Sokratesさんの備忘録ないし雑記帳

書きたいことを書いている.駄文注意.

速習・数学的対象の存在論

「虚数が存在するのかどうか」という話が某 SNS で盛り上がっては盛り下がるのを繰り返している.この件についてはだいぶ以前に次のような記事を書いた.
sokrates7chaos.hatenablog.com
今現在読むと微妙に一般的な言葉遣いと違うような言葉遣いをしてしまっている*1.が,「実数の存在を受け入れているなら,虚数の存在を受け入れなければならない(虚数の存在を受け入れらないならば実数の存在も拒否しなければならない)」という主旨はわかるようになっていると思う.

さて,上のようなことを書いといたらこういう話がおさまるかなと思っていたらそうでもないようで,数学的対象の存在論(という数学の哲学の一分野)について素人目に見ても混乱をしていたり,「それは過去にすでに破綻が指摘されている立場ですね」という話をしたりする人がかえって増えたように思う.そこで,数学的対象の存在論について素人なりに見ても「ここは押さえておかないと実のある議論にならないだろう」ということをまとめてみることにした*2.(2024/07/29 追記)基本的に諸派の見解の解説にとどめ,私自身の意見はモチベーションの説明部分と諸派の意見に対する評価部分くらいにしか現れないように注意して書いた.(追記終わり)
所詮は素人による雑なまとめなので,誤った点があったら教えてほしい.

「数学的対象の存在」がなぜ問題になるのか

まず,そもそも「数学的対象の存在」がなぜ問題になるのかという話から始めよう.
わたしの思いつく限りではあるが,次のような事柄が数学的対象の存在論のモチベーションになっていると思われる:

  1. 数学的対象は目に見えるわけでもないのにあたかも存在しているかのように考え,言及することができるように思われる.我々が数学的対象について語るとき,それは何を意味しているのであろうか
  2. 数学的対象は抽象的な対象(時空間に物理的な位置を持たない対象)の代表であるように見え,その存在についての議論は一般の抽象的な対象の存在や認識についても参考になりそうである.したがって「抽象的な物事について語るとはどういうことなのか」ということを知ることの参考になることが期待される
  3. 数学的対象は各種の科学,特に物理学の記述に出現する.なぜ,数学的対象という抽象的な対象(時空間に物理的な位置を持たない対象)が諸科学の空間に物理的な位置を持つと思われる対象の性質の記述に有用であるかを考えるにあたって,数学的対象の存在論的な性質を調べることは価値があると考えられる

これ以外にも「数学的対象の存在」が関わる問題として次があげられる:

  • 仮に数学的対象が存在するとして,その対象と我々人類は因果関係を結ぶことが難しいように思われる.しかし,認識論における有力な説(の一つ)に従えば,我々が知識を得るためにはその知識を得る対象と何らかの因果関係を結べる必要がある.それでは,我々人類が数学的対象について知識を得ているように感じているのは錯覚に過ぎず,我々は数学的対象について何かを知ることは不可能なのだろうか.

数学的対象の存在論を考えている人々はこういった諸問題に結論を出したいのである*3

数学の用語としての「存在」と存在論で問題になっている「存在」

さて,数学的対象の存在論でよく混同して議論されるのが「数学の用語としての『存在』」と「存在論で問題になっている『存在』」である.これらを区別しないと次のようなおかしな議論をすることになる.

A: 「100以上の自然数は存在する」この命題は真ですね.
B: はい.
A: その結論として「自然数は存在する」を得ることができます.当然,この命題も真ですね.
B: はい.
A: それでは,自然数が存在することを認めていただけますね?
B: ?????????

