Sokratesさんの備忘録ないし雑記帳

書きたいことを書いている.駄文注意.

『土偶を読むを読む』を読んで

2021年(この記事を書いている現在から二年前)に 『土偶を読む――130年間解かれなかった縄文神話の謎』 という本が話題になっていたことがあるらしい.正直,わたしはこの本を知らなかったのだが,サントリー学芸賞*1という名誉ある賞をもらったらしい.
www.suntory.co.jp
賞をもらっている以上, 『土偶を読む――130年間解かれなかった縄文神話の謎』 はさぞかし素晴らしい本なのだろうと思いきや,土偶やその周辺領域の研究をしている考古学者たちには評判が良くないらしい.たとえば,次の横浜の学芸員の方の記事は『土偶を読む――130年間解かれなかった縄文神話の謎』の根本的な部分に対して批判を加えている.
note.com
2023年4月に『土偶を読む――130年間解かれなかった縄文神話の謎』 に対する反論が主なテーマの『土偶を読むを読む』が発刊された.

この記事はこの『土偶を読むを読む』の感想を述べるためのものである.一般書とはいえ,学術についての本であるから,当然ネタバレには一切配慮しないが,事前情報無しで『土偶を読む――130年間解かれなかった縄文神話の謎』および『土偶を読むを読む』を読みたい人は,ここでブラウザのバックボタンを押すことを薦める.

『土偶を読むを読む』をわたしが読むにあたって

この節では「なぜ『土偶を読むを読む』を読もうと思ったか」や「この記事を書いているわたしの土偶や考古学についての関心や知識の度合い」などの私自身の背景を書く.必要がないと思ったら読み飛ばしていただいてよい.

この記事を書いている人がこの本を読んだ背景

わたしが『土偶を読むを読む』を読んだ理由・背景などについて述べる.
わたしがこの本を読む際に期待したことは次の二つである.

  1. 以前読んだ偽史の検証が絡む裁判の話が面白かったので,それと似たような読書体験を得たい.
  2. 「科学コミュニケーション」および「専門知の危機」について考えるための題材を手に入れたい.

1つ目にあげた点について述べる.否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い (ハーパーBOOKS)という本を以前読んだ.この本は次の裁判の当事者の一人(デボラ・リップシュタット氏)が当時のことを振り返る形式で書かれている*2
ja.wikipedia.org
この裁判は「ホロコースト否定論者であるアーヴィングが,『ホロコースト否認』という現象についての本を書いた歴史家のデボラ・リップシュタット氏とその本の版元のペンギン・ブックスを名誉毀損で訴えた」という案件である。ホロコースト否定論は簡単に言うと「ナチスによるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)は存在しなかった」という陰謀論である*3.この陰謀論を唱えるアーヴィングが,「自著(ホロコースト否定論)を批判したリップシュタット氏の本の内容はデタラメでありこれらの本の記述は名誉毀損である」と訴えたわけである.裁判はデボラ・リップシュタット氏の主張の正当性を争点として争うことになった.当時のイギリスの法律では名誉毀損裁判の場合,立証責任は被告側にあった*4.そのため,「デボラ・リップシュタット氏とペンギン・ブックス」側に「この本の主張は名誉毀損に該当しない」ことを示す責任が生じた.その論証の一部として,被告側は「ホロコースト否定論が荒唐無稽な仮説」であることを裁判中にしっかりと立証する責任を負うことになった.
否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い (ハーパーBOOKS)のおもしろさは,この裁判の「バカバカしさ」もさることながら,歴史学者のチームがアーヴィング氏の「ホロコースト否定論」を徹底的に歴史学の観点から検証する過程にある.「歴史的事実」というものが複数の史料に支えられているのだということがとてもよくわかり非常に興味深い.
『土偶を読むを読む』も同様に偽史を検証している.そのため,『否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い (ハーパーBOOKS)』と似たような読書体験を再び得られると期待された.
2つ目の点について述べる.コロナ禍以降われわれは「専門知」が無視されたり軽んじられたりする場面をたびたび見てきた*5.医学的にかなりあやふやな理由でコロナの区分が変えられてしまったことは記憶に新しい*6.また,京都大の西浦博教授が「感染対策を行われなければ」という前提の言説をその仮定を無視した批判を行うマスコミ関係者や政治関係者がいた*7
このような時代なので,「専門知とどう向き合うべきか」や「学術と一般社会の関係性」について我々は今までにも増して真剣に考えなければならないように思う.『土偶を読む』を巡る騒動はこのようなことを考える上で,ちょうどよい題材と期待された.そのため,『土偶を読むを読む』を読むことによってその辺りの事情を詳しく知ることができると期待した.
これらの期待を『土偶を読むを読む』は応えてくれた.不満な点が全くない訳では無いが,読んでよかったと心の底から思う.

この記事を書いている人の土偶周辺についての知識

『土偶を読むを読む』を読んだ時点での土偶周辺についてのわたしの知識は次のような状態であった.

  • 日本史の知識は小学生に毛が生えた程度.
    • 特に縄文時代についてはほとんど覚えていない.
      • かろうじて,「稲作が行われ始めたのは弥生時代以降」というのは知っていた.
  • 土偶については「遮光器土偶」のイメージが強く,それ以外にどのような土偶があるのかほとんど知らない.

つまるところ,ほぼ「縄文時代の素人」と言って差し支えない状態であった.しかし,必要な知識は『土偶を読むを読む』で適時与えてくれているので,一部の用語*8を調べる必要があった以外は特に問題なく通読することができた.

『土偶を読むを読む』の背景

この節では『土偶を読むを読む』という本の背景について述べる.先に述べた通りこの本は『土偶を読む』のカウンターとして生まれた.結果的に『土偶を読むを読む』の内容はそれ以外の部分も含んでいるが,やはり,『土偶を読む』とはどういう本だったのか,どういう経緯でどういう執筆陣により書かれたのか踏まえて読む必要がある.そのため,感想に入るまでに本の背景について述べる必要がある.

