Sokratesさんの備忘録ないし雑記帳

ブログは同人誌の一種だと思って書いてる.書きたいことを書いている.駄文注意.

MathJax で不等号を出すときの話

このブログは MathJax (MathJax | Beautiful math in all browsers.) で数式を表示している.はてなのデフォルトだと複数行数式が書けないなどの制約が辛いからである.ただ,MathJax で不等号を出すときには注意が必要である."<" や ">" が HTML のタグに使われているからである.この前,それで事故ったので,自戒を込めて,書き残す.

MathJax で不等号を出す

MathJax で不等号を出す方法は3つある.

  1. ">" (小なり the less-than sign)を出したいときには "\lt", "<" (大なり the greater-than sign)を出したいときには "\gt" を使う.
  2. HTML コマンドの &lt; (<), &gt; (>) を使う.
  3. 数式モードの中で, "x < y" のように "<"や">"と前後を空ける*1

\begin{align*} x&\lt y \\ x& < y\\ x &< y \end{align*}
見た目変わらないのもこれでわかる.

結論

MathJax で不等号を出すときは気をつけよう.

*1:以前はこれでは解決しなかったような記憶があるが,最近はこれで良いらしい.

自然数から整数を構成するはなし

という問題を出したので,それの想定回答をここに記す.

\(\newcommand{\mathnat}{\mathbb{N}}\)
\(\newcommand{\mathint}{\mathbb{Z}}\)
\(\newcommand{\mathpair}[2]{(#1, #2)}\)

  • 問題
  • 想定回答
    • 想定回答の直観
  • 別解の概略
  • 参考文献
  • 関連記事

問題

\((\mathnat, 0, s, +, \times)\) を自然数構造とする.
\(\mathnat\times\mathnat\) 上に同値類を入れることによって,整数全体の構造を持つ対象を構成せよ.

想定回答

続きを読む

「公理」のはなし

むしゃくしゃしたので,数学での「公理(Axiom)」について語ろうと思う.雑多な文章の寄せ集めで,特にオチがあるわけではないので,そういうのが苦手な人は回れ右して帰ると良い.

「公理」の2つの用法

数学が他の諸科学と大きく異なる点として,認められている手段が「演繹」による推論の列である「証明」のみにあることにある*1.この推論の列は有限の列なので当然,議論の出発点に当たるような主張(命題)があり,これを「公理(Axiom)」と呼んでいる*2
議論の出発点という点は変わらないものの,時代によって「公理(Axiom)」という言葉は次の異なる2つの意味で用いられてきた[Shoenfield1967Kunen2009].

  • (正しい)信念についての言明 Statements of faith としての公理
  • (構造を)定義するための公理 Definitional axioms*3

前者の用法の例として,Euclid の『原論』の「五公準」(当時のギリシャで点,直線,および円について確実に正しいと信じられていた言明)が挙げられる*4.このような「確実に正しい(と信じられている)」言明を公理と呼ぶような用法は少なくとも 1900 年代の中頃までは一般的だったようである*5[Kunen2009].
現代においては、普通、後者の意味で用いられる.たとえば,「群の公理」を何らかの信念の言明の集まりとする人は普通は異常者として見なされる*6.「群の公理」は「群」という構造を定義する言明の集合である.「群の公理」を満たすような対象は当然複数ある.しかし,群の公理から示すことのできる言明はこれらすべての対象において成り立つ.
代数学の強みは「公理」を「何らかの対象に対する(正しい)信念」とする考えから離れ,「公理」を単なる「条件」と考えることで,複数の対象についてまとめて議論できる点にある.
当たり前だが,形式的理論の「公理」は「(構造を)定義するための公理」の形式化である*7

「公理」に正しさ?

辞書などを引くと「公理(Axiom)」を「正しさ」にからめて説明している文章を見かける.たとえば Oxford Advanced Learner's Dictionary の "Axiom" の項目には "a rule or principle that most people believe to be true"などと書いてある.これは「(正しい)信念についての言明としての公理」という古典的な用法に引きづられた結果なのであろうが,現代の数学での用法としては誤りである.少なくとも,現代的な数学での用法も併記してほしい.
われわれが「群の公理」について語るとき,これらが正しいかどうかは気にしない.せいぜい「群の公理」の条件を満たす対象の存在の有無を気にするくらいである*8
現代において,「公理」が「正しい」ことを気にする必要のある場面は,考えたい対象が選んだ公理を満たしているかどうか(モデルになっているかどうか)くらいであろう*9.つまり,「『公理』の選択の正しさ」が問われている場面であって,「公理」そのものの言明の正しさではない.

公理と対象の存在

ここより先では「公理」と言ったら「定義するための公理」のことである.
何らかの言明の集合を「公理」と見なしたときに「公理を満たす対象が存在(以下単に『公理の対象』と呼ぶ)」するかどうかというのは本質的な問題である.ここでこの問題には2つの側面がある.「数学的な問題としての側面」と「(哲学の分野の)存在論の問題としての側面」である.
「数学的な問題としての側面」としてのこの問題は「『よく知られた数学的対象(自然数全体の集合や関数など)を用いて《公理》の対象を書き下す』か*10または『《【公理】を満たす対象がない》と仮定すると矛盾すること』を示せ」という問題になると考えられる.一階述語論理という形式化の良い側面として「無矛盾な公理系には公理を満たす対象(モデル)が存在する(完全性定理)」が成立することが挙げられると思う*11.一階述語論理で書き下せる公理の対象の「存在」はその公理の無矛盾性問題に帰着される.
存在論の問題としての側面」としては「『数学的な対象が存在する』とはどういうことか」という問題に帰着される.つまり「自然数が存在するとはどういうことか」「数学的対象が形而下の対象に何の因果関係も持たないとするなら,我々は数学的知識をどのようにして得ているのか」というような問題である.この問題はここで語るのはあまりにも荷が重すぎるので,別の機会に譲ることにしたい.この側面に興味のある人は[Shapiro2000T]などを参照してほしい.

