っていた以上の反応や反響をいただいた.ただ,わたしのスタンスを誤解した批判や反応も多かった.そのため,その辺りについて少しだけ補足をする節を設ける必要があると思われた.
この節では『笑わない数学』をはじめとしたいわゆる「アウトリーチ」を目的としたテレビ番組制作に対するスタンスなどを書く.数学や数学史の内容は含まないので,ここを読まずとも「どこがまずかったのか」ということを理解するのには差し支えないと思われる.が,この記事にコメントしたり批判をしたりするのであれば,この節に目を通してからにしていただきたい.
まず,この記事の目的は冒頭に述べた通り,『第2シリーズ 1+1=2 - 笑わない数学 - NHK』で放映された誤りを指摘し,訂正することにある.私の目的はそれ以上になく,『笑わない数学』の制作陣に「訂正しろ」と詰め寄るつもりはまったくない.ある程度文章をじっくり読む素養があれば7割*2くらいは理解できるように書いたつもり*3だし,最悪,この記事だけでわからなかった場合でも詳細にあげた参考文献を読めばよいはずなので,制作側がこの文章を発見し――おそらく,何人かの数学関係者からも肯定的な評価をしていただいた以上もう「発見自体」はされていると推測している――読んでさえくれれば「何がまずかったか」は理解できるはずだと踏んでいる.「専門家」を雇って理解するまで付き合ってもらうという手段も向こうは取れるはずだし.そこからどうリアクションするかは向こう次第でよかろうと考えている*4
いわゆる「アウトリーチ」を目的としたテレビ番組制作で多少誤りが含まれるのはやむを得ないというのはこちらも理解している.専門家でも誤ることはあるだろうから.そもそも,日本においては「表現の自由」は最大限尊重されるべき権利であるから,「誤っている言説」を言う口をふさぐことはできない「誤っている言説」には「訂正するための言説」でもって対抗せよ,というのが「表現の自由」の原則の一つであろう.この記事はまさに「訂正するための言説」である.「誤っている言説」を言う口がその後閉じるのか訂正するのかはたまたそれでも「誤っている言説」を繰り返すのかは,その口の持ち主が決めればよい.
そのようなわたしの考え・価値観のの上でわたしが制作陣に望むことは,「今後『笑わない数学』で数学基礎論や数理論理学,また数学史の話題を取り上げるのであれば,その領域専門の専門家を雇ってほしい」ということである.少なくとも,『笑わない数学』のスタッフを映像技術者としては強く信頼しているので,まともな監修者を雇えば良かっただけだと考えているからである.つまるところ

「ケスラー、卿が生命を狙われたとする。犯人をとらえたとして、犯人が所持している兇器を卿は処罰するか?」(田中 芳樹著,『銀河英雄伝説〈6〉飛翔篇 (創元SF文庫) (創元SF文庫 た 1-6)』,東京創元社,2007,p.77)

というスタンスである.あれだけ杜撰な番組になったのはどうかんがえても監修者の小山信也氏*5が「専門家のふりをした素人」だったからとしかこちらには思えない.
『笑わない数学』の評判は数学関係者からもよいことを鑑みると,他の回ではちゃんと監修者としての仕事を行えているのであろう.おそらく小山氏は「(数学基礎論以外の分野の)専門家」であることは疑いない.しかし,「専門分野外では専門家も素人」ということを思い出さなければならない.いくら専門家であったとしても専門と違う分野の監修をしてはならない.これは専門家倫理の大原則である.これが繰り返し破られてしまうと「専門家」に対する信頼は落ちて行ってしまう.場合によっては専門家コミュニティ全体の信用低下にもつながりかねない.「専門知の危機」につながりかねないことを専門家がするべきではない.自らの手で自らの誇りを汚すような真似をするんじゃあない.
勘違いしないでほしいが,わたしはヒルベルトの思想や数学史,哲学の専門家ではない.数理論理学の専門教育を受けたことに(少なくとも形式上は)なっているので「数理論理学の専門家(の卵)」かもしれないが.そのため,歴史的な話題や哲学に関する部分については「(隣接分野の専門家の卵かもしれないが)素人による指摘」という側面があることにも注意してほしい.ただ,これが意味するのは第2シリーズ 1+1=2 - 笑わない数学 - NHK』で放映された内容の半分以上が,(隣接分野の専門家の卵かもしれないが)素人でも違和感を覚え,またほんの少し調べれば「誤り」であると確信できる内容だったという話だと考えている.そのような内容にゴーサインを出した監修者小山信也氏を隣接分野の専門家(の卵)として強く非難する
おそらく,わたしが「3万字以上」の文章を2週間強で書けてしまった理由の一つにこの「わたし自身の隣接分野に対して,他分野の専門家が当該分野の専門家のふりをしたうえで,めちゃくちゃなことを言った*6」ことに対する怒りがあることは間違いない.正直,後で読み返して,自分の「怒り」っぷりに笑ってしまった個所もある.ただ,そういう「怒り」をなかったことにするのは「専門家がどうあるべきか」という問題を考える上でマイナスにこそなれ,プラスにはならないだろうと考えているので,そのままにしてある.感情を軽視する人が専門家界隈にはどうしても多い(特に年配者になるほど多い印象)が,軽視していい感情とだめな感情があるように思う.「専門知」への信頼を汚されたことに対する「怒り」は忘れてはならない.専門家の誇りに直結する感情であろうから.自分が「専門家」だと胸を張って言えるようになった後に,自分も同じ間違いをするかもしれないが,このときの「怒り」を思い出せれば踏みとどまれるかもしれない. そう考えている.
もしかすると,この後の文章で怒りが漏れてしまっている箇所を不快に思われる方がいらっしゃるかもしれない.が,以上のような理由でご容赦願いたい.

なぜこの記事はこんなに長いのかについて(2023/11/09 追記)

なぜこの記事が3万5千字以上(この節の追加前の段階)の記事にならざるを得なかったのかについて書く.理由は二つ.

  1. まっとうに批判をするのであれば,批判する側は批判される側よりも言葉を尽くす必要があるから.
  2. 純粋に番組内の間違いが多いから.

一つ目についてだが,誤った言説を訂正するのには基本的にどうしても語数がかかる.特に今回の話題は純粋に難しいうえに,微妙な言葉遣いの違いで「誤り」と言わざるを得なくなる繊細な話題も多い.この後,

ここ(筆者注:不完全性定理の文脈)でいう「完全」は、すべての事柄が公理から証明できる、つまりどんな難問でもそれが正しいものなら必ず正しいと証明できる、ってことです。
#3 「1+1=2」(シーズン2) - 笑わない数学 - NHK

というスタッフブログの文言を批判するが,この発言のためにわたしは前提知識の説明に(数式部分を除いても)685文字,具体的な批判に 226文字費やしている.少なくとも前提知識部分はかなり削ってこの文字数であるため,この話題の難しさと説明の難しさもなんとなくわかるであろう.
二つ目についてだが,これでも内容を絞り「グレーゾーン」の部分や細かすぎる点については扱わないようにしている*7.明確に「誤っている」「ほぼ黒のグレー」とこちらが確信するに足る内容についてのみ批判をしている.冒頭でも述べた通り,『第2シリーズ 1+1=2 - 笑わない数学 - NHK』は半分以上が誤っているので,どうやってもこれだけ長くなるのである.
一応,要所要所で「まとめ」をいれたので,急いでいる人はそこを読んでほしい.

批判・疑念の要旨

この節では番組への批判・疑念の要旨をまとめる.まず,この記事から番組への批判の要点は簡単に書くと以下のとおりである.

  • 「ペアノの公理」の説明に問題がある
    • 引用しているかのように見せているペアノの論文(を翻訳した本)に番組内で紹介された通りの記述は存在しないし,そのような趣旨の記述もない.
    • 現代的な意味での「ペアノの公理」の説明としても問題のあるミスがある.
  • ヒルベルトプログラムやその周辺についての解説はほぼすべて誤っている
    • 後半はほとんど間違ったことしか言っていない.
      • まとまった話題単位で見ると,かろうじて「床屋のパラドクス」の説明だけはあっていた(意義の説明は変だった).
    • ヒルベルトプログラムは「(古典的な)数学の無矛盾性」を示すための計画であって,「完全で無矛盾な数学を構築」する計画ではない
    • 体系が「矛盾」することで引き起こされる問題の説明がおかしい.
    • いつもの通り,不完全性定理の意義や説明が誤っていた.
      • ヒルベルトプログラムに致命傷を与えたとされるのは番組で紹介された「第一不完全性定理」ではなく「第二不完全性定理」の方という見方が普通である.
      • 一応,「第一不完全性定理」がヒルベルトプログラムに致命傷を与えたとする意見は存在するが,あまり一般的な意見ではないし,その意見を成立させるための前提にそもそも議論が必要とされている.いずれにせよ,「第一不完全性定理」がヒルベルトプログラムに致命傷を与えたとするにはかなり複雑な議論が必要で,番組のように安直に出せる類のものではない.
      • また,そもそも「致命傷」というのも言い過ぎではないかという考えもある.「打撃を与えた」のは間違いないというのは専門家の一致した意見だが.
      • 番組制作ブログの記述を見る限り「完全性」の意味をわかっていない人間が制作しているとしか考えられない.

以上にあげた説明の間違え方のほとんどは「わかりやすさのために厳密さを捨てた説明だから」というたぐいのものではない.特にいくつかの誤りについては,誤っている上に冗長な説明を生んでいる.
ところで,「わかりやすさのために厳密さを捨てた説明だから」と言えば許されると思って,誤ったことを言う連中は後を絶えない.大概の場合,「普通に間違っているし,単にお前が理解していないことを露呈しているだけなので指摘されている」だけなのに,この言葉を免罪符のように使うのはやめてほしい.「わかりやすさのために厳密さを捨てた説明」として許されている説明をもう少しじっくり見てみて「なぜこれなら許されのか」をもう少し考えてからものを言ってほしいですね.
さて,上記のほかに番組の内容の中でかなり強い疑念のある事項は以下の通りである.

  • 「非ユークリッド幾何学」の発見・確立が「数学の危機」を呼び起こし,「数の概念が定義される」きっかけとなったという趣旨の説明やナレーションが導入部や中盤にあるが,これは通説と異なるし,かなり怪しい.
  • 「ラッセルがヒルベルトプログラムに魅了された」というナレーションがあったが,これもかなり怪しい.
    • ヒルベルトがヒルベルトプログラムを明確に打ち出したのは 1922 年のことのようだが,その頃のラッセルは数学の哲学について研究をしていたとは考えにくい.

以上の事柄は歴史的な案件であることも相まって短期間では完全な調査を終えることができなかった.しかし,手元に集めることのできた資料を見る限りかなり疑念を抱かざるを得ない言説である
あまり一般的でない(しかもかなり怪しい)意見・言説を根拠なく不必要に放映する意味があったとは思えない.実際,これらの内容を削っても番組を成立させることは可能だ.その上,これらの言説で何かがわかりやすくなったとは全く思えない.せめて出典を明記してほしい.
ペアノの公理のあからさまな引用ミスなども相まって,どこかの誤った記述の多いトンデモ一般書の内容をそのまま映像化したような印象を受ける.数学基礎論や数学史の専門家の監修はなかったのだろうか.

「ペアノの公理」の説明についての批判

この節では番組内の「ペアノの公理」の説明について誤っていた点について書く.