『土偶を読む』およびその作者について

まず,この本は『土偶を読む』という本に対する反論のために出版された側面がある.そのため,まず『土偶を読む』についてある程度説明する.
『土偶を読む』は人類学者(?)*9の竹倉史人によって,執筆された本で,晶文社から2021年4月25日に出版された本である.ふれこみとしては「イコロジーによって土偶の正体がわかった」というものであった.筆者曰く「土偶は〈植物〉の姿をかたどった」ものであって,なぜなら「実際,土偶の見た目が〈植物〉と似ている」かららしい.
ただ,筆者が「イコロジー」と主張しているものの実態は「見た目が似ているから,モチーフはこれに違いない」という(筆者の)思い込みを指しており,体系的でないので,学問の体を成していないようにこちらは感じる*10.一応,考古学の資料を引くなどの「論証」のようなことはしている*11
さて,この本は各界の著名人や専門家*12の支持を受けた.NHK などのメディアでは肯定的に取り上げられ*13,小学館からは『土偶を読む図鑑』という小学生向けの本も出た.ついには,サントリー学芸賞を得るに至った*14
分野外からは肯定的な評価を得た『土偶を読む』であるが,少なくとも考古学に素養のある方や考古学の専門家には否定的な評価が下されていた.たとえば,記事冒頭にも引いた『竹倉史人「土偶を読む」について|白鳥兄弟』や『土偶を読むを読む』の検証パートの元になったと思われる
『土偶を読む』を読んだけど(1)|縄文ZINE_note』では『土偶を読む』の根本的な部分に直接的に批判を加えている*15
専門家から見て杜撰な主張をする本というのは往々にして専門家から無視か簡単な批判をされてオシマイである.しかし,『土偶を読む』についてはその社会的な影響が以上で見たように大きかった.そのため,望月昭秀氏は『土偶を読む』を批判するための本(つまり『土偶を読むをよむ』)の出版を決めたらしい.

『土偶を読む』の検証者について

この節では「『土偶を読む』の検証を行うパートは職業的研究者(縄文時代の専門家)によって執筆されていない」という点について説明を行う.
検証パートの著者の望月昭秀氏は研究者ではなく,次の雑誌(not 学術誌)の編集長にすぎないらしい.
jomonzine.com
なので,あくまでも「縄文をネタにした面白雑誌を作っている縄文好きおじさん」が『土偶を読む』にツッコミを入れているだけであって「『考古学界』を代表して竹倉説を批判する」というわけではない*16.もっとも,他の部分で縄文時代の専門家などが出てくる以上ある程度のチェックは行われているようなので,専門家から見ても正当で妥当な批判であるようだ.実際,考古学者の吉田泰幸氏は「考古学・人類学の関係史と『土偶を読む』」という記事で次のように述べている.

『縄文ZINE』編集長・望月昭秀と、 考古学者でパントマイム(土偶マイム)のパフォーマーでもある白鳥兄弟の書評は、その中でも最速かつ的確なものだった。 『土偶を読む』の「読み方」が研究として一定の強度を有するものかどうかは、望月・白島兄弟の評で決着している。 両者の評を読めば、その土偶の読み方は恣意的な推論の域を出ていない、つまり白鳥兄弟の言うように「そのアイデアは十分に論証されておらず、反論を呼ぶような水準のものでもない」、「内容が不十分」と理解できる。筆者が同書を読んだ時には、両者の評によって形成された印象を確認するようなものになってしまった。そのため、『土偶を読む』の内容に関する議論には付け加えることがない。 (『土偶を読むを読む』 p.375.)

『土偶を読むを読む』全体を通して構成も,もしかすると雑誌編集者の感覚によってなされたものなのかもしれない.普通,学術系の本であれば一般書であっても似たような話題の記事は固まって配置されている.が,『土偶を読むを読む』はそうではない.たとえば,「土偶研究のサーベイ」として強い共通項のある「「土偶とは何か?」の研究史」と「土偶は変化する。」が離れて配置されている.学術系の一般書としては奇妙な配置だが,一般雑誌の記事の配置だと思うとかなり納得する.前から読むとバラエティに富んだ記事が載っているように思える配置なのである.

『土偶を読むを読む』全体に対しての感想

この節では『土偶を読むを読む』全体に対しての感想について述べる.
全体的な満足度は高い.後述するように一部の章の構成などに不満はあるものの本質的な部分はとても楽しめた.考古学はおもしろい.
『土偶を読むを読む』は大きく分けて二つのパートに分かれている.本の前半半分を占めるのが「検証 土偶を読む」である.この部分は編者でもある「縄文をネタにした面白雑誌を作っている縄文好きおじさん」こと望月昭秀氏によって執筆されている.このパートの目的は『土偶を読む』の「論証」部分の杜撰さを指摘することにある.後半は「『土偶を読む』をめぐる騒動」や「土偶研究」についてのエッセイや考古学者へのインタビュー記事になっている.
『土偶を読むを読む』の執筆陣に共通する問題意識として「『土偶を読む』をめぐる騒動の抱える問題」には次の二つの側面がある.

  • 『土偶を読む』自体の論証の杜撰さ(偽史の「論証」の杜撰さ).
  • 『土偶を読む』が「評価」される中で盛り上がった「(特に考古学の専門知に対する)反専門知」(専門知の危機).

前者は考古学上の問題,後者は科学(学術)コミュニケーションの問題である.基本的に参加しているのが考古学者や歴史学者であるので前者にフォーカスがあてられた内容になっているものの後者も全く無視されているわけではない.実際,「知の「鑑定人」――専門知批判は専門知否定であってはならない」という章は後者の問題に正面から向き合っているし,他の章でも適時触れられている.個人的には後者の問題のほうが根深い問題だと思うので,もう少し深堀してほしかったが,この本の目的はそこにないのだろう*17
この本はもしかすると,「縄文時代周りの考古学」についての入口として使えるかもしれない.「土偶をめぐる議論」についてコンパクトにまとめた評論「「土偶とは何か?」の研究史」や現在の縄文時代・考古学研究についてのインタビューである「〈インタビュー〉今、縄文研究は?」は参考になりそうである.また,検証パートは「縄文時代研究ではこういうことを考えるのか」ということの参考になりそうである.それでいて,そこまで専門的の寄り過ぎているわけでもないように思うので,高校生の読書感想文のネタとしてピッタリの難易度である.課題図書として『土偶を読むを読む』を推薦すれば,日本の考古学リテラシーのレベルがあがるのではないか(ホンマかいな).
『土偶を読む』の仮説に対する評価は登場する論者によって変わるが,最も好意的なものでも「土偶を植物そのものだと捉えた点についてはおもしろい.ただし,土偶と植物を結び付けて考えること自体は先行研究があるため,植物と結び付けた発想については新規性がない.植物そのものだと捉えたことに意味がある.その上で,論証は杜撰なので,考古学的な批判をクリアできるものではない」というものである.正直,『土偶を読むを読む』を読む限りではここまで好意的な意見をわたしは妥当と思えないが,その辺りはぜひ読んで確かめていただければと思う*18
全体を通して考古学以外の点で一番気になってしまったのは「マスコミによるコメントの改ざん」の件である.次のような記述がある.