この議論がおかしいのは A が三番目の問答の際に今まで「数学の用語として」用いてきた「存在」の意味を「存在論で問題になっている『存在』」にすり替えているからであると思われる.以降はこれらの区別に気を付けて話についてきてほしい*4

不可欠性論証

現代で数学的対象の存在について語るのであれば,少なくとも不可欠性論証は押さえなければならないように思われるので,諸派の話の前にこれを押さえておきたい.この論証はよくクワインとパトナムに帰着される.
不可欠性論証とは次のような数学的対象の存在を「論証」していると思われる議論のことである:

  1. 科学における諸法則の記述には数学的対象が出現し,それが必須であるように思われる.
  2. それゆえ,科学における諸法則は数学的対象の存在を含意しているため,科学の諸法則の主張を認めるならば数学的対象に(存在論的に)コミットする必要がある.たとえば,学校の授業で「電子というものが存在する」という科学における諸法則の一つであると考えられる主張を先生がするとき,実際に主張したいことは「電子(という種類の何らかの粒子)が存在する」ということのはずである.つまり,何らかの「電子性」とでも呼ぶべき「ある粒子がまさに『電子』である」という(抽象的な)性質があって,「電子性を満たす粒子が存在する」と主張しているのである.それゆえ,「電子が存在する」という主張は「電子性(という抽象的な対象)が存在する」ことを含意していると考えられる.それゆえ,「電子というものが存在する」という主張を文字通りに受け取るのであれば,「電子性(という抽象的な対象)」に(存在論的に)コミットする必要がある.ちょっと,このジャーゴンは気取った言い回しに感じるかもしれないが,要するに「電子が存在する」という主張を文字通りに受け入れるなら「電子性」の存在を認めざるを得ないということである.ここで電子性の記述自体に数学的な対象である実数や複素数を用いる必要があるように思えることに注意する*5.すると,(その数学的記述を文字通りに受け取るなら)電子性にコミットするためには数学的対象にコミットする必要がある
  3. 科学における諸法則は真であるか,ほとんど真(approximately true) であると考えられる.ここで,「『a は F である』という命題が真であるのは a が実際に存在するときのみである」という原則を用いると,その諸法則やそれに含意される命題に出現する対象は「存在する」と考えられる.
  4. よって,科学の諸法則やそれに含意される命題に出現する数学的対象は「存在する」と考えられる.

この論証は非常に強力で少なくとも「科学における諸法則は真である」と考えている人々にはかなり強力に訴えてくる.実際,以下で紹介する「数学的対象は存在しない」とする立場の一つはこの論証に対する反駁の形で展開される.

主要な立場(と思われるもの)

数学的対象の存在論における主要な立場とその立場のメリット・デメリットを紹介する.

数学的対象は存在する(数学的対象の存在論における実在論・プラトニズム)

「数学的対象は存在する」という立場を数学的対象の存在論における実在論プラトニズム(platonism)などと呼ぶ*6
この立場の最大の利点は数学的命題を額面通りに受け取ることができるようになることである.つまり,実在論によれば「数学用語としての『存在』」と「存在論における『存在』」の真理条件(「○○(という数学的対象)が存在する」という文の真理値)が一致していることになる*7
また,この立場は科学における広範な数学の応用を説明することが容易であるように思われる.というのも,数学的対象は実際に存在するのであるから,科学における使用の場面における数学的対象と実際に取り扱う事象との対応もまた額面通りに受け取ることができると思われるからである*8.さらに,不可欠性論証というかなり強力な論法を全面的に味方にできるのは大きい.
しかし,この立場に立つ以上,「抽象的な対象」でしかも「永遠不変の対象」という存在者を認めることになり,若干直観に反するように思われる.また,冒頭に述べたように人類は数学的対象と因果関係を結ぶことが難しいように思われるが,どのように数学的対象についての知識を我々は得ているのかを説明する必要が出てくる.

この立場のメリット・デメリットまとめ
  • メリット
    • 数学的命題を額面通りに受け取ることができる.
    • 不可欠性論証を全面的に支持することができる.
    • 科学における広範な数学の応用を説明することが比較的簡単そうである.
  • デメリット
    • 抽象的な存在(のような直観的によくわからないもの)を認めることになる.
    • 永遠不変の数学的対象の「存在」を認める必要があり,直観に反しているように思われる.
    • 数学的対象という存在と因果関係を結ぶことのできない我々がどのように数学的対象についての知識を我々は得ているのかを説明する必要がある.

数学的対象は存在しない(数学的対象の存在論における非実在論・唯名論)

「数学的対象は存在しない」という立場を数学的対象の存在論における非実在論唯名論(nominalism)などと呼ぶ.
この立場の利点は抽象的な存在や永遠不変の数学的対象の「存在」のような直観的によくわからない概念を拒否することができることである.