どのような命題を「公理」とするか

同じ構造を表現するのに複数の公理系が存在することがある.たとえば,位相空間についての公理はすぐに思いつくものだけでも「開集合によるもの」「閉集合によるもの」「近傍系によるもの」「開核オペレーターによるもの」「閉包オペレーターによるもの」などが挙げられる.このような場合,我々はどのような「公理」を採用して議論するかのチョイスが発生する.
考えたい対象が選んだ公理を満たしているかどうかだけを気にする立場の人々にとっては,どの公理系を採用するかは使いたい主張を楽に示せるかどうかによるであろう.別の公理系のチョイスの方針として理論的な美徳によるものが考えれる.たとえば,「できるだけ簡潔な公理系を選ぶ」「直感的に考えたい対象をよく表現している」などである.

数学セミナー2022年8月号[SeminarAugust2022]の「集合論の公理」という記事に「選択公理は『公理』だが,連続体仮説を『公理』と呼ぶ人はあまり見ない」という指摘があった.著者の池上大祐氏はそのような事例などから「『公理』とは『仮定すると面白い議論が数多く生まれそうな命題』」という信念を持っているそうである.個人的に「連続体仮説を『公理』と呼ばない」ことについて何も違和感を感じていなかったので,非常に興味深く感じたのを覚えている.

総括

「公理」難しい.

*1:実際の数学の実践においては「こういう定理が成り立ちそう」という予想をする際などに「演繹」以外の推論が必要であるが,「証明」が伴わなければ,これらは「正しい」言明とは見なされない.

*2:「メタ数学」や「数え上げ」のように特定の公理系に基づかないような数学もあるので,微妙に現実と合っていない説明のような気はする.

*3:[Shoenfield1967] では modern axiom systems などと呼ばれている.それにしたがうなら,前者を「古典的用法」,後者を「現代的用法」などと呼ぶべきなのかもしれない.

*4:この辺,数学史を紐解くと,当時は「公理」と「公準」が分けられていたり,「第五公準ホンマに自明に正しいんか?」と言われてたりなどの問題もあるのだが.

*5:ペアノの公理や「集合論の公理」などの公理系も元々はそのような文脈で生まれたもののようである.つまり,「自然数とはどういう対象なのか」「集合とはどういう対象なのか」という問いの答えとして「これこれこういう条件を満たすもの」という答えとして公理系を与えていたのである.ただし,現代においてはこれらも「(構造を)定義するための公理」とみなすのが普通である.

*6:何らかの哲学的な防衛は可能かもしれないが,通常の見方を捨てるほどの理論的ベネフィットがあるとは思えない.

*7:この一文はこの文書を読んで「ZFC は信念についての言明」という発言をしたものがいたから追加した.ZFC は一階述語理論なので当然,「定義するための公理」である.当たり前というか,定義を見れば明らかなことをわざわざ書かないいといけないとは思わなかった.2023/3/13 追記.

*8:Curry などのようにそもそも対象の存在すら気にしない立場もありうる[Shapiro2000T].

*9:このような問題意識に対するおもしろい例として,「~するべきである(義務)」という様相について,その適切な公理を探す営みを聴いたことがある.

*10:「構成できるか」と書きたいところだったが「構成」というターム事態が微妙にやっかいなニュアンスを含む場合がある(選択公理を用いないとか)ので,こういう書き方をした.そもそも「集合全体の圏」みたいな対象だと「構成」と言いにくいしな…….

*11:この性質は二階述語論理では成り立たないことが知られている[Shapiro2000F].

「大怪獣のあとしまつ」の後始末

「大怪獣のあとしまつ」の後始末が自分の中で終わったのでそのことについて書く.感想文というより怪文書というのが正しい.

「大怪獣のあとしまつ」とは?

「大怪獣のあとしまつ」とは 2022年に公開された山田涼介主演の日本映画である.

「ありそうでなかった!」と広告で主張されるわりに「怪獣の死体の始末ってワリと昔から取り扱われていたテーマだよね?」と突っ込まれていた.
「令和のデビルマン」と呼ばれることもあるせいで,わたしは日和って見るのを避けていた.だが,Amazon Prime で配信されたのをきっかけに,覚悟を決めて見た.

「大怪獣のあとしまつ」の感想

「大怪獣のあとしまつ」の感想は
映画全体がそびえ立つ汚物でできている!
である.はっきり言って批判目的以外なら見ないほうが良い.やばい点だけを箇条書きする.

  • プロットが「怪獣映画って,最終的に『巨大ヒーロー』がなんとかするんでしょ?」という偏見を持っている人間じゃないと書けない汚物.
  • 恋愛面のプロットが中学生の妄想以下.中学校演劇でももっとマシな恋愛模様描くぞ.
  • コントやりたいのか,怪獣映画やりたいのかはっきりしろ.コントとしても寒いネタと演出ばかりで面白くないけどな.
  • 意味のないスロー再生やめろ.
  • それなのに,なんでテンポがずっと一定なんだ.一周回ってすごいけど,気持ち悪いぞ.
  • そのくせモッサリした中途半端なテンポで話をすすめやがって.
  • シン・ゴジラのパロディやりたいなら,もっとしっかりやれ.パロディするなら,元ネタにリスペクトを持て.
  • キャストの演技の方面が全員バラバラなところを見ると,そういうすり合わせすらできてないだろ.いい加減にしろ.
  • 怪獣の汚物の話ばっかりしてんな.
  • 中途半端な伏線だけはって,巨大ヒーロー出すんじゃねぇ.「あとしまつ」くらい地球人類自らの手でできなくてどうする.

総括

よくこんなゴミを自信満々に人前に出せたな.

\(z^{2}=i\)

\(\newcommand{\mathreal}{\mathbb{R}}\)
\(z^{2}=i\) という少し思い入れのある方程式を解く.

\(z^{2}=i\) の思い出

まだ,私が高校生だった頃,虚数 \(i\) が導入されたときは驚いた.\(x^{2}=-1\) を解けるように「数」が拡張されたからである.
このとき,

同じように二乗したら \(i\) になるような数はどうなるんだろう?

と思った.つまり, \(z^{2}=i\) を解けるようにまた新しく数を導入する必要があるのか気になったのである.
今の自分にとっては当たり前のことだが,複素数体代数的閉体なので,そのようなことをする必要はない.しかし,この方程式を実際に解いてみて,複素数の範囲で解けることに驚いた経験は,無駄ではなかったように思う.ある種の数学のおもしろさに最初に気がついたのは,もしかしたら,このときなのかもしれない.