引用元に書いてないことを書くんじゃない

「ペアノの公理」の紹介が番組内にあったが,ここに引用として誤っていた点について書く.
「ペアノの公理」(らしきもの)の一部が表示されているテロップには

論文「数の概念について」ジュゼッペ・ペアノ著

と書いてあった.「せめて出版社くらい書きなさいよ」と思ったが,たぶん,『ペアノ 数の概念について (現代数学の系譜 2)』を引用しているつもりなのだろう*8
さて,番組内では「「数」という集まりが存在する」「「0」は数である」を「自然数についてのペアノの公理」としてあげ「ペアノが最初に仮定した」と述べているが,これは誤りである.そのような記述は 『ペアノ 数の概念について (現代数学の系譜 2)』 において確認できない.(2023/11/22 削除)そもそも,前者に至っては「数の集合」を定義していく過程に,その存在を仮定するのは明らかな論点先取である書いてある内容自体がおかしい.誰もおかしいと思わなかったのか.(削除終わり)*9
もっとも,さらに厳密なことを言うならば,「ペアノによる公理*10」は「記号」で書かれており,自然言語による表記ですらない.ただ,これを差っ引いても,せめて「「0」は数である」ではなく「「1」は数である」と書いてほしいし,「「数」という集まりが存在する」なんて,対応する記述もないものを虚空から生み出さないでほしい
この誤りのおもしろポイントは,ペアノの公理(らしきもの)が映っている画面の背景をよくよく見ると,ペアノのオリジナルの論文らしきものが映っていることである.この映っているものにも「0」と書いてあるようには見えない.なぜ,背景を作ったときに「「0」は数である」がおかしいと気が付かなかったのか.
そういうわけで,「ペアノの公理」として番組内で取り上げられ,紹介されたのは「ペアノ自身による公理」ではない*11

現代的なペアノの公理の説明だとみなしても誤っている点

もしかしたら,番組スタッフはペアノの与えた公理そのものではなく「現代的に整えられたペアノの公理」を説明していたつもりなのかもしれない.しかし,それならばペアノの論文を引用したかのようなテロップを単に流すのはあまり好ましい行為ではない.「現代的に整えられたペアノの公理」を説明している旨を述べるべきである.
また,現代で「ペアノの公理」と述べた場合,「構造として自然数を定義」するものであるから,やはり番組内の説明はおかしい.このことを詳しく説明するために公理的方法について少し詳しく述べよう.

公理的方法について

「公理」については,以前,このブログでも取り上げたことがある.この記事と重複する部分は出てくるが,改めて「公理」について説明をする.
sokrates7chaos.hatenablog.com

数学を他の学問と区別する大きな特徴として「『演繹*12による証明』が唯一の『正当な議論』であること」があげられる.この演繹による証明の出発点とされるものが「公理」である.
The Foundations of Mathematics (Studies in Logic: Mathematical Logic and Foundations) によれば,議論の出発点という点は変わらないものの,時代によって「公理(Axiom)」という言葉は次の異なる2つの意味で用いられてきた.

  • (正しい)信念についての言明 Statements of faith としての公理(古代ギリシャの時代から1900年代中盤くらいまでの用法)
  • (構造を)定義するための公理 Definitional axioms (1800年代中盤からの用法.現代の用法は普通これ)

前者の用法の代表例として,ユークリッドの『原論』の「五公準」および「九公理」が挙げられる.これらは「確実に正しい(と信じられている)」言明と 18 世紀まではみなされていた.もっとも,良くも悪くも有名な「第五公準」は,他の「公準*13」や「公理」と比べて「自明だろうか」と疑われ,最終的に非ユークリッド幾何学の誕生に結びつくのだが.
ペアノの公理や「集合論の公理」などの公理も元々は「確実に正しい(と信じられている)」言明としての「公理」だったらしい.つまり,「自然数とはどういう対象なのか」「集合とはどういう対象なのか」という問いの答えとして「これこれこういう条件を満たすもの」として公理系を与えていたのである*14.ただし,現代においてはこれらも「(構造を)定義するための公理」とみなすのが普通である.
現代においては、普通、後者の意味で用いられる.「モノイドの公理」を例にあげて説明しよう.数学が苦手?大丈夫,そんなに難しい話はしない.
モノイドの公理とは次のようなものである.

モノイドの公理
集合\(M\),\(M\)上の二項演算\(\cdot\),\(M\)の元 \(e\) について,次の条件 (i), (ii) が満たされるとき,組\((M, \cdot, e)\)をモノイドと言う:
(i) 任意の\(M\)の元 \(m_{1}\), \(m_{2}\), \(m_{3}\) について,\({(m_{1}\cdot m_{2})\cdot m_{3}}={m_{1}\cdot (m_{2}\cdot m_{3})}\).
(ii) 任意の\(M\)の元 \(m\) について,\({m\cdot e}={e\cdot m}={m}\).

たとえば,実数(数直線上の数すべて)の集合を \(\mathbb{R}\) としたとき,組\( \left(\mathbb{R}, +, 0\right) \)はモノイドの公理の条件を満たしている.つまり,
(i) 任意の\(\mathbb{R}\)の元 \(a\), \(b\), \(c\) について,\({(a+b)+c}={a+(b+c)}\),
(ii) 任意の\(\mathbb{R}\)の元 \(a\) について,\({a+0}={0+a}={a}\),
が成り立つ.よって,\(\left(\mathbb{R}, +, 0\right)\)はモノイドである.同様に組\(\left(\mathbb{R}, \times, 1\right)\)もモノイドである.その他,自然数(\(\{0, 1, 2, \ldots\ldots\}\))の集合を\(\mathbb{N}\) としたとき,\(\left(\mathbb{N}, +, 0\right)\), \(\left(\mathbb{N}, \times, 1\right)\) などもモノイドである.モノイドがいっぱい.
このように「モノイドの公理」を満たすような対象は複数ある.そうすると,「モノイドの公理」を何らかの「(正しい)信念の言明の集まり」とは普通思えない.
「モノイドの公理」は「モノイド」という「構造」を定義する言明の集合である.ここで言う「構造」というのは「この世界に現れるパターン」のことである.モノイドは「集合とその上の二項演算」を考えるときに比較的頻繁に現れる「パターン」と言える.現在,数学をやる人間が「モノイドの公理」について語るとき,これらが正しいかどうかは気にしない.せいぜい「モノイドの公理」の条件を満たす対象(構造(パターン)の具体例)の存在の有無を気にするくらいである*15
現代数学の強みの一つは「公理」を「何らかの対象に対する(正しい)信念」とする考えから離れ,「公理」を単なる「構造(パターン)の条件」と考えることで,複数の対象についてまとめて議論できる点にある.実際,モノイドの公理から示すことのできる言明は,すべてのモノイドにおいて成り立つ.
現代において,「公理」が「正しい」ことを気にする必要のある場面は,考えたい対象が選んだ公理を満たしているかどうか(モデルになっているかどうか)くらいであろう.つまり,「『公理』の選択の正しさ」が問われている場面であって,「公理」そのものの言明の正しさではない.

現代的なペアノの公理の解説として何がダメだったか

さて,自然数の公理である「ペアノの公理」に話を戻そう.「自然数の公理」は現代では「自然数(という構造)*16を定義する言明」の集合とみなすべきである.つまり,「自然数(より厳密には組\( (\mathbb{N}, s, 0)\))の持つ最低限の性質」が書き連ねてあるだけである.このとき,「「数」という集まりが存在する」を最初に仮定することはありえない.今から定義しようとしている対象の存在を仮定することはない.
これはモノイドの公理の最初に「モノイドは存在する」と書くことの奇妙さを想像してもらえればわかると思う.「モノイドが存在する」というのは「モノイドの公理」を満たす対象を「発見」や「構成」することで初めて言えることだ.「構造」と「構造の具体例」を切り離して考えてこそ,現代数学である.ペアノの公理の場合もペアノの公理を満たすような対象を構成するなどして,はじめて「(自然)数の集合は存在する」と言える*17

ペアノの公理に「「数」という集まりが存在する」を入れてしまう行為は「引用」になっていないし,現代の「公理」の考え方からしても奇妙である.総じて,肝心な部分を理解せず,ペアノ算術における加算の計算方法のみをかろうじて理解した人間が説明しているという疑念がぬぐえない.

ペアノの公理の説明に対する批判のまとめ

  • ペアノ自身による自然数の定義には \(0\) は含まれていない.実際,そのような記述は引用元と思われる本に存在しない.
  • 「「数」という集まりが存在する」というのを仮定に置いたとする記述は引用元と思われる本に存在しない
  • 「「数」という集まりが存在する」を最初に仮定するのは現代の公理の形式としてもあり得ない.「『モノイド』が存在する」をモノイドの公理の最初に書くだろうか.

ヒルベルトプログラムの説明というより番組後半全体に対する批判

番組の後半はヒルベルトプログラムを中心に話が進んでいた.だが,このパートはほとんどすべての説明が誤っている.キツイことを言ってしまえば \(2+3=5\) を計算した後のパートで正しい説明ができていたのは「床屋のパラドクスの説明」のみである

矛盾の何がまずいか

まず最初に,ヒルベルトプログラムの中心的な概念である「無矛盾性」について説明するために,そこの周りの番組内の説明にツッコミを入れよう.
体系が「矛盾」すると何がまずいかについての番組内だと「ぐるぐるとおなじところをめぐり続ける場所ができるから困る(主旨*18)」と説明されていた.この説明は完全におかしい.「ぐるぐるとおなじところをめぐり続けると困る」ってなんやねん「マグロの回遊」とか「山の手線」とかもまずいんか?
体系が「矛盾」すると何がまずいのか.いくつか理由はあるが,わかりやすいのは「任意の言明が証明できるようになる」ということであろう.
今,「床屋は自分のひげを剃る」「床屋は自分のひげを剃らない」の両方が成り立っている(矛盾している)とする.このとき,次のように「豚は空を飛べる」ということを示すことができる.