本書の「はじめに」(本書二ページ)でも触れた二〇二一年四月二四日に放送されたNHK総合「おはよう日本」で特集された 『土偶を読む』。これに対して、「従来の考古学になかった発想で新たな学問形態の提案、これからの研究が興味深い」という好意的なコメントを寄せた考古学者で文化庁の主任文化財調査官(当時)の原田昌幸さんに、後日お話しする機会があった。
「あれは、私の意図とは全く違う切り取りをされてしまったものです。本当はこうコメントしています。『これは個人の思いつきに近いもので、学術的には見るところはない。しかし、従来の考古学になかった視点で興味深いですね』」
NHKとしては『土偶を読む』が考古学の世界でも注目ですよ、との構成で企画を進めてしまったために、このような切り取りをしてしまったのだろう。言うまでもなく後半はリップサービスだ。その上で番組は原田さんが言ってもいない「新たな学問形態の提案」と続ける。意訳のつもりなのかもしれないが、拡大解釈も甚だしい。(『土偶を読むを読む』 p.34.ただし,表示環境の都合で本来「傍点」で表現されている強調を太字で表現している)

この部分を読んだときは衝撃的であった.たびたびメディアによってコメントが意図せぬ方向に捻じ曲げられるとは聞くが,この件でも起こっていたとは.このような「切り文」により発言とは正反対の意図にするのは,専門家の名誉を傷つける行為ではないか.原田氏のコメントの後半部分を「新たな学問形態の提案」と解釈したことを本文では「拡大解釈も甚だしい」と評しているが,前半部分を踏まえればこれは控えめな表現であろう.「捏造」と言って良いと私には思える.日本を代表するマスメディアの一つである NHK がこの体たらくなのは,日本のマスメディアにおける専門知の取り扱いに対する課題を浮き彫りにしているように思う.

『土偶を読むを読む』の各章についての感想

この節では『土偶を読むを読む』の各章についての感想を述べる.

はじめに

この節では「はじめに」という記事についての感想を述べる.この部分は次のように出版社の文学通信が公開している.
bungaku-report.com
たった4ページの記事だが「『土偶を読む』という杜撰な本」と「それを専門家の意見を無視して評価した人々やそのように世論を誤誘導したメディア報道の在り方」に対する怒りのようなものが伝わってくる.
一般に学術的な検証というのは手間がかかる.その様子を表した次の一節は「名文」と言ってもよいと思う.

『土偶を読む』の検証は、たとえれば雪かきに近い作業だ。本書を読み終える頃には少しだけその道が歩きやすくなっていることを願う。
雪かきは重労働だ。しかし誰かがやらねばならない。(『土偶を読むを読む』 p.5.)

学術は基本的に相互批判によって発展していく.しかし,「専門家から見て明らかに杜撰な主張」に対する批判というのは専門家にとっては「明らか」すぎるがゆえに,専門家からは評価されない.それゆえ,手間がかかる割に学術的には「業績」とみなされにくい.このことは「専門家から見て明らかに杜撰な主張」が社会的な影響力が低いならば,そこまで問題はないのだが,現実的にはそうではないケースもままある.この辺りのいわゆる「トンデモ批判」を「業績」としてどう扱うのかという「研究者評価」という点からみて重大な問題であるが,いまだに結論が出ていないように思う.
この「はじめに」という前文は「『専門家から見て明らかに杜撰な主張』だが『世間的には評価されてしまった主張』に我々はどう向き合わなければならないのか」という問題提起とその解決の抱える困難を端的にしかも文学的に表現した名文章である.

検証 土偶を読む(望月昭秀)

この節では「検証 土偶を読む」という章についての感想を述べる.
この記事の元になったと思われる文章が次のように公開されている.
note.com
しかし,この記事からかなりブラッシュアップされているので,別物として扱うのが妥当と考えられる.
「検証 土偶を読む」の論旨は明瞭である.「『土偶を読む』で提示されている仮説は妥当なものとは言えず,その論証はチェリーピッキングの多いかなり杜撰なものと言わざるを得ない」というものである.
望月氏は『土偶を読む』で提示されている仮説を次の3つの観点から検証している.

  1. 取り上げられている土偶とモチーフとされている植物の「見た目」は本当に似ていると言ってよいのか(見た目).
  2. 取り上げられている土偶と同時期同タイプの土偶にモチーフとされている植物のモチーフは表れているのか(編年・類例).
  3. 取り上げられている土偶が出土した場所とモチーフとされている植物の当時の利用分布が一致しているのかどうか(当該の食用植物の利用).

検証の結果をざっくりまとめると次のようになる.

  1. かなり好意的に見て「似ている」と言えるものが4例ほどあるだけ.
    • 「写真」で見ると似ているように見えるものでも,立体的に見ると「似ている」とは言い難いケースの方が多い*19
  2. 「特定の有名な土偶」についてのみしか考慮に入れられておらず,「編年・類例」について考慮されているとは言えない.
    • 「こう模様は変化してきた」という研究が(意図的かは不明だが)無視されている.
    • 「似ている」ケースを恣意的に取り出しているだけで,類例まで考慮すると似ているもののほうがむしろ珍しいケースもある.
  3. 取り上げられている土偶が出土した場所とモチーフとされている植物の当時の利用分布が一致していないものがある.一致しているものもあるが,その場合,もともと広範囲に利用されている”メジャー“な植物であるため,「完全に一致している」と言えるものはない.
    • これは致命的な誤りである.
    • 一部は資料の読み間違いによるもの.しかし,この件以外にも初歩的な資料の読み間違いが散見される.

ざっくりしたまとめからも分かる通り『土偶を読む』の仮説は「ボロボロ」と言わざるを得ないだろう.検証の結果と論点自体ははっきりしており,適切な批判はできているように思えた.
残念な点としては,著者の望月氏が本職の研究者でないこともあって,文体や文章全体の構成がアカデミックライティングの作法に則っておらず,学術書の文章だと思って読むと読みにくく感じる点があったことである*20.もっとも著者の意図として

検証批判を真面目な文体でやりすぎると殺伐としすぎてしまうという心配もありました。だからなるべく砕けた文章で脱線しながら楽しく読んでもらえるような検証にしたかったのです。(ベストセラー『土偶を読む』が評価された背景にあった専門知批判のストーリー あえて『土偶を読むを読む』を出版した望月昭秀氏が伝えたかったこと【後編】(2/3) | JBpress (ジェイビープレス) より.)