\(z^{2}=i\) の解法 その1

\(z=a+bi\) (\(a, b\in\mathreal\)) と置く.すると,
\[a^{2}-b^{2}+2abi=i.\]
よって,
\[\left\{\begin{aligned} a^{2}-b^{2}&=0, \\ 2ab&=1. \end{aligned}\right.\]
\(a^{2}-b^{2}=0\)から\(a=\pm b\).

  • \(a=-b\) のとき.

\(2ab=1\) から \( a^{2}= -1/2 \). \(a\) は実数であるから,このときは不適.

  • \(a=b\) のとき.

\(2ab=1\) から \( a^{2}= 1/2 \). よって,\( a= \pm 1/\sqrt{2} \).ゆえに,\((a, b)= (\pm 1/\sqrt{2}, \pm 1/\sqrt{2}) \) (複号同順).
よって,\(z=\pm 1/\sqrt{2}\pm 1/\sqrt{2} i\) (複号同順).

\(z^{2}=i\) の解法 その2

\(z=r(\cos\theta+i\sin\theta)\) (\(r>0\), \(0\leq \theta <2\pi\)) と置く.すると,
\[ r^{2}(\cos 2\theta+i\sin 2\theta)=i. \]
よって,
\[\left\{\begin{aligned} r^{2}\cos 2\theta&=0, \\ r^{2}\sin 2\theta&=1. \end{aligned}\right.\]
\(r^{2}\cos 2\theta=0\) と \(r>0\) より,\(\cos 2\theta=0\).\(0\leq \theta <2\pi\) から,
\[2\theta = \pi/2, 3\pi/2, 5\pi/2, 7\pi/2.\]
よって,\(\theta = \pi/4, 3\pi/4, 5\pi/4, 7\pi/4\).

  • \(\theta = \pi/4\) のとき.

\(r^{2}\sin 2\theta=1\) より,\(r^{2}=1\).\(r>0\) から,\(r=1\).
このとき,\(z= 1/\sqrt{2} + 1/\sqrt{2} i\)

  • \(\theta = 3\pi/4\) のとき.

\(r^{2}\sin 2\theta=1\) より,\(r^{2}=-1\).\(r\) は実数だから,この場合は不適.

  • \(\theta = 5\pi/4\) のとき.

\(r^{2}\sin 2\theta=1\) より,\(r^{2}=1\).\(r>0\) から,\(r=1\).
このとき,\(z= -1/\sqrt{2} - 1/\sqrt{2} i\)

  • \(\theta = 7\pi/4\) のとき.

\(r^{2}\sin 2\theta=1\) より,\(r^{2}=-1\).\(r\) は実数だから,この場合は不適.

以上より,\(z=\pm 1/\sqrt{2}\pm 1/\sqrt{2} i\) (複号同順).

おわりに

虚数 \(i\) ってすげぇよな,\(\mathreal\) に付加すると代数的閉体になるんだもん.

論理学およびその周辺領域の本

以前,次のような記事を書いた.
sokrates7chaos.hatenablog.com

このブログのアクセス先の1割を占める程度には人気があるらしい*1.だが,書いてから時間が立ちすぎてしまい,また,その間にもさまざまな新しい本が出てきたこともあり,少し手直しをしたいと考えるようになってきた.そんなわけで,この記事はそのリバイバル版である.

リバイバルにあたって,まずリストの範囲を論理学とその周辺領域の本全体に拡大することにした.また,現在手に入りにくくなった本などはリストから外すことにした.この記事にあげる本は,何らかの形でわたし自身が手に取ったことのあるもの(読んだとは言っていない)に限定している.

すべての本に対してコメントをしきれていないので,周りからサボりを指摘されやすいように,公開しながら作業することにする.暫定でもコメントの終わった本には⛄をつけることにする(2022/08/07 追記).

一般書

この節では論理学の一般書を紹介する.
推論や根拠ある論証について扱う学問領域を論理学と言う.

かんどころシリーズのひとつ.このシリーズのコンセプトとして「入門書の入門」みたいなものを作りたいというものがあるらしい.まさにそんな感じの本である.
「これだけでは何かをやるには圧倒的に足りない.でも何を勉強したらよいかの道しるべにはなる」というのがざっと目を通した感想.詳しいことは他書に譲りまくっているので,この本だけ読んでもわからないことは多いと考えられる.漠然と「数理論理学」がやりたいと思う人が道しるべに読んで「ここを深く知りたい!」となった話題を参考文献で詳しくやるという使い方が最適解ではないか.

数学基礎論界隈のレジェンド竹内先生の集合論の入門書.最初の方は初学者にもわかりやすく丁寧に書いてくれている.が,最終章周辺は明らかにテンションの上がった竹内先生の高度な思考が垂れ流されているので,その辺りの話題を初学者は理解しようと思って読んではいけない.この章については完全にタイトル詐欺である.第4章まで読んで集合論に興味を持ったら, 集合論の入門書のどれかを一冊読んだほうが良い.

一般書のくくりにしたが,明らかに一般書の範疇を超えた内容を扱っている.どの層を想定して書いたのかよくわからない.ただし,この本をきっかけにコンピュータサイエンスの数学を始めた人間を何人か知っている.

ゲーデル不完全性定理の誤用についてまとめた本.読んでいておもしろかった記憶があるが,最後に読んだのがだいぶ前なので,何が書いてあったのか全然覚えていない.

形式論理学

この節では非形式論理学の本を紹介する.
現在,日本で単に「論理学」と言った場合,論理関係を記号化して考察する「形式論理学」を指す事が多い.しかし,形式化せずに論理関係,帰納的論証や論理的誤謬などを考察する分野も存在する.このような領域を形式論理学という.クリティカル・シンキングと呼ばれることもあるようである*2
形式論理学においては,形式論理学ではなかなか扱わない「帰納的推論」も取り上げられる.一般に科学における推論に興味のある方は非形式論理学を学んだほうが得るものは多いかもしれない.