  1. 「床屋は自分のひげを剃る」ことから「『床屋は自分のひげを剃る』または『豚は空を飛べる』」が成り立つ.
  2. 「『床屋は自分のひげを剃る』または『豚は空を飛べる』」ことと「床屋は自分のひげを剃らない」ことから,「豚は空を飛べる」が成り立つ*19

この論証が「豚は空を飛べる」をそれ以外の好きな言明に置き換えても成立することに注意すれば,「矛盾した体系では(それがたとえどんなむちゃくちゃな内容でも)任意の言明が証明できるようになる」ことがわかるかと思う.そのような体系がなんの役にも立たないのは直観的に明らかであろう*20
ヒルベルトの思想の観点からは「無矛盾性」というのはもう少し強い意味を持つ.ヒルベルトは「公理系が無矛盾であるならば,その公理を満たす対象が存在する」と考えていたようだ.このことはフレーゲ*21との手紙のやり取りにはっきりと書いてあるらしい*22.また,『ヒルベルト 数学の問題 -ヒルベルトの問題- 増補版 (現代数学の系譜)』にも「公理の無矛盾性が完全にできれば,これまでときおりなされていたような,実数の概念の存在に対する反論はなくなり,すべてが正当化される.(『ヒルベルト 数学の問題 -ヒルベルトの問題- 増補版 (現代数学の系譜)』 p.14)」とその思想が垣間見える主張をしている.ワリと強めな思想のような気もするのだが,ともかく,ヒルベルトにとって,「無矛盾性」は「公理」の満たすべき最も重要な性質であったようだ*23

ラッセルのパラドクスの意義について

ところで,番組の説明だと,ラッセルのパラドクスが「無矛盾性」の研究の始まりであったかのような演出になっていたが,この辺の事情はもう少し複雑で,実はそれ以外の出来事がきっかけではないかと思われる節がある.正直,一般書でもごまかして書かれることの多い部分なので,致命的な誤りとは考えていないが,一応指摘しておく.調べた限りでは次の通り.
ラッセルはフレーゲが『算術の基本法則フレーゲ著作集 3)』で与えた体系が矛盾を含むことを 1902 年に指摘した.このとき指摘した矛盾(を集合論的に書き直したもの)が今日「ラッセルのパラドクス」と呼ばれている.が,いわゆるカントールの集合論に矛盾が含まれていることはもっと早くから知られていた.この矛盾は Cesare Burali-Forti(Cesare Burali-Forti - Wikipedia)によって指摘されたもので,「順序数全体の集まり」を「集合」とすると矛盾が生じるというものであった(詳細は Burali-Forti paradox - Wikipedia).この話は1897年の本が初出のようだが,1900年の講演である『ヒルベルト 数学の問題 -ヒルベルトの問題- 増補版 (現代数学の系譜)』でもほんの少し触れられている.もっとも,カントール自身も集合論にそのような矛盾が生じることには自覚的だったらしい.Cantor's paradox - Wikipediaの記述を信じるなら1899年にカントール自身が「基数の集まり」を「集合」とすると生じる矛盾を見つけている.カントールは「順序数全体の集まり」や「基数の集まり」のような危険な「集まり」を「絶対無限」などと呼んで区別していたらしい.当時,クロネッカーやポアンカレなど「集合概念」を「数学の基礎」に置きたくない人々がまだ居たらしい.そういった人々からの論難を避けるため,これらの矛盾を解消する手立てとして,公理的集合論は誕生した側面もあるようだ(数 (下) (シュプリンガ-数学リ-ディングス)).
現代的には上記で出てきた「集合論の矛盾」については,「矛盾」ととらえるより「概念自体のとらえ方が曖昧だった時代に生じた混乱」ととらえるべきで,「公理的集合論」の誕生によって,その概念がある程度明確になったと考えた方が良いかもしれない.現代では「順序数全体の集まり」や「基数の集まり」が「集合」ではない証明として,Burali-Forti やカントールの議論は受容されている.
さて,「ラッセルのパラドクス」を指摘したラッセルは集合論の公理化ではなく別の方法でこれらの問題を乗り越えることを選んだ.というのも,ラッセルは「数学は論理学の一部」と考えていたからである(論理主義).ラッセルは矛盾を引き起こす概念が「非可述的に」定義されていることに着目し,「非可述的な」概念を追放するべく型理論を用いて,ホワイトヘッドらと共に論理体系を作り上げた("Principia Mathematica"). ただ,この体系にも「数学は論理学の一部」とするには怪しい「公理」が含まれており,結局「数学を論理学の一部とする」論理主義の試みはここで一度頓挫することになる.論理主義やフレーゲ主義が復活するには1983年の Crispin Wright による "Frege's Conception of Numbers As Objects" を待たねばならない*24
少なくとも言えることとして,1900年の講演である『ヒルベルト 数学の問題 -ヒルベルトの問題- 増補版 (現代数学の系譜)』の時点で「無矛盾性の証明」が問題としてあげられているので,1902 年に指摘されたラッセルのパラドクスが「無矛盾性」の研究の始まりであるとは考えにくい
さて,われらがヒルベルトに話を戻そう.ヒルベルトは,「数学の基礎」の研究に対して,集合論の公理化や論理主義とは異なる方向性を取った.その研究の方向を示したものが,ヒルベルトプログラムである.

ヒルベルトプログラムとは何か

番組ではヒルベルトプログラムを「完全で無矛盾な数学を構築する」計画として紹介されていた.しかし,これは誤りである
ヒルベルトプログラムは1922年に(現在知られている形で)宣言された計画で,「(その当時すでにあった)数学の無矛盾性」を示すためのプログラムである.詳細には次のようなプログラムである.

  1. 数学,論理学で扱われるような言明を表せるくらい十分な記述力を持った「人工的な言語」を作る.この「人工的な言語」の「文」は「論理式」と呼ばれる(数学的言明の記号化・形式化).
  2. 上記の「人工的な言語」において「証明」を定義する.演繹的推論は「推論規則」という「論理式」に対する「機械的な操作(一種の計算)」として定義される.「証明」は「推論規則」による「論理式」の操作の列や図として定義される(証明の記号化・形式化).こうしてできた「形式化された数学(の理論)」の証明は「有限算術(これは形式的な体系でないとされる.詳細は後述)」において(何らかのコーディングを介して)シミュレーション可能(「有限の立場」で扱うことが可能)であることに注意する.
  3. 「形式化された数学(の理論)」で証明可能な言明の証明は「有限算術」でシミュレーション可能であり,逆にシミュレーション可能なときのみ「形式化された数学(の理論)」で証明可能であることを示す.(還元プログラム
  4. 「有限算術」を用いて,「形式化された数学(の理論)」が無矛盾であることを示す.(無矛盾性プログラム

この流れを見ればわかる通り,「完全で無矛盾な数学(の構築)を目指」しているわけではない.繰り返すが「(すでにある)数学が無矛盾である」ことを示すためのプログラムがヒルベルトプログラムである.「何かを構築する」作業と「すでに構築化された何かを検証する」作業は当然全く異なる.また,「記号化(形式化)」という非常に重要でかつ画期的なフェーズを経ないとその全貌が見えないが,完全にその説明もスキップされている.もっとも,番組内の不完全性定理周りの説明を見る限り,番組スタッフおよび監修者は「記号化」の重要性どころか,「記号化」が行われていたことすら理解していない節があるが.......
(2023/11/27 追記)たとえるなら,「建築済みだが安全性が疑われている塔(古典数学)がある.この塔の安全性(無矛盾性)を確かめるために塔のミニチュア(形式化された数学)を作って,信頼できる建築士(有限算術)に安全性を確かめさせようとした」という話を「立派で安全な塔を建築しようとした」と説明してしまったわけである.さすがに話が全然違いますよね?(追記終わり)
番組の説明ではあたかも「何らかの数学の体系」を組み立てるかのような演出がなされていたが,これが誤りであることももはや明らかであろう.「何らかの(良い性質を持つ)数学の体系」を組み立てるような方向性から「数学の危機」を回避しようという研究は,先に触れた通りフレーゲやラッセル,ホワイトヘッドら論理主義者たちやツェルメロ,フランケル,スコーレムなどの初期の集合論者たちによって行われていたが,彼らのこの方面の仕事は「ヒルベルトプログラム」の一部ではない.

有限な算術って?

さて,ヒルベルトプログラムのかなめの「有限算術」とは何か気になっている人も多かろうと思う.わたしも最初は「有限算術」の詳細を書こうとも思っていた.だが,「笑わない数学」の批判という観点からすると不必要に膨大になってしまうことに気が付いたので,その詳細を説明をすることはまたの機会に譲ることにする*25諸事情で参加することになったMathematical Logic Advent Calendar 2023 - Adventarのネタにもなることだし.(2023/12/17 追記)書いた:ヒルベルトの有限算術のはなし ~1+1=2 笑えない数学 落ち穂拾い~ - Sokratesさんの備忘録ないし雑記帳(追記終わり)
とはいえ,全く説明しないとこれ以降の説明で困るので,ほんの少しだけかいつまんで説明しておこう.どうしてもここに書いてある以上の説明がすぐほしい場合は"Hilbert’s Program (Stanford Encyclopedia of Philosophy)"や『数学を哲学する』の「形式主義」の章を読むなどしてほしい.
さて,ヒルベルト自身の説明に曖昧な部分があり,よくわからない部分も多いが,「有限算術」とは「有限的な手法で決定できるような(自然数の)算術に関する言明」を扱える(形式的でない有意味な)体系らしい.現在では,「原始帰納的算術(PRA)」と呼ばれる体系が「有限算術」に対応するのではないかとされているが,ヒルベルト(とベルナイス)による研究においても「原始帰納的でない」手法が用いられているらしく,この辺りもまだ議論の余地があるらしい(Hilbert’s Program (Stanford Encyclopedia of Philosophy)).確実に言えることとして,ヒルベルトは「数学に限らず,あらゆる科学的な思考,理解,コミュニケーションにとって必要な」ものが「有限算術」だと思っていたらしい(D. Hilbert, "Über das Unendliche." Math. Ann. (1926). p.171).そういう基盤に則って「理論が無矛盾である」ことを示すことができれば,哲学的な論難から「数学の手法」を守ることができると考えていたようだ(Hilbert’s Program (Stanford Encyclopedia of Philosophy)).

「完全な数学」というのはどこから出てきたのか

ヒルベルトプログラムの詳細についてしっかり書いてある文献において,ヒルベルトプログラムの目的に「(古典的数学の)完全性」を含むものはあまり見ない*26.だが,一般書においてはこのような「数学の完全性」についての言及がそこかしこに見られる.この「数学の完全性」という話はどこが出所なのだろうか.
この件について一応の推測はある.ただ,ここではいったんその件については保留し,「完全性」を定義した後にその推測を述べることにしたい.
(2023/11/08 追記)「このブログの記述だけだとヒルベルトが完全性には興味がなかったかのような誤解をあたえるのでは」と Alwe 先生から指摘を受けた.まったくもって彼の言う通りなので,その件についても上記の件の推測を述べた後に取り扱う.(追記終わり)

不完全性定理について

ゲーデルの不完全性定理の説明が誤っているのはいつものことであるが,今回もやはり間違っていた.ゲーデルの(第一)不完全性定理そのものが「数学の無矛盾性と完全性」を突き崩し,「ヒルベルトプログラム」を崩壊させたかのような主張のされ方をしていたが状況はもう少し複雑である.というか,先に見た通り「ヒルベルトプログラム」の理解が根本的に間違っていると考えられるので,奇跡的な偶然でも起きない限り「ヒルベルトプログラム」の周りの説明はどうやっても正しくなりようがないのだが.......
ゲーデルの論文からの「直接引用」以降,あまりにも無茶苦茶なことしか言っていないので,どこから説明したものか迷ったが,まず最初に論理に関わる文脈における「完全性」の説明から始めよう.この時点から番組スタッフの認識が怪しいことだし.......

完全性とは何か

論理に関わる文脈における「完全性」は大きく分けて二つの用法がある.慣れてくるとこれらはほとんど混同することがないので,あまり明示的に区別されないことも多いが,ここでは「論理の完全性」と「理論の完全性」として区別することにしよう*27
まず,次のような記法を導入する.

  • 論理体系 \(\mathcal{L}\) において,公理(論理式の集合)*28 \(\Gamma\) から \(\varphi\) が証明可能なことを \({\Gamma}\vdash_{\mathcal{L}}{\varphi}\) と書くことにする.
  • 公理 \(\Gamma\) を満たす任意の対象(モデル)で \(\varphi\) が成立することを \({\Gamma}\models{\varphi}\) と書くことにする.

