この記事は"A Severe Misalignment of AI in Mathematics"の日本語訳+αである.わたし自身の手による非公式な日本語訳であるので,内容に疑義がある場合は原文を参照してほしい.
著作権を有していると考えられる宣言に名を連ねている25人の数学者のいずれかから公開を取りやめてほしい旨の連絡が来た場合などに,この記事は非公開になる可能性がある.
- "A Severe Misalignment of AI in Mathematics"の本文
- 私自身のコメント
この記事は"A Severe Misalignment of AI in Mathematics"の日本語訳+αである.わたし自身の手による非公式な日本語訳であるので,内容に疑義がある場合は原文を参照してほしい.
著作権を有していると考えられる宣言に名を連ねている25人の数学者のいずれかから公開を取りやめてほしい旨の連絡が来た場合などに,この記事は非公開になる可能性がある.
余帰納法にまつわる話を数学的帰納法のおはなし - Sokratesさんの備忘録ないし雑記帳に書いてあることがある程度分人向けに雑多に書く.雑多な文章の寄せ集めで,特にオチがあるわけではないので,そういうのが苦手な人は回れ右して帰ると良い.
数学的帰納法にまつわる話を雑多に書く.雑多な文章の寄せ集めで,特にオチがあるわけではないので,そういうのが苦手な人は回れ右して帰ると良い.
こんなツイートを見た.
(i) φ(x) ⊢ ∀xφ(x)
— Atsushi Yamashita (@yamyam_topo) 2025年7月20日
(ii) ⊢ φ(x)→∀xφ(x)
似ているようだが、(i) は正しく、(ii) は必ずしも正しくないようである。論理式が正しく理解できているのか自信がなくなってきた。。
たびたび見かける疑問として,「一階述語論理のストラクチャー(構造)の対象領域を空にしてはなぜダメなのか?」というものがある.これ自体はとても良い質問なのだが,「わかる人(つまり教科書を書くような人)にはすぐわかるが,初学者にはすぐわからない」という難易度の問題のため,初学者が目を通すような教科書などに答えが永遠に記載されない疑問ではないかという疑惑がある.
この記事ではこの件についてごく簡単な解説を行う.ついでにこの疑問に関連する Free logic という論理を紹介する.
渡邉 雅子の『論理的思考とは何か (岩波新書)』を読んだ.この本の著者が「論理の社会的構築物説」のようなことを主張しているという認識だったので,一応目を通しておこうと思ったのである.正直,期待していたような内容(論理の社会的構築物説の論証)では全くなかったので,感想をTwitterあたりに垂れ流して,『論理的思考とは何か』とはバイバイしようと最初は考えていた.しかし,この本に対してコメントをちゃんと残しておいた方が良いかと思う出来事があったので,この記事を書くことにした.
本記事では『論理的思考とは何か (岩波新書) 』の内容を把握されていることを前提として話をする*1.なお,同内容と思われる『「論理的思考」の社会的構築: フランスの思考表現スタイルと言葉の教育』や『「論理的思考」の文化的基盤 4つの思考表現スタイル』*2については参照せずに書いていることはフェアネスのためにこの時点で宣言しておく*3.
(2025/3/7 追記)この本が論理学の本ではなく,社会学(文化比較)の本であることくらい承知している.その上で,
という話をしている.コメントするなら要約くらい読んでほしいが,本文最初の要約ですら読み取り困難な人が居るようなので,再要約した.
(追記終わり)
(2025/8/14 追記 2025/8/21 改稿)「一般書(新書)に対して厳しすぎるのではないか」という意見を最近よくいただくようになった.しかし,『論理的思考とは何か (岩波新書)』は「高校生などに向けて自分の研究を説明する」という体裁で書かている本である.したがって,議論の詳細が省かれているなどは当然あるだろうが,研究の骨子は保たれた説明のはずである(そうでないなら,その時点でもかなり問題のある本である).この記事で批判検討しているのは「その研究の前提として提示された物事」に対する誤認やその研究の骨子そのものが抱えていると考えられる問題についてである.したがって,厳しく感じるのであれば,それだけ「この本で紹介されている研究が抱えている問題はかなり深刻だ」ということに過ぎないと考えられる.(追記終わり)
*1:第2刷(2024年11月5日発行)を私は持っているので,以下で示すページ数などはその版のものを指している.