最近出版された非形式論理学の和書.帰納的推論に対する記述が豊富である.
形式論理学に馴染みのないわたしにも読みやすく一ヶ月位で読めてしまった.ただし,一部演習問題で「あれ?」と思った箇所もあった*3.著者の独自用語などは断ってから使ってくれているので,おそらく誠実な方と考えられる.
推論に関わるためか,最後の節は統計の話をしている.だが,記述統計学の域は出ておらず,推計学や因果推論などの話はおまけ程度にしか出てこない.続刊が予定されいているそうなので,続刊で扱ってくれることを願っている*4

帰納的推論・アブダクション

この節では主に演繹以外の推論を主なテーマとする本を紹介する.
演繹以外の推論をすべて「帰納的推論」とまとめる立場と,(先の意味での)帰納的推論のうち「アブダクション」は他の推論方法と違うとして区別して,推論方法は「演繹・帰納アブダクション」の三種類であるとする立場(三分法)がある.この記事においては三分法の立場を取ることにする.

アブダクションとはアメリカの哲学者 Charles Sanders Peirce によって考案(発見?)された推論方法である.「最良な説明への推論」と呼ばれることもある.
この本は Peirce 研究で有名な米盛裕二氏によるアブダクションの解説書である.

数理論理学・数学基礎論

この節では数理論理学・数学基礎論の入門書を紹介する.
数理論理学とは,数学を使って形式化・記号化された論理・計算およびそれらと数学的構造との関係を調べる学問領域である.
数学基礎論の指す領域についてはいまいち曖昧なところがある.数学基礎論を数理論理学の異名として扱う人々もいる(実際,以下に紹介する本のいくつかはそのようなスタンスである)が,ここでは意味を広く取り,「数学基礎論とは数理論理学を含む数学の『基礎』について扱う学問領域」と扱うことにする.
いずれにせよ,数理論理学・数学基礎論の入門書は内容がかぶっていることも多いので,この節でまとめて扱うことにする.

わたしが最初に手に取った思い出深い数理論理学の本.自然演繹の完全性定理と一階述語論理のカット除去可能定理はこの本で最初に勉強した.
今読み返すと完全性定理の証明をするのに Henkin Theory を作っていないなど独特なところがある.

和書では1階述語論理の形式体系周りの話題が最も豊富な本.さまざまな形式証明体系に興味がある場合,この本が入門に良さそう.

薄い割に内容が濃いという評判の本.実際最初に読む本としては少し重たいかもしれない.数学的な部分については厳密に書かれている.
著者の林先生のサイトはこちら→林晋のサイト 八杉晋のサイト

数学基礎論の辞書.

数学基礎論の入門書.公理的集合論の入門書で有名な Kunen が著者.豚がハブられている ZFC の宇宙の絵が好き.
原書はこちら→ The Foundations of Mathematics (Studies in Logic: Mathematical Logic and Foundations)

数学基礎論の教科書.不完全性定理などの算術についての話題と(二階算術の)逆数学についてとても詳しい.通しで読むべき本のような気がするが,わたしは辞書のように使うことが多い.

アメリカの標準的なLogicの教科書らしい.理屈はわからないが Kindle 版と日本語訳は原書の半分近くの値段になっている.
原書はこちら→ A Mathematical Introduction to Logic (English Edition)

古い本.現在この本を読むくらいなら上の Enderton の本などを読んだほうが良いと思う.

不完全性定理

この項目では数理論理学の入門書で不完全性定理にフォーカスを当てている本を紹介する.

不完全性定理についての入門書.「(数学系のわたしが)哲学にも興味があるならこの本読んだほうが良い」と以前ある人に言われた.

古典論理

この節では非古典論理にフォーカスを当てている本を紹介する.

和書で関連性論理についてまとめてある本はこの本くらいではないか.

様相論理

この節では様相論理にフォーカスを当てている本を紹介する.

通称「様相論理の青い本」.様相論理以外のことも書いてあるのだが,なぜか「様相論理」の入門書として薦められがちなイメージがある.そのため,分類をここにした.
実のところ,様相論理の勉強に使ったことはなく,導出原理の勉強に使った.

通称「様相論理の魔術書」(おそらく,本のデザインのため).「様相論理の黒い本」とも呼ばれる. 数学基礎論サマースクール2015の講演内容をまとめた本.
様相論理でわからないことがあるととりあえず,この本の第一章に目を通す.
様相による真理論に入門するならこの本の第4章が良いと考えられる.

modal \(\mu\) 計算に詳しい唯一の和書.日本において modal \(\mu\) について学習するなら,まずこの本を読む必要がある時代が来るのではないか.

2015 年頃に様相論理の入門書として薦められたのだが,まだキチンと目を通していない().薦めてくれた S 先生,申し訳ない……

様相論理の辞書みたいな本.

証明論

この節では証明論が主なテーマの本を紹介する.

数学基礎論界隈のレジェンド竹内先生の証明論の本.竹内予想の萌芽が見て取れるらしいが,正直良くわからない.
今読むなら下の本のほうが良いと思う.

証明論の基本的なことがまとまっている本.

モデル理論

この節ではモデル理論が主なテーマの本を紹介する.と言いつつ,不勉強でこの分野についてわたしはほとんど知らない.

モデル理論の定評のある教科書らしい.

公理的集合論

この節では公理的集合論が主なテーマの本を紹介する.

通称「旧版 Kunen」の日本語訳.公理的集合論における強制法(Forcing)の入門書として有名.
下の「新版 Kunen」とは内容が違うらしい.記述集合論の人に言わせると「新版 Kunen には大事な話題が増えたのでとても良いのだが,旧版にしか載っていない大事なこともある」らしい.

通称「新版 Kunen」.上の「旧版 Kunen」とは内容が違うことに注意.言語が違うとはいえ,新板も旧版も読める日本人は恵まれているのかもしれない.

タイトルは圏論の教科書として有名な Categories for the Working Mathematician (Graduate Texts in Mathematics, 5) (邦題 圏論の基礎)のパロディか?Categories for the Working Mathematician (Graduate Texts in Mathematics, 5) が通称 "CWM" なので,この本は "SWM" と呼ぶべきだろうか?
パラッと手に取って最初の方だけ読んだ感じは読みやすかった.