「任意の公理 \(\Gamma\) と任意の論理式 \(\varphi\) について, \({\Gamma}\models{\varphi}\) ならば \({\Gamma}\vdash_{\mathcal{L}}{\varphi}\)」のとき,「論理体系 \(\mathcal{L}\) が完全である」と言う.これが「論理の完全性」である.ちなみに,反対に「任意の公理 \(\Gamma\) と任意の論理式 \(\varphi\) について,\({\Gamma}\vdash_{\mathcal{L}}{\varphi}\) ならば \({\Gamma}\models{\varphi}\)」が成り立つことを「論理体系 \(\mathcal{L}\) が健全である」と言う.
「論理の完全性」は「正しいならば証明できる」などとも説明されるが,もう少し定義に寄せて説明すると「公理 \(\Gamma\)のすべてのモデルで成り立つことは公理 \(\Gamma\)から証明できる」となる.「ゲーデルの完全性定理」の「完全性」はこちらのことを指しており,その主張は「一階述語論理(という論理体系)は完全である」というものである.
さて,「理論の完全性」に説明を移そう.「理論の完全性」は「否定完全性」とも呼ばれることがある.こちらの定義は次である:
「任意の閉論理式*29(文) \(\varphi\) について,\({\Gamma}\vdash_{\mathcal{L}}{\varphi}\) または \({\Gamma}\vdash_{\mathcal{L}}{\lnot\varphi}\)が成り立つ」とき,「\(\Gamma\)は完全である」と言う(ただし, \(\lnot\phi\) は \(\phi\) の否定).
直観的に言うと「公理系 \(\Gamma\) では,任意の文 \(\phi\)について,\(\phi\) 自身かその否定 \(\lnot\phi\) が証明できる」つまり,「公理系 \(\Gamma\) では,任意の言明は証明か反証ができる」という性質を指す.「ゲーデルの不完全性定理」の「完全性」はこちらのことを指している.

スタッフはそもそも完全性の意味を理解していないのではないか

さて,先に述べた通り,番組スタッフがそもそも完全性の意味を理解していない可能性が高い.『笑わない数学』の番組スタッフが書いている文章に次のような一節があった.

ここ(筆者注:不完全性定理の文脈)でいう「完全」は、すべての事柄が公理から証明できる、つまりどんな難問でもそれが正しいものなら必ず正しいと証明できる、ってことです。
#3 「1+1=2」(シーズン2) - 笑わない数学 - NHK

上で説明した通り,不完全性定理における「(理論の)完全性」というのは「すべての命題が証明か反証される」という公理系の性質を指すものであって,正しさとは直接には関係がない.この説明,どう好意的に解釈しても「論理の完全性」を指しているようにしか見えないしね.......
このあたりの言い回しで意味が違ってくることは,ある程度数理論理学を学んだ者にとっては常識なので,わかっている人はこんな言い回しはしない.監修をちゃんと入れて,チェックしてもらいなさいよ.

「証明も反証もできない命題」は「難問」……?

で,もう一つ気になるのが「証明も反証もできない命題(独立命題)」のことを「難問」と呼んでいることである.
実のところ,数学の理論(公理系)が不完全なことはそれほど珍しいことではない.というか,普通である.「モノイドの理論」を例に挙げると,モノイドの理論では

(A) 「任意の \(m\) に対して,\({{m}\cdot{m^{-1}}}={{m^{-1}}\cdot{m}}=e\) を満たす \(m^{-1}\) が存在する」

という命題は証明も反証もできない.実際,(A) はモノイド \(\left(\mathbb{R}, +, 0\right)\) では成り立つが,モノイド \(\left(\mathbb{N}, +, 0\right)\) では成り立たない.モノイドの理論は「不完全」である.
この例でも(多少数学がわかる人には)わかる通り,別に「数学の理論」が「不完全」だからといって,何の問題もない.考えたい構造に「モノイドの理論」でとらえきれない部分があっても,その構造に合うように「モノイドの理論」に条件を加えた「理論」を考えればいいだけである.ちなみに,モノイドの理論に (A) を加えた公理は「群の公理」などと呼ばれ,これも大事な代数的構造「群」の諸性質を与える理論である.
さて,このとき,(A) を 「モノイドの理論」の「難問」と表現するだろうか?単に「成り立つモノイドもあれば成り立たないモノイドもある命題」という扱いだろう.実際問題,「難問(正確には「成り立つであろう」と予想されている命題)」が「証明も反証もできない命題」になることはあるかもしれない.ただ,その場合「元の問題に条件が足りなかった」という扱いになるのが普通の発想ではないだろうか.

完全な数学......?

さて,ここで,なぜ「ヒルベルトプログラムの目的に『(古典的数学の)完全性』」が紛れ込むのかという件についてのわたしの推測を述べたい.
ヒルベルト 数学の問題 -ヒルベルトの問題- 増補版 (現代数学の系譜)』などに顕著であるがヒルベルトは「数学の問題はすべて解ける」という信念を持っていた.これがどうも「数学の言明はすべて証明されるか反証されなければならない(数学の完全性の宣言)」と受け取られてしまうようだ*30.もしかすると,「ヒルベルトプログラムは不完全性定理によって終止符を打たれた」という(ある意味あっていて,ある意味間違っている)俗説も「ヒルベルトプログラムは『数学の完全性』を目指した」という誤解を生むのかもしれない.
ただ,『ヒルベルト 数学の問題 -ヒルベルトの問題- 増補版 (現代数学の系譜)』を読む限りだと,ヒルベルトは「5次方程式の代数的な解の公式は存在しない」という結果の例をあげつつ「条件が不十分で解けなくても,『解けない』こと自体が満足な回答になることがあるよね」と言っている.なので,「○○という命題は(ある理論から)独立命題である」という決着もヒルベルトは特に拒否しないのではないだろうか?よくあることだし.
また,もう少し新しい1918年の論文である "Axiomatisches Denken"(の日本語訳の「公理論的思惟」(『幾何学基礎論 (ちくま学芸文庫 ヒ 8-1 Math&Science)』に収録*31))に目を通しても「理論(公理系)に含まれる命題同士の従属性・独立性に見透しを与えうること」と「理論(公理系)の無矛盾性」を「公理系」の満たすべき条件として与えているが,「理論の完全性」については何も言っていない.一応,「数学的問題の決定可能性」などを重要な問題として挙げているが,これは「数学の問題はすべて解ける」という信念と関わりがあっても,「理論の完全性」についての問題とは何の関係もない.
思うに,ヒルベルトの「数学の問題はすべて解ける」というのは「(解けない場合でも「解けない」という結論が出るなども含めた)何らかの形で,数学の問題は(数学者にとって)決着がつく」という意味にわたしには思える.そういう意味での「数学の問題はすべて解けるか?」という問題については,ヒルベルトプログラムは何も語れないだろう.
(2023/11/09 追記)「このブログの記述だけだとヒルベルトが完全性には興味がなかったかのような誤解をあたえるのでは」という指摘を Alwe 先生から受けた.まったくもってその通りなので,ここにその件を追記する.実のところ,「完全性」自体はヒルベルトのキャリアで大事な役割を果たしている.初期の著作である『幾何学基礎論 (ちくま学芸文庫 ヒ 8-1 Math&Science)』では,「ユークリッド幾何学の完全性」を示している*32.また,1900年に出版された「数の概念について」は「実数の完全性(範疇性)」について述べている.ヒルベルトが「公理系の完全性」を重要な問題に思っていたことは疑いない.上記したことに加えて,これらのヒルベルトのキャリアも「ヒルベルトプログラム」に「完全性」を入れる人が絶えない理由かもしれない.ただ,これらの事実をもって「ヒルベルトプログラム」の一部に「完全性」を入れて良いとはならない.
ゲーデル 不完全性定理 (岩波文庫 青 944-1)』くらいにしか,「完全性」を「ヒルベルトプログラム」に入れている「専門家」の書いた本がない*33ということもあって,「ヒルベルトプログラム」の一部に「完全性」を入れて良いとするのは疑わしい.ただ,『ゲーデル 不完全性定理 (岩波文庫 青 944-1)』は日本でも高名な専門家(ということになっている)林普先生の著作ということもあり,「『ヒルベルトプログラム』の一部に『完全性』を含めるか含めないか」という件について,わたしはかなり慎重な態度を取らざるを得なくなっている.もう少し,私自身で調査してから,私自身の最終結論を出そうと考えている.が,この記事内においては,多数派にしたがって「ヒルベルトプログラム」の一部に「完全性」を入れないという立場を一貫してとることにする.(追記終わり)

(第一)不完全性定理とヒルベルトプログラム

さぁ,不完全性定理の主張ヒルベルトプログラムに与えた衝撃について述べよう.
(第一)不完全性定理の主張を番組よりも厳密に言うと「(1)枚挙可能な公理をもち(公理を永遠に吐き出し続けるコンピュータプログラムがあり)*34(2)"初等的な自然数論*35"を含む(3) \(\omega\)-無矛盾*36一階述語理論は不完全である」というものである.
「ヒルベルトプログラム」の目的が「(古典数学の)無矛盾性」を示すことにあることを思い出せば,この主張自体はヒルベルトプログラムとは何の関係もないことがわかるだろう*37.一応,Craig Smorynski, “The incompleteness theorems,” in Handbook of Mathematical Logic, 1977 のように「(第一)不完全性定理」が「ヒルベルトプログラム」に致命傷を与えたとする見解はあるようだが,その説明の概略を聞く限りだと「"true" とか言ってて変だなあ」という感じがする.また,この見解に対する反論論文がある(Michael Detlefsen, “On an alleged refutation of Hilbert’s program using Gödel’s first incompleteness theorem,” Journal of Philosophical Logic, 1990,19: 343–377. ).いずれにせよ,第一不完全性定理がヒルベルトプログラムに強い衝撃を与えたかどうかについては,議論の余地のあることであり,言い切る以上はせめて何らかの文献を引いて説明しなければならないように思う.

さて,一応は「完全な数学」という点についても少しだけコメントしておこう.
この定理は「一階述語理論(First-order theory)*38」についての定理である.「一階述語理論」は数学そのものではなく,それを形式化(記号化)したものである.そのため,この定理から「数学の不完全性」が直接導かれることはない.
また,仮に,「数学的な言明はすべて証明できるか反証できる」としてもこの定理から言えることは,「(1), (2), (3) の条件をすべて満たすように,数学全体を(一つの)一階述語理論による形式化ができない」という話でしかない.なので,(1), (2), (3) の条件を絶対に必要な条件と受け取ったところで,「一つの一階述語理論で数学全体を形式化できない」という以上の話ではないだろう.

(第二)不完全性定理とヒルベルトプログラム

実のところ,第二不完全性定理の方が「ヒルベルトプログラム」に対しては深刻である.こちらの主張は「(1) 枚挙可能な公理をもち (2) \mathrm{I}\Sigma_{1} という算術を含む (3) 無矛盾な一階述語理論では自分自身の無矛盾性を(意味すると考えられる論理式を)証明できない」というものである.なぜ,この定理が深刻かというと,ヒルベルトプログラムのかなめである「有限算術」が,「有限算術」よりも強い算術の無矛盾性を証明できないことを示唆するからである.
たとえば,PA という「有限算術」で示すことができることはすべて示すことができ,第二不完全性定理の仮定を満たす算術を考えてみよう.もし,「有限算術」で PA の無矛盾性を示すことができると仮定すると,PA は「有限算術」で示すことができることはすべて示すことができるから,PA は自身の無矛盾性を証明できることになる.これは第二不完全性定理に矛盾する!
ヒルベルトプログラムはこのまま破綻してしまうのだろうか?この件について,ヒルベルト自身は数学の基礎 (数学クラシックス 第 4巻)で次のように述べている.