しかし,この立場は犠牲も多い.まず,不可欠性論証という非常に強力な議論に反論する必要がある.また,数学的がなぜ科学に有用なのか,科学に存在しないはずの数学的対象が出現するのはなぜなのかを説明する必要がある.さらに,数学的な言明を額面通りに受け取ることができなくなるため,数学的主張が真であることがどういうことなのかについて,説明をする必要が生じる.

ここまで注意深く読んできた人々には「そんなことできるのか」と思われるかもしれない.そこで具体例として,これらの困難を乗り越えようとする試みのうち,虚構主義様相による真理論を紹介する.

虚構主義

虚構主義は「数学は科学に有用なフィクションである」とする Hartry Field によって提唱された立場である.
Field によれば「100 以上の自然数は存在する」は偽の主張である.なぜなら,自然数は「存在」しないからである.それでは,数学は全く無意味な主張をしているのかというとそうではなく,「数学的対象はフィクションの事物のようなものであって,しかも科学に有用な事物である」と Field は主張する.数学的対象はシャーロック・ホームズ*9やマサラタウン*10のような存在だとした上で,「科学を記述する(表現する)のに便利なフィクションの登場人物・事物」だとするのである.「100 以上の自然数は存在する」が真なのはそのような架空の物語の中でのみとしてしまうことで,「数学用語としての『存在する』」と「存在論における『存在する』」の区別を実現してしまうという荒業である.
Field はこの考えを論証するために,まず,不可欠性論証の前提の一つである「数学的対象は科学の記述に必須である」とする言明に目をつけた.数学的対象がフィクションの事物にすぎないなら,科学的言明をするのに数学的対象は(本来は)不要のはずである.そこで Field は数学的対象(正確には実数論)を用いずにニュートン力学を記述することを試みた[ Science without Numbers: A Defense of Nominalism (English Edition) ].
この試み自体は素晴らしいことだと考えられるのだが,反応は賛否両論で,この試みが(程度に差はあるようだが)成功していることを認める人々が居る一方で,「結局,数学やってんじゃん」という評価もある.実際,数学的対象は「構造(か,その中の位置)」であるとする構造主義の立場からは,Field が実数の代わりに導入した概念が一種の構造になってしまっている(つまり,数学的対象になってしまっている).それゆえ,構造主義者からすると,Field は(素朴な意味での)実数なしでニュートン力学が展開できることを示したが,結局数学的対象をニュートン力学から取り除くことには失敗してしまっている.
その後,数学が「科学に有用である」ことを示すために「数学なしで記述された科学」と「数学によって記述された科学」が等価であることを示そうとしたようだが,この議論自体にも数学を用いる必要が出てくるなど,どうもあまりうまくいってないようだ.

様相による真理論

様相による真理論とは数学的言明を様相という概念を用いて解釈しようという立場である.様相とは簡単に言うと「文を取り巻く真偽以外の環境・状況」のことで,たとえば,「○○できる(可能)」や「○○するべき(義務)」などがある.
不可欠性論証における暗黙の仮定として,「科学的言明は事実を記述するものであるから,その中に様相が含まれていてはならない」というものである.つまり「飛行機は飛べる」という文は――それが科学的言明であるなら――「(適切な状況下で)飛行機は飛ぶ」という事実を記述するものであって,「飛行機が飛ぶことができる」という可能を意味するものであってはならない.様相による真理論はこれに逆らうことによって,不可欠性論証を回避する.
ここでは,ヘルマンの様相による意味論を例に取ることにする(Mathematics without Numbers: Towards a Modal-Structural Interpretation (Clarendon Paperbacks) (English Edition)).ヘルマンに従うと「100以上の自然数が存在する」という文の意味は次である:

任意の「論理的に可能な」システム S に関して,もし S が自然数(という構造)の実例(具体例)になっているならば,S の "100" という位置よりも大きいか等しい位置がある.