定理証明支援系・自動証明

この説では定理証明支援系・自動証明についての本を紹介する.

Boyer-Moore の自動証明器を下敷きにした J-Bob なる定理証明支援系についての本.Boyer-Moore の自動証明器は,帰納法を含む量化子なしの一階述語論理のための自動証明器で,Lisp を下敷きに実装されている. ACL2 は Boyer-Moore の自動証明器の後継の自動証明器であり,かつそれを記述する言語である*5.J-Bob は ACL2 と Scheme によって実装されており,読者はそのどちらかの実装を使って実際に動かしながらこの本を読むことになる.そのため,この本を読むにあたって,最低限 Lisp の CAR, CDR, CONS くらいの知識が要求される.
などといけしゃあしゃあと書いてみたが,自動証明器の研究の全体像がいまいちはっきりと私には見えていないので,この本が自動証明機の入門書として適切なのかどうかはよくわからない.ともかく,よく良書として挙げられる.
Amazon で品切れでも版元では十全にある場合が多いそうなので,この本については版元から直接手に入れたほうが良いかもしれない.https://www.lambdanote.com/products/littleprover
原書はこちら→The Little Prover (The MIT Press)

型理論

この節では型理論についての本を紹介する.

通称 TaPL.原著者と翻訳チームが慎重にやりとりしながら翻訳をしていたことでよく知られている.その翻訳メンバーもすごい豪華.原書の細かい誤りが修正されているなど完成度も高い.
原書はこちら→Types and Programming Languages (The MIT Press)

プログラム意味論

この節ではプログラム意味論についての本を紹介する.

プログラム言語の意味論の本でもあるが,ラムダ計算の入門書としても有名.

定評のあった G. Winskel によるプログラミング言語の意味論の教科書の邦訳.訳者が豪華メンバーなあたり,かなり気合を入れて翻訳された本であることは間違いない.
原書はこちら→The Formal Semantics of Programming Languages

数学の哲学・論理学の哲学

この節では数学の哲学・論理学の哲学が主なテーマの本を紹介する.数学の哲学・論理学の哲学は論理学そのものではないが,周辺領域ではある.関心の多い人間も多いと考えられるため,ここに載せておく.
〇〇学の哲学というのは〇〇学に関する哲学的課題を扱う分野である*6.あくまでも哲学の領域の話であるので,〇〇学そのものと混同しないように注意してほしい.特に「数学の哲学」は伝統的に数学そのものと勘違いされやすく,いわゆるトンデモ屋が湧きやすい.数学徒の間で「哲学的話題」がタブーになる原因の一つがそういった人間たちなので,本当に勘弁してほしい.

「数学の哲学」の定評のある教科書らしい.本の構成は
第一部:数学の哲学で扱う問題と諸派の見解の簡単な要約
第二部:論理主義,形式主義直観主義(以上まとめてビッグスリー)以前の重要な数学の哲学に関する議論・立場の紹介(プラトンアリストテレス,カントおよびミル)
第三部:ビッグスリーの紹介(フレーゲラッセル,ネオ論理主義,ヒルベルト,カリー,ブラウアー,ハイティングおよびダメット)
第四部:ビッグスリー以後の重要な数学の哲学に関する議論・立場の紹介(自然主義,虚構主義,様相真理論,構造主義など)
となっている.各派について,その立場の考え方とその利点,欠点をそれぞれあげてくれている.ただし,ウィトゲンシュタインについてはそれほど取り上げてくれていないので,ウィトゲンシュタインに特に関心のある者は他の本を読む必要がある.
原書はこちら→ Thinking About Mathematics: The Philosophy of Mathematics

イアン・ハッキングおじさんの本.原題は "Why Is There Philosophy of Mathematics at All? " である.直訳すると『結局,なぜ数学の哲学(という分野)が存在するのか』だろうか.癖のある本なので,入門書として読まないほうが良いのは間違いない.
原書はこちら→ Why Is There Philosophy of Mathematics At All? (English Edition)

「論理学の哲学」の本.定評があるかどうかは知らない.今,読んでいる.

その他,論理学に関係はあるが分類に困った本

この節では,論理学に関係はあるが,分類に困ってしまった本を紹介する.

ゲーデルと20世紀の論理学(ロジック)〈1〉ゲーデルの20世紀ゲーデルと20世紀の論理学(ロジック)〈2〉完全性定理とモデル理論ゲーデルと20世紀の論理学 3 不完全性定理と算術の体系ゲーデルと20世紀の論理学 4 集合論とプラトニズム

通称四色ゲーデル.この記事の元記事では入門書に突っ込んでいたが,入門書にしては話題が広すぎるし,難しすぎるので,こっちに持ってきた.
長らく4巻が品切れだったが,最近再販された.

数理論理学周りの位相や束論の話をまとめた本.証明がとても読みづらく行間も広いので,ある程度数学ができて自力で行間を埋められる人のみが読める本と考えられる.

通称 SGL.幾何学と数理論理学における「層」という概念について述べているらしい.
圏論的論理学をやるにはこの本が現状必須らしい.

番外:読むべきではない本

この節では「論理学」の本ではあるが,読むことをとてもおすすめできない間違いの多い本をあげる.

明らかに必要最低限のことも理解できていないまま書いている. ベン図をわざわざ書いてストラクチャを定めず真偽を議論し始めた瞬間, この本をぶん投げた. 有名なサイエンスライターの本だが, こういう悪質な本を書くのはいかがなものかと思う. Kindle 版が出てしまったらしいので被害者が増えないことを祈る.

参考になるリンク

この記事と似たような試みをしているサイトを紹介する.

*1:そんなに人気がないということかもしれない.

*2:クリティカル・シンキングと名前のついた和本でまともな本をあまり見たことがないので,この名称を日本で使うのは避けた方が良いかもしれない.

*3:たとえば,野球の勝利条件として不戦勝が考慮されていないなど.

*4:因果推論を帰納的論理にカウントするのが適当かどうかはわたしの知識量では判断しかねる.

*5:たぶん,そういうことだと思う.