*2:なぜか書き忘れていたので追記(2025/03/10 追記)
*3:『論理的思考とは何か (岩波新書) 』を読んだ結果,この研究は(あくまでも現段階ではだが)論理学的にあまりおもしろみがないように思われ,あと,雑な論理学の説明が鼻について読む気がなくなってしまった.もしかすると,『「論理的思考」の社会的構築: フランスの思考表現スタイルと言葉の教育』(2025/03/10 追記)や『「論理的思考」の文化的基盤 4つの思考表現スタイル』(追記終わり)ではこの記事で書いていることが乗り越えている可能性はある.そのようなことがあったら,一応知らせてもらえると助かる.
*4:(2025/03/10 追記)次のようなリストを趣味で作る程度には論理学的ではない論理の語用には寛容なつもりで居る:論理学的でない論理学用語の語用の一覧 - Sokratesさんの備忘録ないし雑記帳.(追記終わり)
*5:ここまで書かないと,社会学の議論として評価してもダメなことが理解できない人間が多いようなので,追記.独自概念を定義すらせず用いるのは控えめに言って学部生の卒論の水準にすら達していないと思われる.(2025/3/27 追記)
非哲学科の人間が哲学の諸分野の概観をつかむために最初に手に取ると良いであろう本を紹介する*1.このブログ記事を書いている人間は非哲学科であるが,哲学科の人間にも目を通してもらい,悪書が紛れ込んでいないことなどは確認してもらっている.
基本的に自分が手に取った事のない本を薦めるのは主義に反するのだが,同種のまとめがあまりなさそうなので,他の人からの推薦された本も書名だけ書く*2.
(2026/08/30 追記)もしかすると,どの分野の本を読むにせよ,長門裕介先生の哲学の勉強:短答問題で知識を整理しよう|ながとを読んでおくと良いかもしれない*3.ただし,この記事の「読む」は「字面を追う」とか「文字列に目を這わせる」とかそういう意味で使われており,内容の理解を含意していないようである(わたしが「読む」と言う場合,そこに「内容の理解」を含めているのだが,読書を「本の表面に目を這わせる」という意味で使っている人も居るようなので,理解のできる用法ではある).ちなみに,昔,人文系の人から聞いた理解の確認の仕方として「索引に載っている用語を説明できるかどうかを全部確認する」という方法を聞いたが,わたし個人はそこまでやったことはない.(追記終わり)
*1:二冊目以降の本については,各本の参考文献一覧などから選ぶか,学術系ブックリストのリスト - Sokratesさんの備忘録ないし雑記帳 に載っているリストのどれかを参考にすると良いと考えられる.
*2:(2024/12/8 追記)他人から推薦された本でも無批判に載せるようなことはしておらず,定評の確認などは行ったうえで掲載するかどうかは決めている.(追記終わり)
*3:少し,倫理学者らしい意見だなと思ったのは冒頭を「ただ、ちょっと引っかかるのはそれを読んでどうするんだ、ということです。」から始めて,「知識を仕入れたら「自分がそれを本当に使いこなせるか」をチェックする」としている点にもある.なんとなく,「何かを勉強したらそれを活用するべきだ」やそれより穏当に受け取っても「何かを勉強したらそれによって個人に何らかの良いことが引き起こされなければならないはずだ」という前提があるように感じる.わたし個人としては「勉強しても活用できるかどうかはわからないし,単に何らかの学術的な知識を得ること自体に価値があるだろう」というスタンスなので,このようなオープニングに少し驚いた.もちろん,内容の理解を伴わないような「読書」に価値は見いだせないので,長門先生の記事の趣旨には賛成なのだが.