赤字と太字で強調した部分が「100以上の自然数が存在する」という文章に(隠れていた)様相である.このように様相による真理論は数学的言明を様相によって解釈する.こうすると,仮に自然数が存在していないとしても「100以上の自然数が存在する」は真になる.このトリックを用いれば,数学的言明を真にしつつ,数学的対象の存在を拒否することができる.
この考え方の問題点の一つは事実を記述しているはずの科学的言明に様相が混じることになる.しかもその様相の意味が直観的によくわからないものになっている*11.「○○が可能ならば」のようなものが隠れている文は真に世界を記述していると言えるのだろうか.

この立場のメリット・デメリット
  • メリット
    • 抽象的な存在のような直観に反する存在者を認める必要がない.
    • 永遠不変の数学的対象の「存在」を認める必要がない.
  • デメリット
    • 不可欠性論証に反論する必要がある.
    • 存在しない数学的対象をなぜ科学の主張に用いることができるのかを説明する必要がある.
    • 数学的な言明が「真」であるとはどういうことなのかを説明する必要がある.
  • 虚構主義のデメリット
    • 科学から「数学」を取り除けることを示す必要がある.
    • (構造主義の立場からは)実数の存在を拒否することには成功しているものの「数学的対象」の存在の拒否に失敗していると思われる.
  • 様相による真理論のメリット
    • 数学や科学に大幅な改訂の必要はない.
  • 様相による真理論のデメリット
    • 科学的主張に主張の真偽に関わらない「様相」が出現することを認めてしまうことになる.
    • 出現する「様相」の直観的な意味が明らかでないように思われる(らしい).

そもそも「○○が存在するか」という問題自体がナンセンスである(カルナップとその支持者たち)

さて,驚くべきことに「『○○が存在するか』という問題自体がナンセンスである」という形で,(数学的対象の)存在論に答える人々もいる.このような立場のカルナップとその支持者たちの議論を紹介する.個人的にはこの立場自体がナンセンスな気もするのだが,「存在する」という言葉の意味自体を考える上で大事な立場であるようにも思う.
この記事の冒頭に数学の用語としての「存在」と存在論で問題になっている「存在」の意味が異なっている(少なくとも議論のために区別の必要がある)ことを指摘した.この区別を「そもそも話している言語が違う」として受け取ろうというのが(新)カルナップ主義者たちの主張である.
たとえば,「100 以上の自然数は存在する」という主張を考えよう.この主張は,当然数学の文脈では「真」である.しかし,先に見たように虚構主義者にとっては「偽」である.これを新カルナップ主義者は「そもそもこれらの人々は話している言語が異なっている」と考える.つまり,「100 以上の自然数は存在する」という文章は「数学言語」とでも呼ぶべきものにおいては「真」であるが,「虚構主義者言語」においては「偽」であると考える.これらの言語においては「○○が存在する」(という存在量化子)の真理条件(真になるための条件)が異なっているのである.
ここで注意してほしいのはこの立場は「100 以上の自然数が存在するか否かは選択する言語によって決まる」という(真理の)言語相対主義のようなことを意味しているわけではない.そうではなく,「○○が存在する」という言葉の意味が確定するのに言語の選択の必要があると言っているのである.したがって,「我々の志向や言語と独立して世界は存在する」という実在論には抵触しない*12
「お,じゃあ,世界をきちんと記述している言語を選択すればええんやな」と単純には考えてしまうが,新カルナップ主義者はそのような選択の方法を与えない.なんなら,「そのような言語はない」という立ち位置を取る.「世界をきちんと記述している言語が存在する」の「存在する」の意味が言語の選択によって変化してしまうので,無意味なのである.
そういうわけで,「○○が存在するか」という問題自体,話者がどの言語を選択しているかという問題にすぎず,その問い自体が無意味なのである.
正直なことを言うと,この立場にはどうも「ごまかされている」と感じてしまう.この弁が正しいのならば,ここまでの文章自体も言語の選択によって意味が変わってしまうことになってしまい,新カルナップ主義者たちの主張自体が偽になるような言語の選択も可能になってしまうように思われる.われわれは何をここまで語ってきたのだろうか.

この立場のメリット・デメリット
  • メリット
    • 数学的対象の存在論という問題ごと消し去れる.つまり,数学的対象の存在論にある意味完全な解決を与えることができる.
  • デメリット
    • 「言語」の選択の基準自体も与えられないので,結局,我々が何について語っているのかが不明瞭になる(ようにわたしには思われる).

