Sokratesさんの備忘録ないし雑記帳

書きたいことを書いている.駄文注意.

数学は哲学?

「大学で数学は哲学になる」と主張する人がいる*1.特におもしろくもないし,適切な比喩とも思えないんだが,一部の頭がフワフワしている層や視野の狭い人々,数学を神聖なものに祭りあげたい何とかコミュニケーターなどには受けるらしく,ごくまれに信じている人がいる*2
ただ,実際問題,違いを説明しろと言われるとワリと困る.「リンゴとゾウの違いは何ですか」と聞かれているようなものなので,当然なのだが,「いや,見た目も大きさも全然違うじゃん」と言いたくなる.問題は「リンゴとゾウ」なら一目瞭然なのだが,「学問」は目に見えないので,どちらもわかっていない人には誰かが説明しないと違いがはっきりわからない点にある*3.「リンゴの触り心地はツルツルだし,ゾウも(牙が)ツルツルだから,きっと似たようなものだろう」と言う盲人のようなものである*4
この記事の目的は「数学と哲学の違い」という直観的には明らかだが,ちゃんと主張しようとすると存外面倒なことをできるだけ平易に説明して,最初にあげたような変な主張がナンセンス極まりないということを改めて確認することにある.わかっている人には自明なことしか言わないので,別に読んでも得るところはないと思われる.

数学ってどういう分野?

数学側の話から始めよう.「数学ってどういう分野?」というのはかなり難しい問題で,直観的にはある程度合意が取れている(と思われる)にも関わらず,しっかりと言葉にして答えるのは非常に難しい.実際のところ,この問題は数学の哲学*5のイシューの一つであり,古今東西,喧々諤々と議論されている.で,正直それを全部網羅していたら教科書一冊書けてしまうので,この記事でやることではない.ここでは,そういう諸々の議論をすっ飛ばして,現代数学の現場感覚に近いと思われる「構造主義」の立場から,数学について説明することにする*6
さて,構造主義と呼ばれる立場の人々に言わせると「数学はパターンの科学」である.主張したいこととしては「この世にはパターンがありふれており,数学はパターンを研究する学問である」とするものである*7.ここで言うパターンを説明する.
何らかの関係を伴った対象の集まりをシステムと呼ぶことにする.あるシステムにおいて,対象関係の相互関係だけに着目しシステム内の他の対象との関係に影響を及ぼさない特徴を無視することによって,得られる抽象的な形式をパターン構造)と言う.
パターンの例を与えよう.「チェスの盤面」というシステムは「駒同士の空間関係(配置)」や「利き」「可能な手」などの関係を伴ったチェスの駒の集まりである.いくつかの「チェスの盤面」というシステムからパターンを取り出そうとするとき,たとえば「チェス盤やチェスの駒の材質は何か」というような事柄はシステムの他の対象との関係に影響を及ぼさない特徴であるので無視される.「駒の配置」「手番は先攻か後攻か」「利き」「可能な手」そういったことを形式化した対象こそが,チェスの盤面から得られるパターンの一つである.実際問題,チェスについて数学的に取り扱う時,必要なのは「駒の初期配置」,「それぞれの駒の動かし方」,「現在の駒の配置」,「手番は先攻か後攻か」などの情報であって,「チェスを指しているプレイヤーの名前は何か」や「チェス盤やチェスの駒の材質は何か」というようなことについては何の意味もなさない(少なくとも本質的に必要な情報ではない).
もう少し抽象的な数学的対象「群」もパターンと言える.「群」は二項演算(という共通したパターンを持ついくつかの「システム」)を考える際に頻繁に見かけるパターンである.つまり,パターンの中に見出せるパターンの一つが「群」である.
このような「パターン(構造)」こそが数学的対象であり,その「パターン」の性質を研究する分野が数学であるとするのが,構造主義という立場(に共通する考え方)である.我々は興味のある「パターン」を規定する言明を「公理」や「定義」などと呼び,それらから演繹的に導かれる言明を「定理」などと呼んでいる*8
この考え方の利点は数学の他分野における応用が豊富であることの説明がしやすいことである.この世にはチェスのパターン(構造)以外にもさまざまなパターン(構造)にあふれている.自然数などの「数」もそのような「パターン(構造)」の一つであり,太古の昔から人々をひきつけてやまない「パターン」である.
この記事では「数学」と言ったらこのような「パターンの科学」であるとみなすことにするが,わたしの知る限り,そこからはみ出た「数学」を見たことがないので,それほど的外れな定義ではないと考えられる.