この目標(筆者注:数学全体の手法が無矛盾であることを示すこと)に関連して, ゲーデル (K. Gödel) の幾つかの新しい結果により,私の証明論の実行不可能性が帰結されるという、最近聞かれる意見は間違っている,ということを強調しておきたい.実際,この結果は,無矛盾性証明をさらに押し進めるためには,有限の立場を,初等的体系の考察において用いられたものより,より強力なものとしなければならない,ということを示しているにすぎないのである.(『数学の基礎』「はしがき」より)

ヒルベルトとしては「有限算術」を何らかの形で強化すれば「ヒルベルトプログラム」は成し遂げられると考えていたようである.
この時点で,ヒルベルトの思いついていないであろう他の逃げ道として「『有限算術』はいかなる形式化によっても本質的にとらえることができないとする(Michael Detlefsen, "Hilbert’s Program", Dordrecht: Reidel,1986)」や「体系内の論理式によって無矛盾性を表現せずに『メタ的に』無矛盾性を示す(たとえば,ゲンツェンによる PA の無矛盾性証明. Gerhard Gentzen, “Die Widerspruchsfreiheit der reinen Zahlentheorie,” Mathematische Annalen, 1936)*39」という方法もある.
第二不完全性定理はヒルベルトプログラムに修正が必要であることを示唆するのは間違いないが,「破綻させた」という説明には議論が必要であると思う.

いずれにせよ,確実に言えることとして,ゲーデルの不完全性定理は番組内で述べられたような「完全で無矛盾な数学はできない」ということを意味するものではない

誤解に基づく批判の再生産はやめてくれ

次は『笑わない数学』の監修者の小山信也のコメントからの抜粋である.

数学基礎論では,1930年代に不完全性定理「正しいのに証明不可能な命題が存在する」が発見されたことが歴史上大きな出来事とされています.一時期は,不完全性定理によって,数学という学問の価値が疑われたといいます.しかし,すべての命題が証明できないからといって,すでに証明した定理の価値は不動であり,その美しさが損なわれるわけでは無いのです.

こういった数学研究者の心持ちを知って頂くことを目標に,本編の制作を行いました.
#3 「1+1=2」(シーズン2) - 笑わない数学 - NHK

数理論理学を学んだ人間としては「何十年も前の『誤解が元の批判』にちゃんと反論できないやつが何を言っているんだ?酒に酔っぱらったまんま寝た翌日に寝ぼけながら書いたコメントじゃないだろうなという気持ちが強い.詳しくないことを解説するのになんで応援を呼ばなかったんだ?
「不完全性定理「正しいのに証明不可能な命題が存在する」*40」というのは形式的な体系の中でのことにすぎないので,「数学全体では」という話ではない.実際,「PA の無矛盾性を PA の中で証明」できなくても,メタ的には証明できることがあるわけで.そこをしっかり議論できていない番組作りをして「数学研究者の心持ちを知って頂く」と言われても「つまり,『数学研究者はよく調べもせず数学についていい加減なことを言って良い特権階級である』というのがおめぇの言う『数学研究者の心持ち』なんか?」となるしかない.ふざけるのも大概にしてほしい.
実のところ,不完全性定理は「現代数理論理学」の出発点というべき定理である.特に「証明論」の歴史はここから始まったと言っても過言ではない(発展の詳細は The Development of Proof Theory (Stanford Encyclopedia of Philosophy) などを見よ).その発展を紹介しないと「数(理論理)学研究者の心持ちを知って頂く」ことはできないように思う.

ヒルベルトプログラムというか番組後半に対する批判まとめ

  • 古典数学の無矛盾性を検証する」という話を「完全で無矛盾な数学を構築する」と紹介するのは「誤り」と言わざるを得ない*41
    • おそらく,いくつかの点でヒルベルトプログラムと論理主義,公理的集合論の確立などを混同している.
  • 「不完全性定理」の意味と意義を根本的に勘違いしている.
  • 「完全性」を理解していないスタッフが作っているのはよくない.また,「形式化された数学」と「数学」の区別がついていない人間が監修しているのは本当にまずい.ちゃんと専門家を呼んで一から企画をたてなおしてはどうか.

非ユークリッド幾何学は「数の概念の厳密化」の「きっかけ」になったとする説明に対する疑念

この番組では非ユークリッド幾何学が打ち立てられたことを「数学の厳密化」特に「数の概念の定義が行われた」きっかけのように最初から最後まで語っているが,それはかなり怪しい.というか,そのような説をわたしは初めて聞いた.
この説は次のような非ユークリッド幾何学の受容についての通説と矛盾する.『復刻版 カジョリ 初等数学史』p.407 によると,「1867年にいたり,ギーセンのリヒアルト・バルツェル*42の識見によって,その驚嘆すべき研究(著者注:Lobachevsky や J. Bolyai による非ユークリッド幾何学の研究)が,数学者の注意をひくにいたったのである」とある.また,『Nineteenth Century Geometry (Stanford Encyclopedia of Philosophy)』にも "Lobachevskian geometry received little attention before the late 1860s." (著者訳:ロバチェフスキー幾何は 1860年代後半の最初のころにほんの少し注意を得た)と書いてある.しかしながら,Dedekind が「数の理論の基礎」について考えたのは 1858年のことと『数について: 連続性と数の本質 (岩波文庫 青 924)』に書いている.そういうわけで,時系列から考えて,非ユークリッド幾何学が「きっかけ」になることはありえない.
ただ,非ユークリッド幾何学に関する Lobachevsky の論文が 1829 年に,同じく J. Bolyai の論文が 1833 年に発表されているので,若干この辺も面倒くさいことになっている.これらの論文が発表当初は全くと言って良いほど注目されなかったという事実を踏まえなければ,上の議論の意味がわからないだろうとは思うし,「有名でなくとも彼らの論文を Dedekind は知っていたのだ」という陰謀論めいた強弁は可能である.
ただ,それでもやはり『数について: 連続性と数の本質 (岩波文庫 青 924)』や『ペアノ 数の概念について (現代数学の系譜 2)』において,非ユークリッド幾何学について全く触れられていないのは不自然だろう.Dedekind にいたっては『数について: 連続性と数の本質 (岩波文庫 青 924)』に「微積分の厳密化」にモチベーションがあると書いているし.......
その他,数 (上) (シュプリンガ-数学リ-ディングス) の「自然数」や「実数」の定義が行われた経緯についての記述を見ても特に非ユークリッド幾何学のことはほとんど触れられておらず,「集合論の確立による『基礎づけ』が整えられたこと」や「微積分の厳密化」について書かれている.また,復刻版 カジョリ 初等数学史ではペアノらの功績を幾何とは異なる方向からの成果として位置付けている.
おおまけにまけて「非ユークリッド幾何学の研究が数学の厳密化につながった」は正しい.実際,復刻版 カジョリ 初等数学史 などを見ると「ユークリッドの第5公準」の非自明性の解消に向けて,「平行線」の「定義」の改良を試みたり「ユークリッドが無意識に仮定していた公準(たとえば剛体の公準)」を探るなどの研究がかなり早くから行われていたようだ.たとえば,139 年ころ活躍したプトレマイオスが「ユークリッドの第5公準の証明」を試みていたらしい.ただ,これはもともと数学という領域が「厳密な議論」に向けての志向性があったという話に過ぎないようにも思う.実際,18 世紀ころには「数える」という心理的過程へ数概念を帰着させることによって基礎づけるという試みはあったようだ(数 (上) (シュプリンガ-数学リ-ディングス)).むしろ,このレベルで「きっかけ」と言って良いのなら「ユークリッド幾何(で用いられていた公理的方法)が『きっかけ』で『数の概念の厳密化』は行われた」と言っても良いことにならんか?普通こういうのも「きっかけ」とは言わんだろう?
正直に言って,非ユークリッド幾何学の確立が「数学(幾何学)の在り方を変えた」のは正しいとしても,「基礎を揺るがした」というのにもかなり違和感がある.というのも,非ユークリッド幾何学の確立は,ユークリッド幾何学の基礎を揺るがしたわけではない.かなり初期から「ユークリッドの第5公準」の妥当性やそれを基礎として用いることを疑われていたわけで,非ユークリッド幾何学は単に「新しい幾何学」を確立したに過ぎないように思う.むしろ,非ユークリッド幾何学は「ユークリッドの第5公準」が「ユークリッド幾何学」に必須の「公理」であることを示した側面もあるので,「ユークリッド幾何学の基礎を固めた」とすら言えるだろう.
非ユークリッド幾何学の確立およびその物理的な応用の発見で深刻な打撃を受けたのは「カントの数学の哲学」である.カントはユークリッド幾何学を「直観に合う唯一の幾何学」であり,「ユークリッドの第5公準」は必然的に成り立つと考えて論を組み立てていたらしい.当然,そのような立場は「ユークリッド幾何学」の「絶対性」を崩す「非ユークリッド幾何学」の発見・確立によって揺らぐ*43.もしかすると,笑わない数学のスタッフ・監修者はカントの数学の哲学における立場が「非ユークリッド幾何学」の発見・確立により揺らいだことを「数学の危機」ととらえているのかもしれないが,その見方はあまり一般的ではない

ともかく,19 世紀後半に「数学の厳密化」が一気に進み,「自然数の定義が為された」のは,やはり,カントールらによる集合論の確立およびフレーゲらによる論理学の発展が寄与する部分が大きく,またモチベーション面でも「微積分(極限など)の厳密化をしたい」というのが大きいように思われる.番組内で取り上げられた内容において,非ユークリッド幾何学の果たした役割はわざわざ取り上げるほど大きくないのではないだろうか.もし,(あまり一般的でない)「非ユークリッド幾何学が19世紀における数学の厳密化特に『自然数の定義をする』モチベーションとなった」という見解を述べるのであれば,しっかりした根拠とともに述べないと不誠実ではないだろうか.

非ユークリッド幾何学は「数の概念の厳密化」の「きっかけ」になったとする説明に対する疑念のまとめ

  • 非ユークリッド幾何学が他の数学者の注目を集めたタイミングを考慮すると,時系列として「数の概念の厳密化」の動機とはなりえない
  • そもそも非ユークリッド幾何学の存在が「数学の危機」のきっかけになったとは考えにくい

「ラッセルがヒルベルトプログラムに魅了された」というナレーションに対する疑念

ちなみに,番組内で「ラッセルはヒルベルトプログラムに魅了された一人」と紹介されていたが,これも初めて聞いた.ヒルベルトは形式主義者にラッセルは論理主義者に分類されるので,そもそも思想の系統が異なる.さらに,1922年にヒルベルトプログラムが提示されているが,ラッセルは1919年に"Introduction to Mathematical Philosophy"という教科書を書いて以降,数学の哲学関連で目立った仕事をしていないことを鑑みると「ヒルベルトプログラムに魅了された」とするのは考えにくい.もしかすると,ヒルベルトプログラム以前のヒルベルトの思想から何らかの影響をラッセルが受けたことはあり得るかもしれないが,そのようなことをあまり聞いたことはない.仮にそれが正しかったとして,それを「ラッセルがヒルベルトプログラムに魅了された」と表現するのはどうなのだろうか.......
推測だが,笑わない数学のスタッフは「数学の基礎に対する試みは全部ヒルベルトプログラム」と勘違いしている節があるので,「ラッセルがヒルベルトプログラムに魅了された」は「ラッセルが数学の基礎について仕事をした」という意味で使ったのかもしれないが,いくらなんでも「そうは言わんやろ」という思いが強い.
ちなみに,逆に「ラッセルの研究からヒルベルトが影響を受けた」というのはあるようだ."Hilbert’s Program (Stanford Encyclopedia of Philosophy)" やRichard Zach,"The Practice of Finitism: Epsilon Calculus and Consistency Proofs in Hilbert's Program | Synthese", 2003 にはラッセルとホワイトヘッドの "Principia Mathematica" での成果に強い影響を受けたが,最終的に彼らの方向性を拒絶した旨が書かれている.
(2023/11/07 追記)番組が参考文献として制作ブログ(#3 「1+1=2」(シーズン2) - 笑わない数学 - NHK)に挙げていた『ゲーデル 不完全性定理 (岩波文庫 青 944-1)』の p.85 に「ラッセルがヒルベルトプログラムに醒めた視線を向けていた」という旨の記述があることを発見した.『ゲーデル 不完全性定理 (岩波文庫 青 944-1)』にどうも信用が置けないので,この記述の正しさはわからないが,少なくともこの番組のスタッフは読んでもいない本を参考文献にあげるようだ.ちょうど隣のページにヒルベルトプログラムの説明が載っているので,「目に入らなかった」というのは無理があると思う.(追記終わり)