というものがあるようなので,この点については学術書の文章と同じように読もうとした私に非があるようである*21.とはいえ,それを加味しても,一部の脱線や仮説の検証と直接関係のない批判については注釈に廻すか章を分割するなどした方がよかったとも思う.特にマスコミのコメントの「切り文」に対する批判や『土偶を読む』に賞を与えたサントリー賞などに対する批判などについては『土偶を読む』そのものの問題点というよりは,「『土偶を読む』はどう取り上げられてきたか」という点についての問題なので,章を分割して議論した方が論点がはっきりして良いと考えられる.実際「知の「鑑定人」――専門知批判は専門知否定であってはならない」という記事の論点はまさにその点にあるので,「『土偶を読む』がどう世間に受容されてきたのか」ということをまとめて,検証した章がその前にあってもよかったのではないだろうか.

「土偶とは何か?」の研究史(白鳥兄弟)

この節では「「土偶とは何か?」の研究史」という記事についての感想を述べる.
この記事は明治以降の「土偶研究」のサーベイである.「土偶とは何か」という問いに答える代表的な研究・学説を羅列している.また,『土偶を読む』以前からも「土偶」と「植物」を関連させた研究が存在したことが指摘され,『土偶を読む』の仮説に新規性があるのであれば「土偶を植物そのもの」ととらえたことであることが指摘されている.執筆者はどこかの学芸員の方であるようだ*22
「土偶」は考古学者からだけでなく,人類学者や芸術家などさまざまな人々から関心を持たれてきたことがわかる.タローマンの放映直後に読んだこともあって,岡本太郎が出てきたときにはかなり驚いて笑ってしまった.
サーベイ全般に言えることだが,全部を理解しようとすると結局元の論文や評論などを読むことになるので,「多少わからないところは読み飛ばして,興味を持った本などに目を通しに行く」という読み方をするしかないと思われる.サーベイは軽く見られがちだが,資料の取捨選択や場合によっては専門外の文献を読まざるを得ないなど,普段論文を書く時とは違ったことを考えねばならないので,見た目よりも難しい.「このサーベイを書くには眠れない夜もあっただろう」と称賛の声をかけたくなった記事であった.

〈インタビュー〉今、縄文研究は?(山田康弘)

この節では「〈インタビュー〉今、縄文研究は?」という記事についての感想を述べる.
この記事は話題が多岐にわたるので,最も興味深かった次の二点に絞って感想を述べる.

  • 竹倉氏の義理を欠いた言動
  • 科学技術の発展が考古学に与えた影響

前者についてだが,どうも竹倉氏は「山田康弘氏が彼の論を歴博の研究報告に研究ノートとして発表させよう*23と骨を折ったのに,なんの連絡もなく,勝手に『土偶を読む』を発表する」ということをしていたらしい.「竹倉君さ,世の中義理欠いちゃオシマイだよ?そりゃあね,人間だからさ,たまには義理を欠くこともあるかもしれんけどさ,大事になった以上は『遅くなって申し訳ありませんが』から始まる一言くらい声かけた方がいいぜ?」と言いたくなった.
それはそれとして,後者の科学技術の発展が考古学に与える影響は非常に興味深かった.昨今,分野横断的な研究が増えているという声をそこかしこでよく聞くが,考古学についても例外ではないようだ.
論理学的な視点からは初期の考古学は基本的にアブダクション(リトロダクションまたは最良の説明への推論)を基に研究が行われていたと見ることができるように思われる.この推論法はざっくり言うと「一番もっともらしい仮説を選ぶ」という方法であるが,あくまでも「もっともらしい」だけであるので,「正しいという根拠が弱い」場合も多い*24.科学技術の発展は「仮説演繹法」を使える場面が増加させたらしい.この推論は一般的にアブダクションよりも「根拠が強く仮説を指示する」論法と考えられている.
つまるところ,科学技術の発展は「実証的」と言えるような考古学の研究を増やすことに成功しているようだ.
一番印象に残った話は「海洋リザーバー効果*25」についての話である.知らなかったのだが,「海水には古い炭素が溶けているので,単純に炭素 14 による年代測定法を用いることができない」らしい.そのため,海沿いなどで海洋生物を摂取して生きていたと思われる人間や動物に対して,炭素 14 による年代測定法を用いるには補正が必要らしい.ただ,「海洋リザーバー効果(など)」による影響をどの程度考慮して計算すればよいかは,現在でもはっきりとわかっておらず,いまだ研究中のようだ.「考古学研究のための科学技術」というテーマはなかなか奥が深そうで楽しそうなテーマに思える.「考古学研究のための科学技術」の研究によって生まれた手法が,考古学以外の分野にも影響を与え始めたら大変にアツいので,この辺りを研究している人々には頑張ってほしい(小学生並みの感想).
どうでもよいのだが,最初この山田康弘氏の名前を「山田康雄」に空目してしまい,「なぜ,こんなところにル〇ン三世」となった.

物語の語り手を絶対に信用するな。だが私たちは信用してしまう(松井実)

この節では「物語の語り手を絶対に信用するな。だが私たちは信用してしまう」という記事についての感想を述べる.
正直な感想としてこの記事には戸惑いを覚えた.分量も2ページというかなり短めなうえ,存在意義のよくわからない記事だったからである.この記事の著者は,海士の風という聞きなれない出版社から出版された太刀川英輔著『[asin:B08YMW9DD6:title]』を批判する,次のような Zenn Book を書いている(より正確にはこの Zenn Book の著者の一人).
zenn.dev
この Zen Book はまだ全て読めていないのだが,わたしの理解だとこの『進化思考』という本は誤った「科学(生物学)的知識」を基に議論を進めているため,誤った科学的知識を広めかねない危険性があるようだ.この状況は『土偶を読む』に関する案件に対する問題点の二つ目「専門知の危機」に通ずるものがあるようである.もっとも,『土偶を読む』はダイレクトに考古学に挑戦()しているのに対して,『進化思考』は誤った知識を基にデザインについて論じているというかなり大きな違いはある.
ともかく,この節は『進化思考』に対する批判の宣伝以上の意味はないように思われる.正直,『土偶を読む』をめぐる案件との関係が薄すぎて,この記事は削っても問題なかったように思われる.もし,この記事が『土偶を読むを読む』において,キチンと存在意義のあるようにするためには,より「専門知の危機」という問題を掘り下げるような議論をするための文章が必要であろう.

