むしゃくしゃしたので,数学での「公理(Axiom)」について語ろうと思う.雑多な文章の寄せ集めで,特にオチがあるわけではないので,そういうのが苦手な人は回れ右して帰ると良い.
「公理」の2つの用法
数学が他の諸科学と大きく異なる点として,認められている手段が「演繹」による推論の列である「証明」のみにあることにある*1.この推論の列は有限の列なので当然,議論の出発点に当たるような主張(命題)があり,これを「公理(Axiom)」と呼んでいる*2.
議論の出発点という点は変わらないものの,時代によって「公理(Axiom)」という言葉は次の異なる2つの意味で用いられてきた[Shoenfield1967,Kunen2009].
- (正しい)信念についての言明 Statements of faith としての公理
- (構造を)定義するための公理 Definitional axioms*3
前者の用法の例として,Euclid の『原論』の「五公準」(当時のギリシャで点,直線,および円について確実に正しいと信じられていた言明)が挙げられる*4.このような「確実に正しい(と信じられている)」言明を公理と呼ぶような用法は少なくとも 1900 年代の中頃までは一般的だったようである*5[Kunen2009].
現代においては、普通、後者の意味で用いられる.たとえば,「群の公理」を何らかの信念の言明の集まりとする人は普通は異常者として見なされる*6.「群の公理」は「群」という構造を定義する言明の集合である.「群の公理」を満たすような対象は当然複数ある.しかし,群の公理から示すことのできる言明はこれらすべての対象において成り立つ.
現代数学の強みは「公理」を「何らかの対象に対する(正しい)信念」とする考えから離れ,「公理」を単なる「条件」と考えることで,複数の対象についてまとめて議論できる点にある.
当たり前だが,形式的理論の「公理」は「(構造を)定義するための公理」の形式化である*7.
「公理」に正しさ?
辞書などを引くと「公理(Axiom)」を「正しさ」にからめて説明している文章を見かける.たとえば Oxford Advanced Learner's Dictionary の "Axiom" の項目には "a rule or principle that most people believe to be true"などと書いてある.これは「(正しい)信念についての言明としての公理」という古典的な用法に引きづられた結果なのであろうが,現代の数学での用法としては誤りである.少なくとも,現代的な数学での用法も併記してほしい.
われわれが「群の公理」について語るとき,これらが正しいかどうかは気にしない.せいぜい「群の公理」の条件を満たす対象の存在の有無を気にするくらいである*8.
現代において,「公理」が「正しい」ことを気にする必要のある場面は,考えたい対象が選んだ公理を満たしているかどうか(モデルになっているかどうか)くらいであろう*9.つまり,「『公理』の選択の正しさ」が問われている場面であって,「公理」そのものの言明の正しさではない.
公理と対象の存在
ここより先では「公理」と言ったら「定義するための公理」のことである.
何らかの言明の集合を「公理」と見なしたときに「公理を満たす対象が存在(以下単に『公理の対象』と呼ぶ)」するかどうかというのは本質的な問題である.ここでこの問題には2つの側面がある.「数学的な問題としての側面」と「(哲学の分野の)存在論の問題としての側面」である.
「数学的な問題としての側面」としてのこの問題は「『よく知られた数学的対象(自然数全体の集合や関数など)を用いて《公理》の対象を書き下す』か*10または『《【公理】を満たす対象がない》と仮定すると矛盾すること』を示せ」という問題になると考えられる.一階述語論理という形式化の良い側面として「無矛盾な公理系には公理を満たす対象(モデル)が存在する(完全性定理)」が成立することが挙げられると思う*11.一階述語論理で書き下せる公理の対象の「存在」はその公理の無矛盾性問題に帰着される.
「存在論の問題としての側面」としては「『数学的な対象が存在する』とはどういうことか」という問題に帰着される.つまり「自然数が存在するとはどういうことか」「数学的対象が形而下の対象に何の因果関係も持たないとするなら,我々は数学的知識をどのようにして得ているのか」というような問題である.この問題はここで語るのはあまりにも荷が重すぎるので,別の機会に譲ることにしたい.この側面に興味のある人は[Shapiro2000T]などを参照してほしい.