「ラッセルがヒルベルトプログラムに魅了された」というナレーションに対する疑念のまとめ

  • 「ラッセルがヒルベルトプログラムに魅了された」というのは次の事実から考えにくい
    • ヒルベルトとラッセルでは思想の系統が違う
    • ヒルベルトプログラムがはっきりした形で提示されて以降,ラッセルの数学の哲学に対する目立った仕事はない

「\(1+1=2\)」の回はどう改善されるべきか

「\(1+1=2\)」の回はどう改善されるべきかについて考えを述べよう.いや,正直そこまでやってやる義理はないんだけどさ.コメントはくれるのにそこまでは考えられないし考える方法もわからんマンがワリと居るみたいなんでね.......ちょっとは自分でも考えてみなさいよ,とは思っている.これも「単位を取るために」「試験のために」勉強している人間が増えている弊害か?ぶっちゃけ,「誤りを指摘する」だけで「反論記事」としては十分というのが普通の考えだとは思うけどね.
さてさて,修正の方向性として考えられそうなのは

  1. 元の企画に寄せつつ細部を改善する.
  2. 元の企画を捨てて「1+1=2」の説明に特化する.
  3. 元の企画を捨てて「ヒルベルトプログラム」の説明に特化する.
  4. 元の企画を捨てて「不完全性定理とそれ以降の発展」の説明に特化する.
  5. 現在の監修をクビにし,まともな監修を雇う.
  6. 企画そのものをやめる.

のどれかではないかと思う.「元の企画」を捨てちゃうと「改善」というより「作り直し」になっちまうので,細部を改善する方向で考えてみよう.
前半の修正は簡単である.

  • 非ユークリッド幾何学への言及をやめる
  • 『「数」という集まりが存在する』と言うのをやめる
  • ペアノ自身の公理について」の説明にするか「現代的なペアノの公理」についての説明にするかを選択する.
    • 前者にするなら "1" 始まりの公理に変えれば問題ない.
    • 後者にするなら単に「現代的なペアノの公理は次のように『数』の性質についての数学者の間のコンセンサスから得ることができます」という主旨のナレーションを追加すればいいだろう.「構造」についての説明も入れられるといいが,まぁ,贅沢は言うまい.

これだけである.時間もそんなに変わらんだろう.
後半については頭を抱える.ほぼ嘘しか言っていないので,ここは一から作り直すしかない.一案だが,次のような感じでどうだろうか:

  • 「19 世紀後半には数学の厳密化についてさまざまな議論が行われていました.そういう試みの中でもヒルベルトによる『ヒルベルトプログラム』について説明しましょう」というナレーションから始める.
  • 「ヒルベルトプログラム」が「数学の形式化」→「(形式化された古典数学の)無矛盾性を示す」という計画であることを説明.
  • 「矛盾」すると「任意の言明が証明可能になってしまう」という説明.「こういう体系は役に立たなさそうですね.こういうことが起こっていないことを示したいんですよ~」というナレーション.
  • 「不完全性定理」の衝撃の説明.ここから花開く数理論理学の歴史のうち,ヒルベルトプログラムに関わることのいくつかを説明.たとえば以下.
    • Gentzen の PA に対する無矛盾性証明と「有限の立場」の接触の説明.
    • "Relative Hilbert Program" の説明
    • 逆数学の説明.

オチは「数理論理学者は『不完全性定理』の衝撃を受けてかえって,分野を発展させました.僕も見習って『笑わない数学』を発展させるぞ.みんな心を合わせるために"15+24=39"を証明しようぜ!みんなで"39"しようぜ」とか「無矛盾であることを示すのは難しいんですね.僕もね,嘘をつくときに『無矛盾』になるようにつこうとするんですが,これがなかなか難しいんです.数学者の力で何とかならないんですか?『あるかもしれません』え?『認知論理という道具があって』もうええ!もうええ!いろんな論理がこの世にはあるんやな!数理論理学広いな!(追っかけてくる数学徒から逃げるパンサー尾形)」みたいな感じでええんちゃうんか?

いや,やっぱり,企画そのものをやめたほうが......

総括

今までの話を総括する.
冒頭の繰り返しになるが,今回番組内で起きた説明の間違いは「わかりやすさのために厳密さを捨てた説明だから」というたぐいのものではない.特にいくつかの誤りについては,誤っている上に冗長な説明になっている.また,歴史的事実に関する描写や言説もかなりの程度の疑いを持たざるをえない.
「わかりやすさのために厳密さを捨てた説明」は本来「大部分の場合には通用するが,細かいところではうまくいっていない比喩」というようなものを指しているのであって,単に「間違っている」説明ではないはずだ.昨今はなぜか,「わかりやすさのために厳密性を捨てる」という言葉を「アウトリーチの際は間違ったことを言ってもよい」という免罪符のように使っている人々をよく見かけるが,単に「間違った説明」をすることが果たしてアウトリーチという目的にかなったものだろうか.
冒頭で述べた通り,第2シリーズ 1+1=2 - 笑わない数学 - NHK は映像作品として,よくできていたと思う.しかし,これは「誤った主張を最後まで飽きることなく多くの人に見せて,伝えてしまった」ということでもある.『笑わない数学』のスタッフにはもう少し慎重に番組を制作していただきたい.せっかくの映像制作技術を腐らせないでくれ
数学基礎論や数学史はかなり特殊な分野なので,「普通の」数学者を監修に入れるだけではダメである必ず,当該分野の専門家を監修に入れることを徹底していただきたい.また,数学基礎論では,ちょっとした言い回しを間違えるだけで,全く違う意味になってしまうことが頻繁に起きる分野であるから,いつもよりも丁寧に制作をしていただきたいそれがわたしの願いである
公共の電波に乗った作品を批判する以上,細心の注意を払って批判したはずだが,万が一この記事に誤りがあった場合は根拠付きで提示していただけると助かる.不当な批判はわたしの本意ではない.あ,さすがにタイポレベルの指摘なら,根拠付きでなくてよいけど.
最後に私の愚痴を叫んで終わりたい.
公共の電波に大半が間違っているような番組を垂れ流すのは勘弁してくれ!訂正する方は,念のための調査の手間がかかるんだよ!当該分野の専門家を入れる手間とコストを惜しむんじゃねぇ!

謝辞

【速報版】 1+1=2 笑えない数学 - Sokratesさんの備忘録ないし雑記帳 の公開後の追加調査に協力してくれた,Twitter アカウント @wakaruhitohawak 氏に大変に感謝している.彼の協力の申し出は,調査のあまりの面倒さにこのフルバージョンを書くのが嫌になっていたわたしをとても勇気づけてくれた.彼は主にペアノの著作についての調査に協力してくれた.
また,友人の W 氏と Y 氏にも感謝している.この誰も幸せにならないが,誰かがやらねばならなかったこの記事の作成に際して,陣中見舞いを送ってくれた.そのうち,何かおごるつもりで居る.
(2023/11/08 追記)
この記事を読んでくださった皆さんに感謝申し上げる.また,あからさまに不当な批判を含んだコメント以外のコメントをくださった皆さんに感謝申し上げる.コメントについては一部についてのみで申し訳ないのだが,1+1=2 笑えない数学へのコメント・反応に対する応答 - Sokratesさんの備忘録ないし雑記帳にてコメント返しを行っている.
最初に敬礼をしていただいた @MarriageTheorem 氏には敬礼を返した.方角が分からなくて適当な方向にだったが,心のなかの方角は完璧に @MarriageTheorem 氏の方に向いていた.
せきゅーん(せきゅーんさんのプロフィール - はてな)氏は,ありがたいことにいの一番に感想を寄せてくださり,いくつかのタイプ間違いを指摘してくださった.せきゅーん氏の運営するブログ INTEGERS は数論周りの面白い話題を多く扱ってくださっており,時折見に行くととても面白い.現在,せきゅーん氏自身がとても忙しいそうで,最近更新頻度が減っているのが少しだけ残念である.過去の記事だけでもとても面白いのでぜひ見に行ってほしい.
数理論理学新人類こと Alwe 先生(@Alwe_Logic)に本質的な指摘をいただいたので,追記で処理をさせていただいた.とても感謝している.
ディレッタンティズムの倫理と聖霊の働き氏(@PhlebotomeH)とごうら氏(@GourikiKorin)に追加で資料を提供していただいたのだが,資料の吟味がひつようなため,ブログの記事に彼らからもたらされた情報は反映していない.しかしながら,資料を提供した頂いた事自体には大変に感謝している.
静間荘司氏と鴨浩靖先生からはこのブログの公表後,激励品を頂いた.両者とも現在の居住地から見て西の方にいらっしゃるようなので,西に向かって感謝の土下座を行った.
(追記終わり)
(2023/11/12 追記)
K.Y. さんと N.A. さんからも激励品をいただいた.ありがとうございます.
(追記終わり)

参考文献

sokrates7chaos.hatenablog.com
sokrates7chaos.hatenablog.com

Hilbert’s Program (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

Michael Detlefsen, "Hilbert’s Program", Dordrecht: Reidel,1986
Michael Detlefsen, “On an alleged refutation of Hilbert’s program using Gödel’s first incompleteness theorem,” Journal of Philosophical Logic, 1990,19: 343–377.
Gerhard Gentzen, “Die Widerspruchsfreiheit der reinen Zahlentheorie,” Mathematische Annalen, 1936
D. Hilbert, "Über das Unendliche." Math. Ann. (1926).
Craig Smorynski, “The incompleteness theorems,” in Handbook of Mathematical Logic, 1977
Richard Zach,"The Practice of Finitism: Epsilon Calculus and Consistency Proofs in Hilbert's Program", 2003

おまけ:ラッセルのパラドクスと床屋のパラドクスについて

【速報版】への反応を見ているとラッセルのパラドクスと床屋のパラドクスの関係について,ピンと来ていない人々が居たので,これをすこし解説する.これは番組への批判ではないので「おまけ」とする.

ラッセルのパラドクスとは

「ラッセルのパラドクス」と一般的に言われるのは,次のような「集合論」における議論である*44.\(C\)というクラス(ものの集まり)を次のように定義する.
\(C=\{ S | S \text{は集合.} {S}\notin {S}\}\)
つまり,\(C\) は \({S}\notin {S}\)を満たす集合\(S\)をすべて集めたものである.このとき,\(C\) は集合だろうか?
\(C\) を集合だと仮定してみよう.このとき,\({C}\in {C}\)または\({C}\notin {C}\)である.
\({C}\in {C}\) とする.このとき,\(C\) の定義から \({C}\notin {C}\)である.矛盾.
\({C}\notin {C}\) とする.このとき,\(C\) の定義から \({C}\in {C}\)である.矛盾.
ゆえに\(C\) を集合だと仮定すると矛盾する.よって,\(C\) は集合ではない.