結論

数学的対象の存在論なんもわからん.ここに書いてある議論よりも細かい議論が見たければ参考文献や参考になりそうな文献を見に行ってほしい.

参考文献

  • 数学を哲学する 数学の哲学の教科書.このブログの参考文献の常連になりつつある.

参考になりそうな文献

質問に対する回答(2024/07/29 追記)

この記事の公開後にいくつか質問が来た.そのうち,質問と回答を共有した方がよさそうなことについて書く.

  • Q. 不可欠性論証は科学における諸法則の記述に含まれる数学的対象の存在擁護に使えるのはわかるが,そういったものに含まれない数学的対象の存在については何も言えていないのではないか
    • A. はい.不可欠性論証は科学における諸法則の記述に含まれる数学的対象の存在擁護に使えますが,そういったものに含まれない数学的対象の存在については何も言えません.そのため,「現在行われている数学に出現するすべての数学的対象が(存在論的に)存在するはずだ」のような強力な実在論の擁護には使えないです.ただ,不可欠性論証によって多くの数学的対象の存在が擁護されることになるので,いずれにせよかなり強力な論法に思われます.

*1:「存在」を「実在」と言っていたりね.

*2:わかる人向けの注釈:面倒なので「数学的文章の真理値は存在している」として,以下では話をする(数学的命題の真理値の実在論の立場で議論する).「数学的命題に真理値は存在しない(数学的対象の真理値における非実在論)」,「真理は存在しない(真理の非実在論)」「真理は人によって異なる(真理の相対主義)」などのような立場もあるが,その立場に立っている人をあまりお見かけしないので扱わない.特に後半二つは議論のたたき台としても面白いとは思えないし,よほど緻密にやらないとすぐに破綻する立場という印象が強い.

*3:当然,他にも答えを出したい課題はあると思われるが,全部紹介するのは大変だし,「速習」という記事の趣旨に反するので勘弁してほしい.詳しいことは参考文献とか参考になりそうな文献を参照してくれ.

*4:愚痴:なぜか「数学の用語としての『存在』」を「構成できる」と勘違いしている人を良く見かける.実際には「存在は示せるが構成できない」ということが起こる.

*5:量子力学に「複素数」は必要ないとみる向きもあるようであるが,結局,実数の組に複素数演算を導入することになるか,複素数を表現している実数行列を用いることになるようなので,本質的に「複素数」は必要であると考えて良さそうである.その辺りの議論をしているらしい論文として Quantum theory based on real numbers can be experimentally falsified | Nature があるようだ.

*6:ただし,「プラトニズム」と自分の立場を呼ばれることを嫌う(数学的対象の存在論における)実在論者も居ることに注意.理由は「あたかもプラトンの見解を支持している」かのように勘違いされるからである.プラトンの見解を額面通り受け取ってしまうと「イデア」を措定する(存在を仮定する)ことになってしまうが,実在論者だからといって,そのようなよくわからない神秘的なものを措定しているとは限らないからである.

*7:とはいえ,冒頭の議論のようなものを数学的対象の存在論における実在論の正当性の主張に用いる人間は居ないと思われるが.

*8:などといけしゃあしゃあと書いたが,実のところ,これは「数学の科学における有用性」の問題が「自然現象や社会現象に数学的対象を対応させるとはどういうことなのか.なぜそのようなことができるのか」という問題にすり替わっただけである.「無限の長さの直線」に幾何的に対応すると思われる実数が自然現象の記述に使えるのはなぜなのだろうか.とはいえ,非実在論側の「そもそも科学における数学的言明は何を意味しているのか」 という問題に比べればまだ手が付けやすいようにわたしには思われる.

*9:世界で一番有名な探偵のキャラクター.

*10:ゲームポケットモンスターに登場する架空の町.

*11:まだ詳しく追えていないが,どうも「構造が可能である」は通常の「可能」よりも弱い条件になってしまうようだ.また,(わたし個人としては)どうにもこの様相を受け入れることは「構造が可能なのはどういう場合か」という問題から逃げているだけのように思えてしまい,なんだかスッキリしない.

*12:と,自分で書いておいてなんだが,やっぱりなんかごまかされている感じがすごい.