*6:「個別科学の哲学」とも総称される.が,「文学の哲学」など,通常は科学に分類されないような学問領域に関する哲学的課題を扱う分野もあるので「個別の学問領域の哲学」と総称するほうが良い気もする.

シン・ウルトラマンを観て

この記事は映画『シン・ウルトラマン』を観て思ったことを書き散らしたものである.もっと凝ったタイトルにすることも考えたが,面倒なので上のようなタイトルになった(考えすぎてわけがわからなくなったとも言う).
この記事は映画『シン・ウルトラマン』のネタバレを含む.ネタバレが嫌な方は,映画『シン・ウルトラマン』を視聴後にまた来てほしい.

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本文に直接 mathbf と書くのをやめよう 〜LaTeX 初心者よ,見栄えと構造の分離を意識せよ〜

という煽りタイトルをつければ興味を引くかなと思った.簡単な内容で申し訳ない.「そもそもお前も LaTeX 初心者だろ」と言われると「それはそう」と言うほかない.

この記事は TeX & LaTeX Advent Calendar 2021 - Adventar の21日目の記事です.20日目は hilssh さんの うぶつん: LaTeXで宛名ラベルシールの差し込み印刷をする という記事でした.22 日目は t-kemmochi さんの tcolorboxでスライドを作る - Qiita という記事です.参加者の中で一番 TeX プログラミングに暗い人間ですが,Twitter で回転画像を眺めていたら書かなければいけない気になってきたので書きます.重点テーマとあまり関係ない内容で申し訳ない.

見栄えと構造の分離をしよう

LaTeX で文書を書くようになってから半年くらい経ったときのこと,急に本文中のベクトルの表記をボールド体(\mathbf)ではなく,上に矢印(\overrightarrow)にしたくなったことがある.このとき,\mathbf を他の意味でも使っていたために,エディタの一括変換では修正ができなくなったことを覚えている.これはプリアンブルにおいて

\newcommand[1]{\mathvect}{\mathbf{#1}}

と定義しておいて,ベクトルを書くときはこの「\mathvect」を使うようにすればこのような事態は防げた.そうしておけば、先のコマンドを

\newcommand[1]{\mathvect}{\overrightarrow{#1}}

と定義し直せばすぐ終わったのである.これは「見栄えと構造の分離をしていなかった」ことが原因の苦労である.
文書において何らかの文字列装飾をする場合,普通は「文字列を装飾すること(見栄え)」そのものが目的ではなく,「文字列に何らかの意味を付与すること(文書構造)」が目的で行われているはずである*1.これらを分離することで,後で「同じ意味内容」の「見栄え」を一括して変更する際,コマンドの定義を書き換えるだけで,変更を終えることができる.
また,コマンドの名前を適切に定義することによって,たとえば,この文字列が「ベクトル」を意図して書かれたことなどが,他の人にも明らかになる.特に複数の変数領域を扱うような分野においては,タイプミスの防止にもなる.
Word のような WYSWYG*2と違い,LaTeXマークアップ言語なので「見栄えと構造の分離が容易」というのがメリットである(反面コマンドを使うのになれる必要はあるが).そのメリットを存分に活かすため,文字装飾のコマンド("\mathbf" など)を本文中に直接打ち込むのは極力避けるべきである.

見た目と構造の分離の具体例

抽象的な話だけだと何をすればよいのかわからない人も出てくると思われるので,いくつか具体例をあげてみる.

ほぼ全員がやっている「見た目と構造の分離」

「見た目と構造の分離」という概念を聞いたことがなくても,LaTeX ユーザーがほぼ間違いなく行っている「見た目と構造の分離」がある.
それは \section などの「見出し用のコマンド」である.節のはじめの見出しなどで

\noindent \textbf{1. hoge}

という書き方をする人間はほとんど居ないはずである*3.この書き方では「節」なのか「箇条書きの一部」なのかがわからない.節の始まりの見出しでは,やはり

 \section{hoge}

と書くべきである.

似たように Remark を書き始める際も

\noindent \textbf{Remark.} hogefuga......

などと書き始めるより,定理環境 remark を

\usepackage{amsthm}
\newtheorem*{remark}{Remark}

と用意し

\begin{remark}
hogefuga......
\end{remark}

などと書くべきである*4

強調のためのコマンド

「強調」という明確な「意味」をもってフォント(見た目)を変更する場合,それ用のコマンドを用意するべきである.
LaTeX には \emph という強調のためのコマンドが用意されている.使用するドキュメントクラスやスタイルファイルによって,どのような装飾が行われるかは変わってくるが,仮に強調の仕方を変えたい場合,プリアンブルに

\renewcommand[1]{\emph}{\textgt{#1}}

などと書いておけば強調の方法を変更することができる.元の \emph 以外にも強調がほしければ,たとえば

\newcommand[1]{\bigemph}{\textgt{#1}}

などとコマンドを定義すれば良い.

有識者による指摘(2020/12/25 追記)

有識者 W 氏によると,LaTeX 標準の \emph コマンドはネスト(重ねがけ)ができるらしい.そのためか最近のLaTeX2e ではネストごとの字体を指定するための \DeclareEmphSequence というコマンドが存在するらしい.たとえば,

\DeclareEmphSequence{\itshape,\upshape\scshape,\itshape}

などとすると,第一レベルでは斜体(イタリック体),第二レベルではスモールキャップス体,第三レベルではスモールキャップスの斜体に変更をすることができる.
そのため,\renewcommand で \emph を再定義するよりも

\DeclareEmphSequence{\gtfamily\sffamily}

と定義した方が良いのではないかとのことである*5.詳しいことは

$texdoc ltnews31

すると表示される LaTeX News, Issue 31, February 2020 の p.3 "Handling of nested emphasis" を参照してほしい.

わざわざこの記事を読んでコメントをくれた有識者の W 氏には深く感謝する.ありがとうございます.