哲学ってどういう分野?

どう考えてもわたしは「哲学とは何か」について語るのにふさわしくない人間であるが,それを言い始めるとこの記事の企画自体が成り立たないので,目をつぶることにする.
『哲学ってどういう分野?』というのもやはり,哲学の哲学*9の一課題であり,そう簡単に結論づけられるものではない.しかし,さすがに「任意の学問は哲学である」のような電波発言は捨ておくことにする.この発言は大概ドヤ顔と共に発せられるが,これは「哲学の固有の問題はない」「哲学者に固有の解決すべき問題はない」と言っているようなものなので,かえって,哲学を貶める発言ではないかと思う.学術と哲学*10が同意であった時代はあったようであるが,少なくとも現代的な用語法としては奇妙である.同様に日常用語では「哲学」を「思想」や「価値観」などの意味で用いることもあるが,これらも学術用語としての「哲学」とは別物と判断し,そのような意味であるとは解釈しない.とはいえ,「哲学とは何かわかりません」では何も議論できない.そこで,「それぞれの学術領域には特有の問題がある.逆にその特有の問題こそが学術領域を特徴づける*11」という価値観の下,「哲学で問題になる事柄」をいくつか紹介することによって説明に代えることにする.
疑似科学と科学の哲学』などによると,哲学には大きく分けて,存在論形而上学),認識論知識論),価値理論倫理学),論理学の4つの問題領域があるとされる.存在論(形而上学)における代表的な問題は(特に抽象的な概念について)「『存在する』とはどういうことか」「何が存在するのか」である.認識論(知識論)は「知識とは何か」「知識は得る方法とはどのようなものか」などについて扱う分野である.価値理論(倫理学)では道徳,倫理や価値について扱い,「物事の価値とは何か」や「道徳的判断はどのように下されるべきか」などの問題を扱う.論理学は,「論証」や「推論」を扱う分野で,「正しい推論とはどのようなものか」や「ある形式論理体系は○○という性質を満たすか」などの問題を扱う*12
こういった問題領域に所属するとは考えにくい問題だが,「哲学」の問題としてあげられるものもいくつかある.たとえば,「過去の哲学者の思想とはどのようなものであったか(思想研究)」や「○○という概念の本性は何か(概念分析)」などがあげられる.しかしながら,これらも結局のところ上記の問題領域群とどこかしら共通する問題意識がある.思想研究であれば,結局,対象となる思想家の取り組んだ(上記の4分野のいずれかもしくはそれらにまたがっていると思われる)問題に取り組むことになるし,概念分析も,存在論や認識論の問題意識なしでは到底行えない活動である.いずれにせよ,上記の4つの問題領域のいずれからも大きく外れた問題を現代哲学の問題とすることはあまりないと思われる*13

数学と哲学どう違う?

さて,ここまでの概略だけでもほぼ明らかな気がするのだが,数学と哲学どう違うのかについて書いていこう.

研究対象が違う

まず,数学と哲学の研究対象の違いについて述べよう.
上で述べた通り,「パターンの科学」としての数学の観点からは,数学の研究対象はパターン(数理構造)である.この数学的対象・概念は(集合論の語彙などを用いて)規約的に定義することができ*14,議論の途中でその定義を変えることはできない.これは非常に不自由なことであるが,その不自由さこそが,数学的対象とその定義の特徴と言える.
それに対して,哲学の研究対象はこの世のすべてである.とはいえ,ある学問と共通の対象を扱う場合でも扱う問題は変わってくることには注意が必要である.数学的対象もときに哲学の考察対象になるが,問題としてフォーカスが当たるのは数学では扱わない部分,たとえば,数学的対象の実在性や「数学的対象に対する知識を得るとはどういうことか」というような事柄である.この辺りは後でもう少し述べる.
先に述べた通り,数学的対象は規約的に定義される.しかし,哲学の研究対象は必ずしもそうではない.一部の対象に至っては,規約的定義ができないとされる場合がある.たとえば,「善」という概念は他の概念に帰着できないと考えられているため,規約的定義はないとされることが多い.こういった場合,説明的に定義するなどの手段が取られる.また,概念分析をする際が顕著だが「定義を仮に置く」ということが哲学の場合では起こる.たとえば,○○という概念の本性を知りたい場合に,いったん○○の定義を仮において,その定義に則って議論を進め,いざ問題が起こったら,○○の定義に修正を加える,というのは典型的な哲学の議論の一種である.数学の感覚で居るとこれはとんでもないことだが,哲学の対象は,数学の対象と違い,言語で明確に表現するのが難しかったりそもそも曖昧であったりすることも多いため,このような手法を取らざるを得ないのである.