この議論がパラドクスと言われるのは「集合とは『物の集まり』のことである」という素朴な立場からは「\(C\) は集合ではない」という結論が奇妙に思えるからである.現代では,「集合とは『物の集まり』のことである」という素朴な立場に問題があると考えられているので,そこまで問題になる話ではない,とされる.

床屋のパラドクスとの対応

Barber paradox - Wikipedia の説明を信じると,床屋のパラドクスは上の議論の比喩してラッセル自身が使っていたものらしい.所詮はたとえ話なので,上の議論に比べるとどうやっても穴はあるのだが,ともかく床屋のパラドクスとは,次のような話である*45

ある村には床屋が一軒しかないという.その床屋の主人(村の住人)が「この村の人間は全員自分では髪を切らず,全員,わたしが切る」と発言した.この発言が正しいとしてみよう.すると,「床屋の主人」の髪は誰が切るのだろうか?
もし,「床屋の主人」が「床屋の主人」の髪を切ると仮定しよう.すると「この村の人間は全員自分では髪を切らない」という条件に矛盾する.
では,「床屋の主人」が「床屋の主人」の髪を切らないと仮定しよう.すると今度は「全員,わたしが切る」という条件に矛盾する.
これは奇妙である.床屋の主人の発言は誤りだったのだろうか.

オチとして「実は,床屋の主人は永久脱毛で髪を生えないようにしているのでどこにも問題ない」と続くこともある.
この議論は「ラッセルのパラドクス」と次のような対応を考えると似ている.これが比喩として使われた理由である.

  • 「この村の人間でかつ自分で髪を切らない」→\({S}\notin {S}\)
  • 髪を切る必要のある村の住人→ \({S}\notin {S}\) を満たす集合
  • 「全員,わたしが切る」→\(C\)が「髪を切る必要のある村の住人全体であること(\({S}\notin {S}\) を満たす集合の集まり)」という表明.
  • 「床屋の主人がこの村の(髪を切る必要のある)住人であること」→ 「\(C\)は集合」という仮定
  • 「床屋の主人」が「床屋の主人」の髪を切る → \({C}\in {C}\)
  • 「床屋の主人」が「床屋の主人」の髪を切らない → \({C}\notin {C}\)

正直,比喩を使わない方がわかりやすいとも思う.

比喩から戻ってこれないバカをパンサー尾形に演じさせるなよ.......

ところで,どうでもいいことなのだが,床屋のパラドクスの説明の後のパンサー尾形氏のセリフ*46には呆れてしまった.

パンサー尾形「数学者って変な人たちですよね,『散髪屋の主人のひげを剃るのは誰か』を考えないと数学の基礎ができないなんて」

"Amazing! Every word of what you just said was wrong."(すごい!おまえの言うことはすべて間違っている)というルーク・スカイウォーカーのセリフを言いたくなる.......とりあえず,パンサー尾形に「比喩から戻ってこれないバカ」を演じさせるのはやめてやれ.......「あぁ,わかってないんだな(スタッフが)」という印象が強まるし,そんなにおもしろいネタでもないし.......

過去に起きた「笑わない数学」のミス

笑わない数学で「RSA 暗号」を放映したときも技術的な点(数学的な話ではない)で間違いを犯していたらしい.その経緯が以下の Togatter にまとめられている.
togetter.com
この件はオンデマンド配信でテロップを流して対応したらしい.
「1+1=2 笑わない数学」の場合,後半がほぼすべて間違っており,しかも数学的な内容も間違っているので,テロップ流すくらいじゃどうしようもないと思うんですが,どうするんですかね.......開き直って,「どこが間違っているでしょうか?できるだけ指摘してみましょう」という教材として,「この放送には誤りが多数含まれております」と斜め上にずっと表示しておくのはどうですか.

コメントや反応に対する返信

コメントや反応に対する返信は別記事にしました.
sokrates7chaos.hatenablog.com

はてなブログランキング掲載

この記事は以下のランキングで 13 位をいただいた.ありがとうございます.
blog.hatenablog.com

*1:を作ったスタッフにゴーサインを出した専門家の監修者」の部分は 2023/11/10 に修正されたものである.これは軽口とはいえ,誰に一番問題があったのかの自分のスタンスに合わないと思ったので修正した.この記事を書き始めた当初はどこに一番の問題があったのかの切り分けができていなかったようである.スタッフの方には申し訳なく思っている.(2023/11/10 追記)

*2:難しい内容をどうしても含むので,全部は無理かもしれないというニュアンス.数字に意味はない.本当に難しい箇所も多いので,わからなくても自分をあきらめないでほしい.質問はコメント欄などからしてくれれば,答えるので,わからなければ質問をしてほしい.質問をまとめているうちに,質問するまでもなくわかって読めるようになることもあると思うので,申し訳ないが,質問をまとめる努力はしてくれ.

*3:もし,あなたが大学1,2年生程度の数学までを学んだことがあり,かつ,数理論理学の本などで「論理式」,「構造」,「証明図」の定義を読んだことがあるならば,ほぼすべて言っていることはわかるはずである.そういう自負があった上で 5,6回以上読んでもわからない箇所があれば,何らかのミスをこちらがおかしている可能性が高い.その場合コメント欄などから教えてほしい.

*4:まぁ,正直に言うと 『土偶を読むを読む』を読んで - Sokratesさんの備忘録ないし雑記帳 の件で見た「NHK によるコメント捏造事件」の経緯から NHK (ないしは NHK に出入りしている製作業者)の専門知に対する態度にそこまで信頼が置けないので,「どうせ直接指摘しても読まないだろう」と思っているのもある.

*5:クレジット上は小山信也氏のみが監修者になっている.もしかしたら,他の人間を監修の補助として呼んだのかもしれないが,その場合は「ゴーストオーサーシップ」という別の問題をも含むことになる.いずれにせよ,こちらとしては,小山信也氏のみを監修者として扱うしかない.

*6:ついでながら,わたしの専門分野の発展が「不完全性定理」以降なかったかのような扱いの演出も残念に思っている.

*7:(2023/11/12 追記) 「グレーゾーン」の例として「(ヒルベルトら数学者は)論理に対する強い信頼があったんだなぁ」という主旨のパンサー尾形氏のセリフがある.「論理」というより「数学(という名前の記号操作のゲームと彼らがとらえていたもの)」に信頼があったのがヒルベルトら「形式主義」だったので,かなり違和感のあるセリフである.たぶん,「論理主義」の説明として書かれた文言を勘違いしてこういう言い方をしている.とはいえ,まったく「論理」に信頼のない数学者はいないだろうし,初期のヒルベルトを「論理主義者」としてみなす方も居る(Sieg 1999)ようなので,これについては批判の一覧に加えていない.(追記終わり)

*8:ちなみにこの本自体も少し問題のある本である.『ペアノ 数の概念について (現代数学の系譜 2)』には二つ論文が乗っているのだが,片方の論文,それも「ペアノの公理」が書いてある方の原文のタイトルがはっきりと書いていないのである. なんてこった.おそらく,"Sul Concetto Di Numero Uno" であるとは思われるのだが,はっきりと書いてほしい.実はこれのせいで調査の過程で混乱が起きた.この批判を書くにあたって,ペアノの公理周りの話題については主に『数 (上) (シュプリンガ-数学リ-ディングス)』を参照している.が,この本には 『ペアノ 数の概念について (現代数学の系譜 2)』 は"Arithmetices principia: nova methodo exposita"の訳だと書かれているのである.このため,【速報版】の時点ではこちらの論文を参考にして批判を行っていた.だが,『ペアノ 数の概念について (現代数学の系譜 2)』を手元に取り寄せてみるとなんとびっくり,明らかに "Arithmetices principia: nova methodo : Giuseppe Peano : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive" と内容が違っている.急いで,さまざま調べたところ "Sul Concetto Di Numero Uno : Peano, Giuseppe : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive"にたどり着いた(かろうじて原文の出版年は書いてあったので何とかなった).この混乱の件については共立出版と丸善出版とそれぞれの本の訳者たちに明確に責任があるので,ちゃんとしてほしい💢💢💢.それはそれとして,『ペアノ 数の概念について (現代数学の系譜 2)』はとてもとても読みにくかった.というのは,原文の訳と訳者による解説(のようなもの)が交互に挟まれる上に,どこが「本文」でどこが「解説」なのかはインデントのみで区別されているので,とても見づらいのである.この見づらさは何とかならんかったのか.

*9:(2023/11/22 追記)『ペアノ 数の概念について (現代数学の系譜 2)』を読み返しているとそもそもペアノ自身は「数を定義できない」と考えていたようである(ペアノ 数の概念について (現代数学の系譜 2) p.138).なので, ここの記述はこちらの早合点で,不当な批判になっているため,削除した.本文中でこの後述べる通り,この時代は「公理」という概念が変わっていく時代である.その時代に行われている営みである以上,現代の感覚で読み取ること自体が誤っていたようである.深く反省している.ここの記述を鵜呑みにされた皆さん,大変に申し訳ありません.(追記終わり)

*10:より厳密に言うと,文中では「原始命題」となっている.

*11:ちなみに,『数 (上) (シュプリンガ-数学リ-ディングス)』 によると,Arithmetices principia: nova methodo exposita を「ペアノが定義を確立した」文献として引かれているが,現代知られている後者関数を使うものは Sul Concetto Di Numero Uno が初出のようだ.また,そもそも自然数の定義自体は Dedekind に帰着するのが適切らしい(数 (上) (シュプリンガ-数学リ-ディングス)).もっとも,Dedekind にとっては集合論の中で自然数を定義することが目的であり,「自然数論」を展開することに主眼があったわけではないので,「公理」という形では表していない(数について: 連続性と数の本質 (岩波文庫 青 924)).「公理」という形で書き下したのはペアノの功績なので,自然数の公理は「ペアノの公理」と呼ばれているようだ.(2023/11/22 追記) 別の脚注にも追記したが,ペアノ自身は「数(正の整数)を定義できない」と考えていたらしい.あくまでも「正の整数」の性質を導けるような簡単な性質群(公理)を与えたかったという話らしい.(追記終わり)

*12:演繹とは「前提がすべて真であるとき,結論は常に真」という条件を満たす推論形式を指す.

*13:幾何についての「公理」を Euclid はそう呼び分けていた.

*14:実際,ペアノ自身も『ペアノ 数の概念について (現代数学の系譜 2)』 p.100 において,「数の概念は論理的な語彙によって定義できないが,数についての無数のよく知られた性質をすべて導き出せるようないくつかの性質を述べることはできる(主旨)」としたうえで,『ペアノ 数の概念について (現代数学の系譜 2)』 P.101 において「定義しないでおく概念は数 \(N\),イチ \(1\)と当分の間 \(a+\) で示すところのある数 \(a\) の次の数という概念である」と書いている.これは現代風に言うと「数 \(N\),イチ \(1\)と『\(a\) の次の数』は未定義語として扱い,『(自然)数』についての無数のよく知られた性質をすべて導けるようなの(正しい)信念についての言明の集合(『自然数の公理』)を与えよう」という宣言であろう.ここで,ペアノの公理に出てくる「数 \(N\),イチ \(1\)と『\(a\) の次の数』は未定義語」というと,現代の数学の人間はびっくりするかもしれない.「ペアノの公理によって,数 \(N\),イチ \(1\)と『\(a\) の次の数』は定義されているんじゃないの」というのが,現代の数学の人間の感覚であろう.ただ,よくよく考えると,ペアノの公理を見ても「数 \(N\),イチ \(1\)と『\(a\) の次の数』とは何か」の定義は書いていない.ただ,その性質が書き表されているのみである.そういう意味で,「数 \(N\),イチ \(1\)と『\(a\) の次の数』は未定義」なのである.同様の手法は,ユークリッドの幾何学を現代的に(と言っても19世紀末から20世紀初頭の基準で)書き直した『幾何学基礎論 (ちくま学芸文庫 ヒ 8-1 Math&Science)』においても用いられている.この本の最初に収録されているヒルベルトの論文では「点」「直線」「平面」「横たわる」「合同」などが未定義語として登場する.