数学的な意味を表現するためのコマンド

先の

\newcommand[1]{\mathvect}{\mathbf{#1}}

というコマンドは「ベクトル」を表す文字だということを明確に表現している*6.同じように数学的に意味のある表記などは「見栄えと構造の分離」という観点からコマンドを定義したほうが良いように思う*7.たとえば,私の LaTeX のプリアンブルには

\newcommand{\mathsetintension}[2]{\left\{ #1 \left| #2 \right. \right\} }
\newcommand{\mathsetextension}[1]{\left\{ #1 \right\} }

などという集合の内包記法と外延記法のためのコマンドを用意してある.コマンドの名前が長いと感じるかもしれないが,「補完機能」のついていないエディタの方が珍しい現在においては,名前の長さはそれほど問題ならないと思う.「補完機能」を使えば良いからである.そのため,名前の長さよりも名前の明確さの方を優先するべきに私は思う.もちろん,長すぎて,名前の意味を理解しにくいとなると問題だが.

ちなみに,こういう数学的な意味を表現するためのコマンドを用意してくれている physics パッケージなるものがあるが,

$texdoc physics

して,定義されているコマンドを見る限り,引数の数によって出力が変わるコマンドがあるなどわたしには使いやすいパッケージとは思えない.が,このパッケージを愛用している者もいるとは聞くので,こういったパッケージを利用するのも一つの手かもしれない.

結論

「見栄えと構造の分離」を意識して,文書を作ろう.とはいえ,あまり意識しすぎて,自作コマンドを大量に用意しすぎすると,管理が大変になるので気をつけよう. 自作コマンドは他人が読んでも意味を推測できるような名前をつけるようにしよう.
実際は完全に「見栄えと構造の分離」をするのはかなり厳しいので,最初はうまく行かなくてもしょうがない.「見栄えと構造の分離」を目指して,今日も LaTeX していこう.
もし,本記事に間違ったことを書いていたら申し訳なく思うが,そのような場合,優しく教えていただけると幸いである.特に有識者からの指摘は甘んじて受け入れる.

*1:フォントの紹介の場合は「文字列を装飾する」事自体が目的になるが.ただ,そのような文書を書くことは普通は稀に思われる.

*2:"What You See is What You Get" の略.画面上の文書の見た目通りに印刷されることが期待されるような文書ソフトなどをそのように呼ぶ.

*3:\section コマンドを知らないレベルで LaTeX に慣れてないならば仕方ないが.

*4:信じられないことに前者の書き方を勧める自称「TeX に詳しい人」に私は会ったことがある.

*5:和文であればゴシック体、欧文であればサンセリフにするという意図。

*6:と思う.

*7:やりすぎはまずいが.

群準同型が単射である条件のおはなし

群準同型の単射必要十分条件でおもしろいものを知ったので記す.

補題
\( A, B \) を群,\( f\colon A \to B \) を群準同型とする.
\( f^{-1}\left(1_{B} \right) = \{ 1_{A} \} \) ならば,\(f\) は単射

証明.
\(f\left( a_{0} \right) = f\left( a_{1} \right)\) を仮定する.
すると,
\[f\left( a_{0} \right) \left(f\left( a_{1} \right) \right)^{-1} = 1_{B} \]
である.\(f\) は群準同型なので
\[f\left( a_{0}a_{1}^{-1} \right) = 1_{B}. \]
\( f^{-1}\left(1_{B} \right) = \{ 1_{A} \} \) であるから,
\[a_{0}a_{1}^{-1}=1_{A}. \]
よって,\(a_{0}=a_{1}\).ゆえに \(f\) は単射である. \(\blacksquare\)

命題
\( A, B \) を群,\( f\colon A \to B \) を群準同型とする.
ある \(b\in B\) について,その\(f\) による引き戻しが一点集合ならば,\(f\) は単射

証明.
\( f^{-1}\left( b \right) = \{ a \} \) を仮定する.
\( a' \in f^{-1}\left( 1_{B} \right) \) と仮定する.
\begin{align*}
b &= f\left(a\right) \\
&= f\left(a\right) \cdot 1_{B} \\
&= f\left(a\right) \cdot f\left(a'\right) \\
&= f\left( aa' \right)
\end{align*}
よって,\(aa'\in f^{-1}\left( b \right)\). \( f^{-1}\left( b \right) = \{ a \} \) より,\(aa'=a. \) ゆえに\(a'=1_{A}.\)
以上より\( f^{-1}\left(1_{B} \right) = \{ 1_{A} \}. \) 補題より\(f\) は単射.\(\blacksquare\)

基礎研究をする底辺大学院生の戯言〜聞け!男一匹が命をかけて諸君らに訴えているんだぞ!〜

おまえら、聞け。静かにせい。静かにせい。話を聞け。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。
いいか。それがだ、今、大学院生がだ、ここでもって立ち上がらねば、大学が立ち上がらなきゃ、日本の研究業界の復活ってものはないんだよ。諸君は永久にだね、ただの無駄飯食らいになってしまうんだぞ。
おれは4年待ったんだ。大学が立ち上がる日を。……4年待ったんだ、……最後の30分に……待っているんだよ。諸君は研究者だろう。研究者ならばどうして基礎研究を否定する政府の方針を守るんだ。どうして自分を否定する政府のために、基礎研究の重要性を否定する財務省・政府にぺこぺこするんだ。政府方針に「選択と集中」がある限り、諸君たちは永久に救われんのだぞ。