この節のまとめ
  • 数学の研究対象
    • 数理構造(パターン)
      • 規約的定義によって対象は定義される.
      • 定義されたものは(少なくとも議論の最中には)定義を変更できない.
  • 哲学の研究対象
    • この世のすべて
      • 規約的定義が難しい対象も扱う.
      • 対象の定義を探るような営みもあるため,仮に定義された概念の定義が議論の途中で修正されることがある.

問題意識が違う

先に述べた通り,数学的対象もときに哲学の考察対象になる.しかし,同じ対象を扱うにしても問題意識がまるで違う.
「自然数」を例にその問題意識の違いを簡単に述べる.数学者が「自然数」を扱うとき,問題とするのは「○○という性質を持つ自然数は存在するのか」や「他の数学的対象との関係はどのようなものであるか」などの「構造」としての性質に関わるものである.それに対して,哲学者が「自然数」を扱うとき,問題とするのは「自然数が存在するとして,どのように存在するのか」や「無限の対象でありかつ,我々と因果を結べるとも思えない自然数の知識を我々はなぜ得ることができるのか」,「自然数はなぜ,これほど多様に科学的な存在に現れるのか」など,自然数の「存在(実在)」に関することや「自然数の認識」,「自然数を考える価値」に関することである.
先に述べた通り,数学は「パターンの科学」である.逆に,そこからはみ出たような内容については問題として(普通は)持たない.
数学的対象についての「構造」としての性質は,哲学的に考察する際に参考になることはある.しかし,その主要な関心となることは稀である*15

この節のまとめ
  • 数学の問題意識
    • 対象の数理構造としての性質が問題になる.
  • 哲学の問題意識
    • 対象の「存在(実在)」や「認識」,「価値」に関することが問題になる.

研究手法(論理)が違う

最後に数学で使われる論理と哲学で使われる論理の違いを述べる.
この記事では「前件(推論の前提)がすべて真であるとき,常に後件(推論の結論)も真である」ような「推論」を「演繹」と言い,それ以外の「推論」は「帰納」と呼ぶことにする*16
数学が他の諸学問と大きく異なる点として,「論証」として認められている手段が「演繹」による推論の列である証明のみにあることにある*17.実際には,数学をする際にも予想を立てる場合などに「帰納」を用いる場合はある*18.しかし,「帰納」で得られる結論はどうやっても「予想」以上のものにはなれない.数学においては「演繹」は特別重要視される推論であり,「帰納」は正式な論証方法としてみなされない.
それに対して,哲学においては「帰納」も「論証」の際に認められる.そもそも,曖昧な対象を相手にすることも多く,仮定としておいてよいものがはっきりしないことも多いため,とっかかりとして「観察された有限の事柄からの一般化」などの「帰納」が必要だからである*19.また,哲学においては,異なる立場同士のどちらが優れているのかが観察などによっても結論できない場合に,「理論的美徳」というようなものを突き合わせて「もっともらしい説明」を与えることができるのはどちらの立場であるのかを議論することも多い(アブダクションという推論方法).その他,哲学特有の論法として「直観に反する」というものがある.ここでいう「直観」は「(多くの哲学の訓練を受けた人々にとって)共通の認識として持っていると考えられる信念」である*20.かなり曖昧な概念だが,この「直観」は哲学において重要で,「直観に反する(ので間違っている)」という論証が哲学においては普通に行われる.これは数学の訓練を受けた人間にとっては信じられないことだろう.
さて,数学においては「演繹」のみしか認められないため,一度「論証」されたことは議論の余地はない.それゆえ,数学の発展はその演繹で示されたことを用いて「新たな言明」を示していく作業になる.それに対して,哲学においては「帰納」によって得られた言明は必ずしも「真」ではないため,そういった言明に対しても議論することができる.逆にそういった部分に着目して議論が発展していくことすらある.

この節のまとめ
  • 数学の論理
    • 「論証」で使うことが認められるのは「演繹」のみ
      • 「帰納」を用いることがあっても,それは予想を立てる場合などであり,使った時点で,「論証」とはみなされない.
    • 「演繹」のみしか認められないため,一度「論証」されたことは議論の余地はない.
  • 哲学の論理
    • 「論証」で「帰納」も使う
      • 「直観に反する」などの哲学特有の論法もある.
    • 「帰納」を使うところが議論する余地のある場所であり,そういった場所に注目して,議論を発展させることがある.