土偶は変化する。――合掌・「中空」土偶→遮光器土偶→結髪/刺突文土偶の型式編年(金子昭彦)

この節では「土偶は変化する。」という記事についての感想を述べる.
「型式編年」という観点からの『土偶を読む』批判の記事である.かなり細かい議論が続くので,読むのが大変である.
細かいところまではまだ理解できていないが,『土偶を読む』の議論が「型式編年」の議論をまるで無視しており,無視をするにしても無視をするだけの根拠を伴っていないことは理解できた.縄文時代についてもう少し勉強してから再度読むとより深く理解できると考えられるので,また機会を見つけてゆっくり読んでみようと思っている.

植物と土偶を巡る考古対談(佐々木由香・小久保拓也・山科哲)

この節では「植物と土偶を巡る考古対談」という記事についての感想を述べる.
この記事は「〈インタビュー〉今、縄文研究は?(山田康弘)」と同様のインタビュー記事である.この記事は話題が多岐にわたるので,興味深かった次の3点に絞って感想を述べる.

  1. 学芸員の現場に与えた『土偶を読む』の影響
  2. 学術コミュニティは閉鎖的で強権的?
  3. 植物考古学,そういうのもあるのか

一つ目の「学芸員の現場に与えた『土偶を読む』の影響」についてだが,土偶の展示のしてある博物館などで「『土偶を読む』ってどうなの?」という質問をする方が何人もいたようだ.基本的に皆さん「これは仮説の一つにすぎないので,検証が必要」という答え方をしていたようだが,内心思うところもあったようである.「学術的には完全に『見当はずれ』な見解を述べる人相手にどう対応するか」という問題は,学術コミュニケーションの文脈から見てとても難しい問題のように思える.「見当はずれ」と言い切ってしまうと相手がへそを曲げて話を聞いてくれなくなるかもしれない.こうなってしまうと「正しい見解」を伝えようにも伝えられなくなってしまう.しかし,曖昧な返答をしてしまうと,「誤った見解」を放置するような結果になってしまう.この辺りをどう乗り切るかについては「知の「鑑定人」」という記事でも検討されている.
二つ目の「学術コミュニティは閉鎖的で強権的?」という件について.『土偶を読む』の著者竹倉氏は考古学のコミュニティが閉鎖的で強権的であるとたびたび主張していた*26.ただ,このインタビューと竹倉氏の言説を読む限り「まぁ,ジャーゴンをしっかり操れず研究作法を知らない人間が学術コミュニティから疎外感を感じるのは仕方ないよな」というレベルの話のような気がする.「本職の研究者からいじめられているんです」という人の話をよくよく聞いていたら「単にルール違反をとがめられただけでは」や「単にあなたがルールを理解していないだけでは......」となるのはよくある話だと思う.竹倉氏の件もそれに該当するのではないか.
三つ目の点についてだが,恥ずかしながら「植物考古学」という分野を初めて知った.対談者の一人の佐々木氏が「本にまとめたのにあまり読まれていないのか」と嘆いておられたので,時間があるときに次の本を読もうと思っている.

この本は上の本の続編だろうか?

考古学・人類学の関係史と『土偶を読む』(吉田泰幸)

この節では「考古学・人類学の関係史と『土偶を読む』」という記事についての感想を述べる.
この記事では考古学と人類学の関係について述べられている.考古学者であるこの記事の著者にとって他分野である人類学に対する敬意が,全体を通してにじみ出ている文章である.
この記事の著者によると日本の先史時代の研究においては「人類学者による『飛躍がある(その上,ときには整合性の取れていない)が魅力的な仮説』の提示(とその世間的な受容)」と「人類学者による斬新な仮説を考古学者が訂正し時には退ける」ということがたびたび起きていたらしい.その観点から見ると今回の『土偶を読む』をめぐる騒動もその繰り返しの一つに過ぎない,というのが著者の主張したいことの一つであるようである.
初期の考古学はアブダクションを主な推論方法として進んでいたようである.アブダクションは「仮説の発見・創造」と「仮説の暫定的な採択」を繰り返すことによって進む推論方法である.この観点で見ると「人類学者による『仮説発見・創造』」と「考古学者による『仮説の選択』」という共同作業が行われていたようにも思える.この共同作業において大事なのはお互いに対する理解である.その点において竹倉氏の態度はそういったものに欠けたものであったという非難を免れないだろう.
考古学と人類学の関係についても何かもう少し書きたいのだが,いまだに何を言いたいのか自分でもよくまとまらないので,これはまたの機会に譲りたい*27

実験:「ハート形土偶サトイモ説」(望月昭秀)

この節では「実験:「ハート形土偶サトイモ説」」という記事についての感想を述べる.
『土偶を読む』と同様に無茶苦茶な関連付けによって「ハート形土偶サトイモ説」を論証()している記事である.縄文時代の研究()のはずなのになぜか『菊次郎の夏』や『となりのトトロ』が記事中に出てくる.どうでもよいが「望月さんは久石譲が好きなんか?」と勝手に思った.
「竹倉氏がもっと勉強してから『土偶を読』んでたら,『土偶を読む』はこんな本だったかもね」という趣である.
ところで,以前,目にした次のページの冒頭に似たような試みがされていた.「実験:「ハート形土偶サトイモ説」」という記事が好きな方は目を通してみてはどうだろうか.
www.hmt.u-toyama.ac.jp

知の「鑑定人」――専門知批判は専門知否定であってはならない(菅豊)

この節では「知の「鑑定人」」という記事についての感想を述べる.一番わたしの関心に近い記事だった.
この記事ではパブリック・アーケオロジーの観点から今回の騒動を分析している.パブリック・(人文学の学問領域)という名前の学問領域は「(人文学の学問領域)と社会の関係性を模索する」ことを目的としているらしい.このような学問領域は総称として「パブリック・ヒューマニティーズ」と呼ばれているようだ.たとえば,パブリック・ヒストリーであれば「歴史学と社会の関係性を模索する」分野,パブリック・アーケオロジーであれば「考古学と社会の関係性を模索する」分野である.ちなみに,『なぜ歴史を学ぶのか』によるとパブリック・ヒストリーの研究者が米国で近年増えているらしい.日本でも増えるといいね.
さて,今回の『土偶を読む』をめぐる騒動を分析すると次のようになるようだ(細かい議論は省いてしまっているので,正確性に多少欠けることは容赦願いたい).