われわれ大学院生は、大学によって育てられ、いわば大学はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このような忘恩的行為に出たのは何故であるか。かえりみれば、私は四年、大学内で大学院生としての待遇を受け、一片の打算もない敎育を受け、又われわれも心から大学・研究を愛し、もはや大学の外にはない「真理の探求」をここに夢み、ここでこそついに知らなかった男の涙を知った。ここで流したわれわれの汗は純一であり、窮理の精神を相共にする同志と共に誰も通ったことのない研究の荒野を馳驅した。このことには一点の疑いもない。われわれにとって大学は故郷であり、世知辛い現代日本で自由な研究をできる唯一の場所であった。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなお、敢えてこの暴挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と言われようとも、大学を基礎研究を愛するが故であると私は断言する。
われわれは日本が、経済危機から目先の物事に囚われ、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計はゆとり教育により失われ、教育事業・経済政策などの政府の失敗はただただごまかされ、日本人自ら日本の未来を汚していくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。われわれは今や大学にのみ、真の基礎研究、真の自由、真の研究者の魂が残されているのを夢みた。しかも一般大衆には、大学における研究は不要であることは明白であり、国の根本問題である研究・教育が、御都合主義の財務省の戯言によってごまかされ、大学運営交付金を減らされ続け、大学人の魂の腐敗、道義の退廃、業績の減少の根本原因をなして来ているのを見た。最も基礎研究を重んずべき大学が、もっとも悪質な欺瞞の下に放置されて来たのである。大学は国家の無茶な要求に答えてきた。大学は学問の府たりえず、研究資金を与えられず、ただ、職業訓練学校としてのみの役割を求められ、その精神さえも踏みにじられてきた。われわれはバブル後のあまりに永い日本の眠りに憤った。大学が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。大学が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。積極財政によって、大学がその本義に立ち戻り、真の学問の府となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
四年前、私はひとり志を抱いて大学に入り、基礎研究に身を捧げる決意を固めた。ただ、大学が目ざめる時、大学を真の学問の府にするために、「真理」を探求するために、命を捨てようという決心にあった。積極財政がもはや議会制度下では難しくとも、われわれは基礎研究活動の尖兵となって命を捨て、基礎研究の礎石たらんとした。重要だが金を生まない研究を守るのは大学であり、金を生む研究をするのは企業・民間の研究所である。応用研究が行き詰まりを見せた段階に来て、はじめて基礎研究の重要さは再認識され、大学はその本義を回復するであろう。大学の本義とは「学問の保護」にしか存在しないのである。国のねじ曲がった大本を正すという使命のため、われわれは少数もっぱら訓練を受け、挺身しようとしていたのである。
しかしながら去る2020年何が起こったか。この空前のコロナ禍という状況による驚くべき不況、民の生活苦にも関わらず、積極的な財政出動は行われなかった。その状況に、私は、「これで財務省の方針は変わらない」と痛恨した。コロナ禍には何が起こったか。政府は戒厳令にも等しい規制、同調圧力で、ウイルスを押さえ込み、あえて「積極財政」という火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。財政出動は不用になった。政府は公助によってではなく、民の自助で乗り切る自信を得、国の根本問題から目をそらし続ける自信を得た。財務省には財政健全化の飴玉をしゃぶらせつづけ、実を捨て虚を取る方策を固め、基礎研究の研究者の苦しみから目をそらし続けたのである。基礎研究の研究者の苦しみから目をそらし続ける!政治家にとってはそれでよからう。しかし大学にとっては、致命傷であることに、政治家は気づかないはずはない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、ごまかしがはじまった。
銘記せよ!遡ること国立大学法人化以来十七年間は、大学にとって悲劇の日々だつた。国立大学法人化以来十七年に渡って、大学運営交付金の増額を待ちこがれてきた大学にとって、決定的にその希望が裏切られ、研究環境の改善、研究者の待遇改善は政治的プログラムから除外され、自民党民主党、学生の味方を名乗る公明党までもが、教育・研究業界の崩壊をただただ放置し続けた日々であった。この日々はまさに「競争的資金」に頼らなければ学生の指導もままならない大学を量産し続けた日々であった。研究者たちは、研究・教育の資金を得るために「研究業績」にも「教育の業績」にもならない書類を大量に書かなければならなくなってしまったのである。これ以上のパラドクスがあろうか。
われわれはこの日々に政治の動向を一刻一刻注視した。われわれが夢みていたように、もし大学教員に研究者の魂があるのならば、どうしてこの事態を目視しえよう。自らを迫害するものから資金を得るとは、何たる道義的矛盾であらう。研究者であれば、研究者の誇りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上がるのが男であり研究者である。われわれはひたすら耳をすました。しかし大学のどこからも、「自らを迫害する政府のために研究業績を積め」という屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかった*1。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかっているのに、大学は声を奪われたカナリヤのように黙ったままだつた。
われわれは悲しみ、怒り、ついには憤激した。われわれは卒業後のポストがないと何もできぬ。しかし博士号取得者に与えられるポストは悲しいかな、最終的には日本政府は用意しないのだ。日本のように教育機関に研究機関に資金を与えずただ「業績を出せ」などと叫び続ける異常な国は他にはないのだ。
この上、財務省文部科学省の戯言に賛同し、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩もうとする大学は魂が腐ったのか。研究者の魂はどこへ行ったのだ。魂の死んだ巨大なハコモノになって、どこへ行こうとするのか。学術会議任命拒否に当たっては自民党売国奴呼ばわりした者もあったのに、国家百年の大計にかかわる教育・事業に金を出さない政府には、抗議して腹を切る大学教員一人、大学からは出なかった*2
われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒瀆する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。「すぐ役に立つ」という目先の利益のみで、魂は死んでもよいのか。「すぐ役に立つ」以上の価値なくして何のための研究だ。今こそわれわれは「すぐ役に立つ」以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは応用研究ではない。基礎研究だ。われわれの愛する永遠不変の「真理」だ。これを骨抜きにしてしまった文部科学省財務省、政府に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の研究者として蘇ることを熱望するあまり、この暴挙に出たのである。





応用尊重のみで、研究界隈は死んでもよいのか。「すぐ役に立つ」以上の価値なくして何のための研究だ。今こそわれわれは「すぐ役に立つ」以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは応用研究ではない。基礎研究だ。われわれの愛する永遠不変の「真理」だ。これを骨抜きにしてしまつた文部科学省財務省、政府に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか!

(その直後、バルコニーから総監室に戻り割腹)

参考文献

1. 三島由紀夫、『檄』 http://sybrma.sakura.ne.jp/348mishima.gekibun.html
2. ニッソちゃん、『Vtuber底辺論~聞け!V一匹が命をかけて諸君らに訴えているんだぞ!~』 https://note.com/joicleinfo/n/n64a5778b2a3d
3. Wikipedia 三島事件 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6



このブログ記事はフィクションです。

*1:実際はさまざまな学生、研究者、団体が声をあげている。そういった方々には申し訳ないと思っているが、パロディ的にはそっちのほうが面白いので、原文のママにした。

*2:腹を切った大学教員は残念ながら居なかったと思うが、この現状に不満の声を上げる教員はたくさんいた。そもそも、腹を切ったところで、どうなるのかという話でもあるが……