総括

当たり前のことをしっかりと言うのは非常に難しい.

参考文献

おまけ:数学と哲学の共通点

違う点だけ書いて終わってもよかったのだが,せっかくなので簡単にだが数学と哲学の共通点もあげてみることにする.わたしが思いつく限りでは次の通り:

  • 数学と哲学の共通点
    • 主に思弁により研究を行う.
      • もっとも,最近は哲学でも実験をすることがあるようだが.
      • 思弁で研究するのは,物理学の理論系もそうなので,数学と哲学の特徴としてあげられるとよくわからない.
    • 困ったら定義に帰れ
      • 哲学の場合,概念分析の最中などの場合,「仮の定義」に戻ることになる.
      • とはいえ,「困ったら定義に帰る」というのは学術では共通する思考とも思われるので,哲学・数学特有の共通点ではないとも思う.

おまけ:「数学と哲学には共通部分があるから完全に間違いとは言えないのでは」という人々へ.

「数学と哲学には共通部分があるから『数学は哲学』は完全に間違いとは言えないのでは」という意見をそこかしこで見た.正直,「正気か?」となったのだが,一定数居るようなので,コメントしておく.
「共通部分があるから『○○は△△』」というのが通用すると思っている人は,「数理生物学があるから『数学は生物学』」や「経済物理学があるから『経済学は物理学』」などということになってしまうが,これを奇妙に思わないということなのだろうか.そもそも論として,「数学と哲学」が共通部分を持つとしたら,数理論理学の周辺くらいというかなり限られた領域で,しかも,ここの領域については「ここまでは数学」「ここまでは哲学」みたいな棲み分けがかなりはっきりしているので,あらゆる意味で間違っていると思うんじゃが(同じ人が同じような話題で数学したり哲学したりすることはあるけど).

コメント返し(2024/02/28)

コメントへの応答.一応このブログ自体のコメント欄も使えるので,はてブでコメントしたが,こちらの応答にさらに応答したい場合はそちらを使ってほしい.
なんか,電波さんが湧きやすい話題なのか,そういうのが多いのはおもしろいですね.応答していないのは単にうまい返しが思いついてないからですので,お気になさらず.

まじめな応答

比喩だからいいじゃん系

面倒なのでまとめて応答することにする.難しいものの比喩としての「哲学」だと解釈しても良いのだが,そうすると「なんで,そんなかえってわかりにくい言い回しをするの?比喩を使えばわかりやすくなると思っている系のおっさんか?」ということになる.どの点においてわかりやすくなっているのかを説明できないと,擁護として足らないし,フワフワと言葉を使いすぎなのでは.(2024/02/28)

「必要だ」って意味じゃないの系

これ系のよくわからん擁護も定期的に湧く.だいたいこの後同じようなことを言うのがポコポコ増えてくるのも含めて,ゴキブリみたいだなって思う.お前は「ご飯を炊くには水が必要」ってのを「ごはんは水になる」って言うんだな.(2024/02/29)

電波さんか迷ったライン

電波さんっぽいけど,断定もしにくかった人々に対する応答.

たぶん,電波さんなんだけど,ちょっとだけおもしろかったので,コメントしてみる

ここに突っ込んだ連中は相手したくない.が,ちょっと面白いので,コメントだけ付しておく.

sokrates7chaos.hatenablog.com

はてなブログランキング掲載

この記事は以下のランキングで 18 位をいただいた.ありがとうございます.

blog.hatenablog.com

*1:「大学で生物は化学に,化学は物理に,物理は数学に,数学は哲学になる」というのがフルバージョンである.なにも的を射ていない割になぜか人気がある.ちなみに詭弁家が「『数学は哲学』の『哲学』は『難しいこと』という意味だ」と言っているのを見たことがあるが,それならこの文言の「物理は数学」の「数学」の意味を教えてほしい.物理は数学的な道具が必要とはいえ,明らかに数学ではないのだが,これはどんな比喩なんだろうか.

*2:だいたいこういうおもしろくもない主張をする専門バカ人々は年度始まりに増える傾向がある.

*3:説明したらわかるとは言っていない.

*4:リンゴと象牙もそんなに触り心地は似てないと思う.正直似ていると勘違いする理由がわからないという意味でもこの比喩を使っている.