  1. 『土偶を読む』が一般書として上梓される.
  2. 考古学者が本来こういった本の批判を行うべきだが,「一般書」であることや「(取るに足らないものだったり,直観的には無理筋なものであったとしても)仮説をしっかり検証するのは手間がかかる.その上,『一般書』の検証では学術的には評価されにくい」ことなどが災いして,「無視をする」という対応を取る考古学者が大半となる.
  3. しかし,「専門家から黙殺された説を出版する」という物語が非専門家や分野外の専門家の注目を集めることになる.
  4. 結果,「専門知」を評価する際に核とならなければならない当該分野の専門家不在のまま,(考古学の)非専門家たちによってのみ『土偶を読む』が批評,評価されることになる.
  5. 当然,不適切な評価になる.

このあたりの経緯に「専門知の評価」や「専門知の社会への還元」の難しさが見え隠れしている.当然,専門知は専門家だけのものではないから,非専門家にも広く門戸を開けていないといけないが,いざ「評価」をするとなると専門家でなければ難しい.だからこそ,学術は「査読論文(ないしそれに準ずる書評など)」を基本としたシステムで運営されているわけだが,このシステムは非専門家にとっては「専門知」へのアクセスへの障害となる.これでは「専門知の非専門集団への還元」が難しくなる.専門家の「専門知の評価」をあてにして,非専門集団が意思決定の参考に「専門知」を使うことはできるかもしれないが,それも学術のシステムが健全な状態であればこそである.残念なことに30年ほど前に我が国の考古学会が不健全な状態にあったために,「専門知の評価」が正しく行われていなかったを思い出してほしい(旧石器捏造事件 - Wikipedia).仮に学術のシステムが健全であっても,目の前の人間が「専門家」なのか「専門家を装った詐欺師」なのかを見抜くことは非専門家には非常に難しい.
当該記事においては「知のガバナンス(統制)」について,ここまでのものより詳細な議論が行われている.ただ,非専門家の立場に立った考察がなかったようにも思われた.その点についてほんの少しだが,考えてみた.とりとめのない文章になってしまうが,考えたことを以下に記しておく.

(私を含めた)非専門家は何を基準に「専門知」と「専門知を装った誤った信念」を区別できるのだろうか.理想的には目の前に提示された情報に対して「定評のある文献は引用されているのか」「議論に使われている論理におかしなところはないか」「現実に即しているか」を見ることができれば多少マシな判断ができることだろう.ただ結局「定評のある文献」を知るには「信用のできる専門家」の意見が必要に思うし「議論に使われている論理におかしいかどうか」を判断するには最終的に専門知が必要になることも多いように思う.そもそも,非専門領域の知識の検証に非専門家が割ける時間は限られているため,常にそんな手間のかかることはできない.
「要は信用できる専門家を見つけることよ*28」という考え方もあるかもしれない.が,この方法は「専門家を装った詐欺師」から身を守れない.また,「信用できる専門家」が「専門家を装った詐欺師」急に転職することもあるかもしれない.
非専門家が「専門知を装った誤った信念」から自衛するための方法はあるのだろうか.

おわりに

この節では「おわりに」という記事についての感想を述べる.この部分は「はじめに」と同じく次のように出版社の文学通信が公開している.
bungaku-report.com
「おわりに」においては編集者である望月氏のスタンスが再度提示される.最も共感できたのは「学問である以上『自由な発想』が大事であってもそれは観測事実に基づくものでなければならない」というスタンスである.いわゆる「トンデモ」批判が行われるとき,「自由な発想が失われる」という批判はつきものであるが,学問における「自由な発想」というのは,文字通りの「自由」ではなく,「事実に基づく」ものでなければならないということを認識していない批判に思えることが多い.「トンデモ」と多くの人に呼ばれるものは,大概の場合,「事実に反すること」を主張しているがゆえに批判されているのである.このことを理解できない人は思っているよりも多いのかもしれない.
ところで,最後のこの表現はとても気に入った.

『土偶を読む』で、土偶の面白さに目覚めた読者のみなさんには、本書は冷や水だったかもしれない。しかし、これは通過儀礼として受け止めてほしい。
でも大丈夫、全然大丈夫。歯を抜かれるよりはずいぶんとマシな通過儀礼だ。(『土偶を読むを読む』 p.429.)

機会があれば「学術のお作法を身に着けるための通過儀礼は,古代の『歯を抜く』通過儀礼に比べれば全然マシだよ」みたいなことを誰かに言いたい.

総括

この記事では『土偶を読むを読む』について感想を述べてきた.
実のところ,最初にこの本を読み終えてからこの記事を公開するまでに4か月強かかっている*29.これだけ時間がかかったのは別件で忙しかったのもあるが,慣れない分野について記述するのが難しいからだろうと考えられる.まだ言いたいことがあるような気がしてしょうがないのだが,いったんこれで筆をおきたい(書くのに使ったのはキーボードだけど).今までの傾向として,弊ブログでは公開した後に書きたいことを思い出して加筆修正することがよくあるので,どうせ今回もそうなるような気がする.
ともかく,『土偶を読むを読む』はおもしろいから読もう.

『土偶を読むを読む』関連文献の一覧

ネットなどで読める『土偶を読むを読む』の関連文献・ページの一覧を与える.

後日譚

この節では『土偶を読むを読む』の発刊後に起きた 『土偶を読む――130年間解かれなかった縄文神話の謎』に関連する出来事で,目についたものを紹介する.

『土偶を読むを読む』の著者が『土偶を読む』の著者に討論を打診した話

次の記事に『土偶を読むを読む』の著者が『土偶を読む』の著者に公開討論を申し込んだが,断られた顛末が書いてある.
note.com

『土偶を読む』の説を広めた媒体が『土偶を読むを読む』の作者にインタビューした話

『土偶を読む』の説を広めた媒体が『土偶を読むを読む』の作者にインタビューしたらしい.以下がこの記事.
jbpress.ismedia.jp

『土偶を読むを読む』の二版でアップデートが起きていた話(2023/10/25 追記)

このブログの主ことわたしは『土偶を読むを読む』の一版を読んだ.この記事を最初に書いた時点では知らなかったのだが,二版が発行され微妙にアップデートされていたらしい.詳しいことは以下を参照してほしい.結局,論旨は変わらないので,この記事の感想が全く無意味になるわけではないが.
note.com

このブログ記事が著者たちに届いてしまった話(2023/10/23 追記)

このブログ記事そのものが,著者たちの目に留まってしまったらしい.難しいパートになった瞬間薄っぺらい感想しか書けなくて本当に申し訳ない.......

蛇足

以下は『土偶を読むを読む』に対する直接の感想ではないので「蛇足」と呼ぶしかない文章群である.