*15:「有限非可換体の公理」というものを考えることはできるが,実はこの公理を満たす対象は存在しないことが知られている.これは任意の有限体は可換であるためである(有限体 - Wikipedia).

*16:もしかすると,ここで賢い人は「自然数が構造ってことは,モノイドの公理を満たす対象が複数あるように,自然数も複数あるのか」と思うかもしれない.それはある意味ただしい.「自然数」の公理をみたすような対象はすべて自然数である.ただし,これらは「同型を除いて一意」つまり「すべて同じ『構造』」であることが知られている.そういう意味ではやはり「自然数は複数ない.一つだけ」とも言える.

*17:自然数の具体的な構成方法は自然数の定義 - Sokratesさんの備忘録ないし雑記帳に大昔に書いた.

*18:と,受け取ったが,そもそも説明が支離滅裂すぎて,何を言っているのかわからないので,番組スタッフの意図は違うのかもしれない.または,番組スタッフもわけもわからず作っていたため,あの説明は「ワードサラダ」なのかもしれない.この場合,意味を考えること自体が不可能だ.

*19:「『A または B』かつ『A でない』ならば『B』である」という形式の推論は普通の感覚では「妥当」だろう.

*20:実はこの件も状況が若干複雑で,矛盾する体系であってもカリーハワード同型を通して,計算論的には意味のある場合がある.

*21:ドイツの数学者(1848-1925).数学基礎論黎明期の論理主義者として有名.「量化」の概念を最初に考えた人.かなりの重要人物にも関わらず,笑わない数学のスタッフに存在を無視された.かわいそう.ゴットロープ・フレーゲ - Wikipedia

*22:ここの記述は『数学を哲学する』を完全に信用して書いている.『フレーゲ著作集 6 書簡集』に載っているらしいが,未確認である.

*23:実際のところ,「公理系が無矛盾であるならば,その公理を満たす対象(モデル)が存在する」は「一階述語論理」と呼ばれる(形式的)論理の範囲では成り立つ(一階述語論理の完全性).が,「二階述語論理」の範囲だと標準解釈の下では成り立たない(二階述語論理の標準解釈における不完全性."Foundations without Foundationalism: A Case for Second-order Logic (Oxford Logic Guides)"を参照).

*24:この段落の「論理主義」や「ラッセルの仕事」についての説明は『数学を哲学する』の論理主義の章を自分なりに(雑かもしれないが)まとめたものである.が,正直理解が怪しい気もしている.万が一明確な誤りがあったら根拠(できれば文献)付きで教えてほしい.

*25:この件で「有限算術」なり「有限の立場(有限主義)」なりに興味を持った方は,"Hilbert’s Program (Stanford Encyclopedia of Philosophy)"に挙げられている文献とか, Zach, Richard. “Hilbert's program then and now.” arXiv: Logic (2005): 411-447. とかを読み込んで,可能なら私の代わりに解説記事を書いてくれ.

*26:(2023/11/06 追記)『ゲーデル 不完全性定理 (岩波文庫 青 944-1)』の p. 84 にそのような記述をようやく発見できた.ただ,この本の解説にはかなり疑問点が多くまったく信用ができない.どうも,文献の恣意的な読み取りを行っているように見える箇所が何か所もある.(追記終わり)

*27:(2023/12/3 追記)英語版や日本語版だと別の言い回しをしているのだが,ドイツ語版の Wikipedia を見ると,"Vollständigkeit von Kalkülen" と "Vollständigkeit von Theorien" でこれらが区別されている(Vollständigkeit (Logik) – Wikipedia ).直訳すると「計算の完全性」と「理論の完全性」である.しかし,ここで言う "Kalkülen" が「形式的論理体系」のことを指すと考えられるため,前者は意訳として「論理の完全性」と呼ぶことにした.ここからは裏話.実のところ,この用語法自体は,おそらく初めてではなく,以前他の人が使っているのを聞いたことがある.数理論理学者同士のコミュニケーションで混乱したときに使ったこともあるが,普通に通じるので,おそらくある程度一般的な言い回しのように思う.ただ残念なことに,日本語の文献でそのような区別のされ方をしている本は私の覚えている限り存在しないので,その確信が最初は持てなかった.そのため,好きな言い回しではないが,日本語版 Wikipedia のように「意味論的完全性」と「構文論的完全性(または否定完全性)」で区別しようと当初は考えていた.だが,ヒルベルトの文献を調べるにあたって,ドイツ語版の Wikipedia を見たところ,上記のような区別をされているのを発見した.今後は,自信をもって「論理の完全性」と「理論の完全性」で区別をしていこうと思う.(追記終わり)

*28:ピンとこない人は「モノイドの公理」を想像してくれ.

*29:論理学に詳しくない人は,閉論理式を単に「文」と思っておいてくれればいい.論理式はすべて(全称量化というものを使えば)同値な閉論理式を持つので,テクニカルにはともかく,(細かいことを置いておけば)実質的には大した話ではない.

*30:(2023/11/06 追記)『ゲーデル 不完全性定理 (岩波文庫 青 944-1)』の p.122 に 『ヒルベルト 数学の問題 -ヒルベルトの問題- 増補版 (現代数学の系譜)』 を引いたうえで,まさにこの宣言をそのように解釈しているのを発見した.『ヒルベルト 数学の問題 -ヒルベルトの問題- 増補版 (現代数学の系譜)』を読むかぎりでは「そうは読めない」のだが.(追記終わり)

*31:この本の解説に目を通すと,「公理系の満たすべき条件」にヒルベルトが語っていない「完全性」を勝手に付け加えてしまっているのを発見した.どうもこの誤解の根は思っているよりも深いのかもしれない.(2023/11/06 追記)『ゲーデル 不完全性定理 (岩波文庫 青 944-1)』の p.210 にも勝手に「完全性」を付け足して読み取った評価を書いているのを発見してしまった.書いてないことを読み取らないで.......(追記終わり)

*32:ただし,普通,「幾何の完全性」は Tarski の業績とされることが多い.このあたり,どういう関係なのか解説できるほどよくわかっていないので.要調査である.

*33:他の脚注などでも述べたが,『ゲーデル 不完全性定理 (岩波文庫 青 944-1)』の記述内容にわたしは疑いを抱いている.

*34:この条件はこの定理にかなり本質的で,この条件を外せば(2),(3) の条件を満たしながら完全な理論が存在する.つまり,"初等的な自然数論"を含む無矛盾で完全な理論は存在する(たとえば True Arithmetic).不完全性定理はこういう「計算論」的な側面も大きい定理なので,昨今の一般書や哲学書などに見られる「計算論的側面」を無視した紹介や議論にはかなり違和感がある.この辺の不完全性定理の計算論的な側面に注目した一般書として『コンピュータは数学者になれるのか?』があるので,興味のある方は読んでみてほしい.

*35:わたしの知っている限りこの条件を見たす最も弱い算術は「モストウスキ・ロビンソン・タルスキの体系」である.細かいことは数学基礎論序説: 数の体系への論理的アプローチなどを参照してほしい.

*36:厳密には,これは単なる「無矛盾」よりも強い条件である.が,ここを単なる「無矛盾」に変えても同様の定理が成り立つことが知られている(ロッサーの定理).この点はテクニカルにおもしろい話題を含むのだが,ここでは細かいことは置いといて,ここ以降は単なる「無矛盾な」と読み替えて,話を進めている.

*37:まぁ,第二不完全性定理の導出にこの定理は使われるので,関わってくるといえば関わってくるのだが.伝説では,フォン・ノイマンは第一不完全性定理についてのゲーデルの講演の直後に,第二不完全性定理を直覚したらしい.で,ゲーデルの講演の直後に「お前のヒルベルトプログラムやばくね?」という趣旨の手紙をノイマンはヒルベルトに送ったらしいが,その手紙の文面をわたしは確認できていないし,どこでその手紙を読むことができるのかも知らない.

*38:一階述語理論とは一階述語論理に非論理的公理を加えた体系である.例として,Peano Arithmetic(PA) や ZFC があげられる.

*39:もっとも,この証明については \(\varepsilon_{0}\)-induction という手法を使っているので「有限算術」でとらえられないのではないかという議論はあるが.

*40:(2023/11/08 追記)ちょっと,細かい話になるので,脚注で.不完全性定理絡みで「正しい」という言葉が出てくることはあり得る.ただし,この場合「ある特定のモデルで正しい」という相対的な話である.「(理論の)不完全性」の一つの理解として,「『ある特定のモデルで真になる』が,証明できない文が存在する」という理解もある.たとえば,「「証明も反証もできない命題」は「難問」……?」のモノイドの例で言うと (A) は\(\left(\mathbb{R}, +, 0\right)\)で真になるが,モノイドの公理から証明できない.「正しいのに証明不可能な命題が存在する」という表現自体はこういう「(特定のモデルでは)正しいのに(他のモデルでは偽になる)証明不可能な命題が存在する」ことを指しているわけだが,この後に続く発言から考えて,このあたり理解して使っているわけではないと思われる.「不完全性」の説明にしかなってないしね.他の脚注でも述べているが,「不完全性定理」の計算論的な側面を無視した解説や言説はちょっと疑ってかかった方がいい.(追記終わり)

*41:(2023/11/12 追記)仮に『ゲーデル 不完全性定理 (岩波文庫 青 944-1)』の内容を信じたとしても「古典数学の無矛盾性と完全性を検証する」とか「数学の無矛盾性と完全性を示す」という表現になるはずである.いずれにせよ,説明としておかしい.「検証」と「構築」という全く違う行為の取り違えを言葉の言い回しの問題ととらえることはできない.(追記終わり)

*42:ちなみに,この方の詳細はよくわからない.調べても情報が出てこないので困っている.

*43:カントという偉大な哲学者の失敗について語るのは私には荷が重いので,その辺りを詳しく知りたい場合は『数学を哲学する』のカントについて扱われている章を参考にしてほしい.

*44:厳密には,オリジナルは「集合論」の議論ではないのだが,本質はそんなに変わらないし,「ラッセルのパラドクス」と現代で言ったら,「集合論」での議論を連想する人が多数派と思われるので,そちらを紹介する.

*45:番組で紹介されているものに手を加えているが,本質はそんなに変わらない.(2023/11/07 追記)番組のものから変えた理由をきちんと書いていなかった.元の話は「髪を切る」ではなく「ひげを剃る」というものだったのだが,その辺りについて「ジェンダーガー」という人が居たので,「そこは本質じゃないけど,気になるなら配慮するか」と思い変更した.ぶっちゃけ,いらん配慮だった気もしている.(追記終わり).

*46:微妙に言い回しは違うかもしれないが,趣旨はだいたいあっているはず.