*5:【汎用注釈】〇〇の哲学 - Sokratesさんの備忘録ないし雑記帳

*6:歴史的に有名な諸派の考え方などは『数学を哲学する』にまとまっている.また,この記事では詳しく触れない「構造主義」の哲学的欠点などもこの本を足がかりに調べると良さそうである.ちなみに,よく勘違いされるが,ブルバキと構造主義に直接の関係はない.また,ここで言う構造主義はアメリカが発祥であるので,ポストモダニズムなどの文脈で出てくるフランスの構造主義とは系統が異なるようだ.(2024/02/28 追記)Parsons 1990 によると,「数学的対象は構造である」という見方自体は,19世紀の終わりくらいまでさかのぼれるらしい.この種の見方を明確に出したのは Paul Bernays の1950 年の論文らしい(未確認).それより後に W. V. Quine も似たような主張をしているらしいが,こちらも確認できていない.構造主義者として有名な Shapiro が "Thinking About Mathematics: The Philosophy of Mathematics" の中で構造主義の一次文献としていくつかの文献をあげている.その中で最も年代の古い文献は Paul Benacerraf 1965 である.どうもこの 1950年から 1960 年代にかけてアメリカの哲学者たちを中心に形成され始めた立場であると考えるのが適当であるようだ.(追記終わり)

*7:「科学」という部分に少し違和感はあるが,一種のクリシェとして受け取るべきなのかもしれない.

*8:「数え上げ」や「メタ数学」のように特定の公理を持たないが,数理構造におけるパターンを考える分野もある.

*9:【汎用注釈】〇〇の哲学 - Sokratesさんの備忘録ないし雑記帳

*10:正確にはその原語の philosophy をさらにその語源であるギリシャ語の philosophia までたどる必要がある.そもそも「哲学」は明治期に Philosophy の訳語として,西周によって導入された用語なので,学術と「哲学」が同じ意味であることは本来ありえないのではないか.

*11:(2024/3/19 追記)各学術領域には「固有の考察対象」「固有の問題」「固有の方法論」が少なくとも存在する.逆にこれらこそが,各学術領域を特徴づけているとも言える.ちなみに,「固有の考察対象」「固有の問題」「固有の方法論」以外にも各学術領域の特徴と言え,また特徴づけるようなファクターがあるとも思っているが,これら以外には具体的に思いつかない.(追記終わり)

*12:個人的に論理学の研究,特に数理論理学のような数学の理論としてのテクニカルな研究に「哲学」の素養が必ずしも必要でないことを鑑みると,論理学は哲学ではないような気もするのだが,「できるだけ広めに哲学の範囲を広げても,せいぜい数学と交わりを持つ部分はあると言えるのが関の山である」ことを言うために広めにとっておくことにする.最もあくまでも問題領域としての分類のようなので,「哲学の問題領域に論理学の問題領域との共通部分がある」ということなのかもしれないが.

*13:最初,「現象学」も4分野のいずれにも当てはまらない分野としてあげるつもりだったが,『これが現象学だ (講談社現代新書)』の最初の方を読む限り,問題意識として存在論や認識論と共通するものを持っているように思われたので,結局,4分野のいずれにも当てはまらない分野としてはあげなかった.

*14:厳密に言うと,一部の用語は場面場面ごとに定義されて統一された定義が存在しないにも関わらず,共通の名前で呼ばれ,しかも何らかの意味で共通した概念として扱われることがある.たとえば,完全性/完備性(Completeness).

*15:あるとすると,「論理体系」の性質のように「数学的対象としての『構造』としての性質」自体が哲学の問題になる場合である.しかし,その場合でも,通常,「数学的対象としての『構造』としての性質」以上の考察が求められることになるように思われる.

*16:本文中の「帰納」のうち,「アブタクション(最良の説明への推論)」は別にする立場もあるが,今回の話ではそこまで区別する必要がないので,本文中のような立場を取ることにする.

*17:「公理」のはなし - Sokratesさんの備忘録ないし雑記帳で同じこと言ってる.

*18:ちなみに,いわゆる「数学的帰納法」は名前に反して,演繹である.なぜなら,数学的帰納法は「前件がすべて真であるとき,常に後件も真である」推論形式であるから.

*19:「仮定としておいてよいものがはっきりしない」は哲学に限らず,経験科学をはじめとした多くの学術分野が有することである.

*20:こうとしか説明ができない.