「『土偶を読むを読む』を単体で読んで面白いのか」問題について

『土偶を読むを読む』をめぐる問題として「『土偶を読むを読む』を単体で読んで面白いのか.つまり『土偶を読む』を読まずに『土偶を読むを読む』を読んで面白いのか」という問題がある.このことについて少しだけコメントする.
そもそも,わたしは『土偶を読む』を読むことなく『土偶を読むを読む』を先に読んだ.『土偶を読む』はこの記事の参考にするため斜め読みした*30

『土偶を読むを読む』を読んで面白かった.
→感想記事を書こう.
→感想記事のために『土偶を読む』にも目を通すか.

という時系列をたどったことを鑑みると,少なくとも私にとっては「『土偶を読む』を読まずに『土偶を読むを読む』を読んだが,面白かった」ということになる.わたしはこういう件について自分の感性に自信のある人間ではないので「『土偶を読む』を読まずに『土偶を読むを読む』を読んでもおもしろい」と一般化して言い切ることはできないが,少なくとも「『土偶を読むを読む』を単体で読んで面白いと感じた人は居た」とは言ってよい.

『土偶を読む』のサントリー賞受賞についてのコメント

この節では『土偶を読む』のサントリー賞受賞についてコメントをする.『土偶を読むを読む』の感想ではない上,闇が溢れているのでそういうのが苦手な人は読まないほうが良い.
先に述べた通り『土偶を読む』のサントリー賞受賞したわけだが,なにを評価されたのかいまいちよくわからない.授賞理由のコメントが徹頭徹尾よくわからないからである*31.たとえば

本書の方法論は、過去の人々の視点を追体験する歴史叙述を旨とした、文化史、心性史の泰斗の方法に通じ合う。

と佐伯順子氏のコメントにあるが「見た目が似ている」ということから始めそれありきで進んでいる本を「文化史、心性史の泰斗の方法に通じ合う」としてしまうのは「本気で言っているのか?」と思ってしまう.「クリに形が似ている」という根拠だけで論を進めていいなら,多くの場合「表面がつるつるしていて,円形に近い水滴型のものはクリに似ている」ことになるが,それら全部「クリがモチーフ」になってしまうがそれでよいのだろうか?
また,『土偶を読むを読む』でもたびたび突っ込まれているが,次のようなコメントを「フェミニズムの専門家」がつけているのは滑稽ですらある.

この新説を疑問視する「専門家」もいるかもしれない。しかし、「専門家」という鎧をまとった人々のいうことは時にあてにならず、「これは〇〇学ではない」と批判する“研究者”ほど、その「○○学」さえ怪しいのが相場である。「専門知」への挑戦も、本書の問題提起の中核をなしている。

他分野の専門家に対していくらなんでも無礼ではないのか.「フェミニズムという鎧をまとった人々のいうことは時にあてにならず、『これは男女平等に反する』と批判するフェミニストほど、その『男女平等』の理解さえ怪しいのが相場である。フェミニズムの専門家というのは,もっともらしそうだが実は誤った前提から議論を進めて自分の見ている幻覚を正当化し,あたかもそちらが正しい現実認識であるのかのように詭弁するのが得意な人々を指す」と言われても怒らないんすかね.
そもそも,いくつかの考古学の文献を肯定的に引いている以上,『土偶を読む』を『「専門知」への挑戦』とするのは無理がある.さらに,『土偶を読む』本体に『「専門知」への挑戦』をそこまで明確に書いているようには思えない.『「専門知」への挑戦』という部分は外部が勝手につけた「文脈」に過ぎないのではないか.そのようなものを「問題提起の中核」と評してしまうのはおかしいのではないだろうか*32








さて,ここで問題.「を読む」という文字列はこの記事中に何回出てきたでしょうか*33

*1:正直に言うと,今回の件で初めてサントリー学芸賞という賞を知った.たぶん,日本の人文系の間では有名な賞なのだろう.ただ,以前ちらっと目を通して「おや?これは変だぞ」と思った『土偶を読む』ではない本が別の年に受賞していたことを知ったため,この賞の質自体を少し疑っている.

*2:この事件は映画にもなっている(否定と肯定 (字幕版)).原題は 「ホロコースト否定論」を意味する"Denial" なのだが, なぜか日本語では「否定と肯定」というタイトルになっている.この映画の吹替版は演出がイマイチなので,字幕版を見ることを薦める.

*3:実際は「ホロコーストはあったかもしれないが,ホロコーストの責任はヒトラーにはなく,現場の独断によるもの」などとする一派もあり,もう少しいくつかのバリエーションがある.が,本題ではないので,これ以上細かい説明をここでするのは避ける.興味のある人は否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い (ハーパーBOOKS)やこの裁判で攻撃されたDenying the Holocaust: The Growing Assault on Truth and Memory (English Edition)などを参照してほしい.

*4:アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット裁判の後に,法律が改正され,現在のイギリスでは立証責任は原告側にある.

*5:本来はこのような場合,「科学コミュニケーション」という「一般への科学周知の方法」を研究している専門家たちが政治と学術,一般人と専門家を取り持つべき場面だと思われるのだが,彼らがこのようなケースに主要な役割を果たしているところを見たことがない.「日本においては科学コミュニケーションを専門に研究している人々が最も科学コミュニケーションを苦手にしている」という陰口があるくらいである.そもそも,「科学コミュニケーター」という職業が全くと言ってよいほど,認知されていないあたり,「科学コミュニケーション」の専門家たちが「科学コミュニケーション」をどこまでやる気・能力があるのか疑問である.「科学コミュニケーター」という職業の周知や「科学コミュニケーション」という分野自体のアウトリーチもできていないのに「一般への科学周知」を果たしてできるのだろうか.「科学コミュニケーション」をめぐる他の不満として「科学コミュニケーション」の「科学」は多くの場合「自然科学」のことのみを指しており,「社会科学」などについては無視されていることがある.それゆえ,「科学コミュニケーション」は事実上「自然科学コミュニケーション」になってしまっている.また,科学とは別系統の学術領域である人文学などについて扱わないかのようなネーミングにも違和感と不満がある.もっとも,人文学については「パブリック・ヒューマニティーズ」と呼ばれる「人文学と社会の関係を研究する領域」が形成され始めており,単に「科学コミュニケーション」界隈とは別に活動しているだけかもしれないが.

*6:たとえば,次の記事:コロナ5類「科学ではなく空気で決まった」 西浦教授が指摘する課題:朝日新聞デジタル

*7:たとえば,次の記事である:橋下徹さん“8割おじさん”西浦博教授に苦言「予想がなぜ外れたかを言ってもらわないと」「信用できません」:中日スポーツ・東京中日スポーツ

*8:たとえば,最初,「中部高地」と書かれている場所がどこかわからなかった.どうも八ヶ岳(長野と山梨の中間にある山)のあたりの高地(縄文時代の遺跡が多いらしい)を指す用語らしいが,この本で初めて見たように思う.おそらく「日本考古学」のジャーゴンなのではないか.