伝統的な数学のゼミは,河東先生のホームページ How to prepare for seminars に書いてあるような「予習してきた人が参加者全員の前で発表する」という方式を取る*1.このやり方は少なくとも数学専攻の学生向けが自分の専門としたい領域を学習する方法として最適であろうと言われているし,私自身もそう思っている.
一方で,この方法は予習の負担が明らかに大きい.そのため,そもそも予習時間が確保できない人々が集まってゼミをする場合,たとえば,自分の専攻の研究や仕事の傍らに専門以外の内容のゼミをする場合などは別の進め方をしなければならない.
この記事は予習時間が確保できない人々が集まってゼミをする場合の進め方を紹介するものである.このやり方で一冊本を読み切った上で,全く証明の書けなかった知人がある程度証明が書けるまで成長しているのを目の当たりにしているので,そこまで的外れなやり方ではないと考えている.
*1:河東先生の「何も見ずに発表する」まで課さないことが多いとも思う.私見だが,定義が多い上に,細かな定義の違いが広範囲に影響の出てしまう数理論理学などでは「何も見ずに発表する」はワリと厳しいし,時間がトンデモナイことになるので,メモなり資料なりを持ち込むのを許容しないのは現実的ではないと考えている.
「虚数が存在するのかどうか」という話が某 SNS で盛り上がっては盛り下がるのを繰り返している.この件についてはだいぶ以前に次のような記事を書いた.
sokrates7chaos.hatenablog.com
今現在読むと微妙に一般的な言葉遣いと違うような言葉遣いをしてしまっている*1.が,「実数の存在を受け入れているなら,虚数の存在を受け入れなければならない(虚数の存在を受け入れらないならば実数の存在も拒否しなければならない)」という主旨はわかるようになっていると思う.
さて,上のようなことを書いといたらこういう話がおさまるかなと思っていたらそうでもないようで,数学的対象の存在論(という数学の哲学の一分野)について素人目に見ても混乱をしていたり,「それは過去にすでに破綻が指摘されている立場ですね」という話をしたりする人がかえって増えたように思う.そこで,数学的対象の存在論について素人なりに見ても「ここは押さえておかないと実のある議論にならないだろう」ということをまとめてみることにした*2.(2024/07/29 追記)基本的に諸派の見解の解説にとどめ,私自身の意見はモチベーションの説明部分と諸派の意見に対する評価部分くらいにしか現れないように注意して書いた.(追記終わり)
所詮は素人による雑なまとめなので,誤った点があったら教えてほしい.
*1:「存在」を「実在」と言っていたりね.
*2:わかる人向けの注釈:面倒なので「数学的文章の真理値は存在している」として,以下では話をする(数学的命題の真理値の実在論の立場で議論する).「数学的命題に真理値は存在しない(数学的対象の真理値における非実在論)」,「真理は存在しない(真理の非実在論)」「真理は人によって異なる(真理の相対主義)」などのような立場もあるが,その立場に立っている人をあまりお見かけしないので扱わない.特に後半二つは議論のたたき台としても面白いとは思えないし,よほど緻密にやらないとすぐに破綻する立場という印象が強い.
論理学由来の用語だが,本来の定義を離れた使われ方をしている用語がいくつかある.当然,学術用語として用いていないことが明らかな場合においては,本来の意味を離れた使われ方をすることに特に問題はない*1.それどころか,学術用語が日常において異なる意味で使われること自体が興味深い言語現象である.
この記事はそういう論理学の用語の使われ方のうち,わたしが知っているものの一覧である.(2025/04/01 改訂)
*1:裏を返すと,学術の文脈で本来の意味を離れた語法を行うべきではない.当然一般向けの本であってもそれは同様である.