どのような命題を「公理」とするか
同じ構造を表現するのに複数の公理系が存在することがある.たとえば,位相空間についての公理はすぐに思いつくものだけでも「開集合によるもの」「閉集合によるもの」「近傍系によるもの」「開核オペレーターによるもの」「閉包オペレーターによるもの」などが挙げられる.このような場合,我々はどのような「公理」を採用して議論するかのチョイスが発生する.
考えたい対象が選んだ公理を満たしているかどうかだけを気にする立場の人々にとっては,どの公理系を採用するかは使いたい主張を楽に示せるかどうかによるであろう.別の公理系のチョイスの方針として理論的な美徳によるものが考えれる.たとえば,「できるだけ簡潔な公理系を選ぶ」「直感的に考えたい対象をよく表現している」などである.
数学セミナー2022年8月号[SeminarAugust2022]の「集合論の公理」という記事に「選択公理は『公理』だが,連続体仮説を『公理』と呼ぶ人はあまり見ない」という指摘があった.著者の池上大祐氏はそのような事例などから「『公理』とは『仮定すると面白い議論が数多く生まれそうな命題』」という信念を持っているそうである.個人的に「連続体仮説を『公理』と呼ばない」ことについて何も違和感を感じていなかったので,非常に興味深く感じたのを覚えている.
総括
「公理」難しい.
参考文献
[Shoenfield1967] Mathematical Logic
- この本には日本語訳もある. 数学を哲学する
[Shapiro2000F] Foundations without Foundationalism: A Case for Second-order Logic (Oxford Logic Guides)
*1:実際の数学の実践においては「こういう定理が成り立ちそう」という予想をする際などに「演繹」以外の推論が必要であるが,「証明」が伴わなければ,これらは「正しい」言明とは見なされない.
*2:「メタ数学」や「数え上げ」のように特定の公理系に基づかないような数学もあるので,微妙に現実と合っていない説明のような気はする.
*3:[Shoenfield1967] では modern axiom systems などと呼ばれている.それにしたがうなら,前者を「古典的用法」,後者を「現代的用法」などと呼ぶべきなのかもしれない.
*4:この辺,数学史を紐解くと,当時は「公理」と「公準」が分けられていたり,「第五公準ホンマに自明に正しいんか?」と言われてたりなどの問題もあるのだが.
*5:ペアノの公理や「集合論の公理」などの公理系も元々はそのような文脈で生まれたもののようである.つまり,「自然数とはどういう対象なのか」「集合とはどういう対象なのか」という問いの答えとして「これこれこういう条件を満たすもの」という答えとして公理系を与えていたのである.ただし,現代においてはこれらも「(構造を)定義するための公理」とみなすのが普通である.
*6:何らかの哲学的な防衛は可能かもしれないが,通常の見方を捨てるほどの理論的ベネフィットがあるとは思えない.
*7:この一文はこの文書を読んで「ZFC は信念についての言明」という発言をしたものがいたから追加した.ZFC は一階述語理論なので当然,「定義するための公理」である.当たり前というか,定義を見れば明らかなことをわざわざ書かないいといけないとは思わなかった.2023/3/13 追記.
*8:Curry などのようにそもそも対象の存在すら気にしない立場もありうる[Shapiro2000T].
*9:このような問題意識に対するおもしろい例として,「~するべきである(義務)」という様相について,その適切な公理を探す営みを聴いたことがある.
*10:「構成できるか」と書きたいところだったが「構成」というターム事態が微妙にやっかいなニュアンスを含む場合がある(選択公理を用いないとか)ので,こういう書き方をした.そもそも「集合全体の圏」みたいな対象だと「構成」と言いにくいしな…….
*11:この性質は二階述語論理では成り立たないことが知られている[Shapiro2000F].