*9:本人やその周りの人間は『土偶を読む』の著者である竹倉氏を人類学者として扱っているようだ.ただ,「考古学者のお墨付きを得ないと出版できないのは間違っている」と思い込んでいるあたり,竹倉氏は「学術のルール」をわかっていない節がある.おそらく,「(この部分は編集者の立場から見ても考古学の情報と食い違っているので)考古学者に確認してください(そうすれば,あなたの論が破綻していることがわかるので)」という趣旨の指摘を多数受けたことをもって「考古学者のお墨付きを得ないと出版できない」と曲解したのではないかと思われる.その上で,竹倉氏は人類学の博士号を取っているわけではないこと,また『土偶を読む』以外に目立った業績もないことから,(?)をつけることにした.

*10:このあたり,イコロジー学の研究者の意見もうかがってみたいが,あいにく,その辺の知り合いはいない.

*11:が,実のところ,この「論証」もかなり杜撰だと指摘しているのが『土偶を読むを読む』である.

*12:ここが微妙にこの問題を面倒にしている.『土偶を読む』を評価した「専門家」は人類学,哲学やフェミニズムの「専門家」ではあるのだが,歴史学,縄文時代の専門家ではないというがポイントである.「専門家も専門分野の外では素人」という原則に注意をしなければならない.また、NHK の番組などで「考古学の専門家」のコメントを真逆の意味になるように「切って」使うなどの不正行為もあったようだ.このコメントの改ざんの件は『土偶を読むを読む』の中で触れられている.

*13:メディアが『土偶を読む』をどう取り上げてきたかについては,文学通信(『土偶を読むを読む』の出版社)が次のようにまとめてくれている:『土偶を読む』はどうメディアで取り上げられてきたか――『土偶を読むを読む』編集余滴 - 文学通信|多様な情報をつなげ、多くの「問い」を世に生み出す出版社.ありがたい.

*14:次を参照:竹倉 史人『土偶を読む ―― 130年間解かれなかった縄文神話の謎』 受賞者一覧・選評 サントリー学芸賞 サントリー文化財団

*15:この記事の執筆時点では(主にわたしの忙しさと怠惰が理由で)確認できていないので,直接引用はしないが『土偶を読む』に対しての否定的な書評が考古学誌に載ったことはあるらしい.このことは『土偶を読むを読む』に複数回触れられている.

*16:https://twitter.com/hakucho_kyodai/status/1663125380570714114?s=20を参照.

*17:「専門知の危機」はテーマとして重たすぎるのかもしれない.

*18:論証に重きを置きすぎる悪癖が私にはあるので,「論証が杜撰」な段階で,かなり印象悪く受け取ってしまうことを言い添えておく.とはいえ,わたしも雑な「論証」をすることはあるので,その辺りもう少し,自分のフェアネスを鍛えるべきなのかもしれない.

*19:正直なことを言うと,私には「写真で見ても似てねぇよ」となるケースのほうが多い.

*20:わたしと同様の理由で読みにくく感じた人向けの読むためのコツ.「縄文時代好きのおじさんが『土偶を読む』に考古学的なツッコミをいれながら読んでいるのを隣で聞いている」感覚で読むと読みやすい.(2023/11/18 追記)

*21:ただ,一部メディアで見られる「『土偶を読むを読む』の語り口は冷静」という書評については「ホンマに文章読んだんか?」となったのは告白しておく.「コーラを飲みながら検証したぜ」というパートからは「冷静さ」よりも「呆れ」のほうを強く感じるんですが.......

*22:調べればどなたか特定はできるのだが,ペンネームの意味がないのでぼかしておく.

*23:ちなみに,「査読論文として出すのは難しいから」という前提条件があったので,「研究ノート」として出せるようにしていたらしい.それはそれで「えっ」という感じだが,考古学の文化に明るくないので,その点についてはこれ以上コメントしない.

*24:最もそれでも「推論」しなければならないときが発生するので,このような推論方法があるわけだが.

*25:詳しくはこちら:海洋リザーバー効果 – 株式会社加速器分析研究所

*26:たとえば,土偶は〈植物〉の精霊?新著が話題の竹倉史人、いとうせいこう、中島岳志の3氏が議論:朝日新聞GLOBE+

*27:実は読み終わってから4か月強経過しているのに,まだ言葉にならない.慣れない分野について語るのは本当に難しい.

*28:『銀河英雄伝説』のどこかにヒルデガルド・フォン・マリーンドルフがこういう趣旨のセリフを言っていたような記憶があるのだが,正確なセリフと巻数を忘れてしまった.そのうち,調べて追記するかもしれない.(2023/10/24 追記)セリフだと思っていたが違ったようだ.創元SF文庫版『銀河英雄伝説』の第6巻 p.45 に「ワインの鑑定にはじまって、宝石や競走馬にかんする知識とか、花やドレスにたいしての素養とおよそ貴族の姫君としての教養のすべてに、 ヒルダは無関心だった。彼女に言わせれば、 ワインにも宝石にも専門家がいるので、蘊蓄は彼らにまかせておけばよい、自分たちに必要な信頼するにたる専門家を見ぬく目だ、 というのである。」という記述があった.おそらく,アニメ化されたときにセリフとして処理されたのを勘違いしたのだろう.(追記終わり)

*29:記録(Twitter)によると,6月11日に読み終わっている.

*30:私個人が『土偶を読む』について不適当な批判をしている可能性はある.この場合は根拠付きで指摘をしていただければ,指摘の正当性を吟味したうえで,こちらの余裕のある限り対応させていただこうと考えている.

*31:受賞コメントは次から読める:竹倉 史人『土偶を読む ―― 130年間解かれなかった縄文神話の謎』 受賞者一覧・選評 サントリー学芸賞 サントリー文化財団

*32:ただ,『土偶を読む』の著者である竹倉氏本人がその文脈に則った発言をしている(たとえば,土偶は〈植物〉の精霊?新著が話題の竹倉史人、いとうせいこう、中島岳志の3氏が議論:朝日新聞GLOBE+).しかし,『土偶を読む』出版後の記事のため,予想外の反響に舞い上がった竹倉氏が,忖度して発言をしているにすぎないようにも読める.

*33:正解は各自ページ検索で確認してみよう.