Sokratesさんの備忘録ないし雑記帳

書きたいことを書いている.駄文注意.

『論理的思考とは何か』とは何か~論理学徒による『論理的思考とは何か』の書評~

渡邉 雅子の『論理的思考とは何か (岩波新書)』を読んだ.この本の著者が「論理の社会的構築物説」のようなことを主張しているという認識だったので,一応目を通しておこうと思ったのである.正直,期待していたような内容(論理の社会的構築物説の論証)では全くなかったので,感想をTwitterあたりに垂れ流して,『論理的思考とは何か』とはバイバイしようと最初は考えていた.しかし,この本に対してコメントをちゃんと残しておいた方が良いかと思う出来事があったので,この記事を書くことにした.

本記事では『論理的思考とは何か (岩波新書) 』の内容を把握されていることを前提として話をする*1.なお,同内容と思われる『「論理的思考」の社会的構築: フランスの思考表現スタイルと言葉の教育』や『「論理的思考」の文化的基盤 4つの思考表現スタイル*2については参照せずに書いていることはフェアネスのためにこの時点で宣言しておく*3

(2025/3/7 追記)この本が論理学の本ではなく,社会学(文化比較)の本であることくらい承知している.その上で,

  • 論理学の論理を扱わず,「本質論理」なる独自概念を扱うと主張する以上は,研究対象の「本質論理」について,(説明的で良いので)定義を行う必要があるができていない*4
    • キーコンセプトすら説明できていないのに明瞭な議論などできるわけがない.
    • 社会学の議論としても成立していない(2025/3/27 追記)*5
  • 「論理」に社会学的なアプローチをする以上は,論理について先行して研究している論理学やその隣接分野について,ある程度理解をしておく必要がある.が,著者の理解はかなり甘めに見てもとても怪しい.
  • 恣意的なデータの解釈をした議論が行われている.まともな根拠付けができているとは思えない.そのため,「論理的思考とは何か」(社会学的に)明らかにするという著者の目的は全く達成されておらず,「論理的思考」について何らかの示唆を与える段階の研究ではない.
  • 論理学や議論学への理解が不十分なため,(2025/4/1 追記)(仮に議論の結論を受け入れたとしても)(追記終わり)この本に対する著者の意義付けはおかしい.

という話をしている.コメントするなら要約くらい読んでほしいが,本文最初の要約ですら読み取り困難な人が居るようなので,再要約した.
(追記終わり)

(2025/8/14 追記 2025/8/21 改稿)「一般書(新書)に対して厳しすぎるのではないか」という意見を最近よくいただくようになった.しかし,『論理的思考とは何か (岩波新書)』は「高校生などに向けて自分の研究を説明する」という体裁で書かている本である.したがって,議論の詳細が省かれているなどは当然あるだろうが,研究の骨子は保たれた説明のはずである(そうでないなら,その時点でもかなり問題のある本である).この記事で批判検討しているのは「その研究の前提として提示された物事」に対する誤認やその研究の骨子そのものが抱えていると考えられる問題についてである.したがって,厳しく感じるのであれば,それだけ「この本で紹介されている研究が抱えている問題はかなり深刻だ」ということに過ぎないと考えられる.(追記終わり)

(2025/10/12 追記 11/17 改稿)【主に Youtube の動画 『「学問」を作った男、アリストテレス』 から流れてきた方へ】この記事が Youtube 動画『「学問」を作った男、アリストテレス*6に取り上げられていたのを見たのだが,「わたしはそのような主張はしていないです」と申し上げざるを得ないまとめられ方をしていた.この記事を読んでいただいたことと取り上げていただいたこと自体はとても感謝している.また,本人たちとしてはリップサービスのつもりなのかもしれない.が,それを踏まえても的外れなコメントをされてしまったと言う他ない*7.そのため,この記事を読む場合,この動画でなされていたコメントは忘れて読んでほしい.(追記終わり)
(2025/11/17 追記)何らかの形で修正を行う可能性があることをゆる哲学ラジオ側から示唆していただいた.実際に対応が行われるまではここのメッセージを残しておくが,今後このメッセージ部分は削除,大幅な改稿などをする可能性がある.(追記終わり)

著者の主張の要約とわたしの感想・批判の要約

まず,著者の主張の要約をし,その後,わたしの感想・批判の要約をする.
著者の主張を(こちらが誤解しているのでなければ)要約すると次の通り:

  • 論理的思考は,(形式)論理学が示したような「世界共通で不変」ではなく*8,人間の価値観に結び付いた本質論理実質論理*9なる著者の独自概念が本性である*10.本質論理を知ることで多元的思考なるものが可能になるはずだ(はじめに・終章).
    • ここで言う本質論理とは(はっきりと書いていないのでおそらくだが)「(何らかの意味で)合理的な結論を導く手続き」のことである*11
    • (2025/03/15 追記)この「本質論理」を「(一般に)論理的(とされている)文章の型」と捉える解釈をしている人々が居るのが不思議だったのだが,この本の宣伝文句を引きづった結果のようだ.残念ながら,そのような解釈は不可能である(細かいことは補遺注釈(2025/10/12 修正)に譲る)*12.(追記終わり)
  • 西洋の思考方法には「論理学」・「レトリック」・「科学」・「哲学」という4つのあり方がある(以下,西洋の思考4パターンと呼ぶことにする)(序章)*13
  • 「論理的であること」とは「読み手にとって記述に必要な要素読み手期待する順番に並んでいることから生まれる感覚である(『論理的思考とは何か』 p.51 下線で表されている強調は原文では傍点.ここでは表示の制限によりこのように表現した)」(ここまではカプランによる主張)なので「論理的であることは社会的な合意の上に成り立っている」(第一章).
  • 本質論理が紐づいている価値観は{主観的客観的}×{形式合理性(手段に関わる合理性), 実質合理性(目的に関わる合理性)}の計4種類の重んじる合理性によって分類される.それらを尊重するそれぞれの領域(以下,本質論理の4領域と呼ぶことにする)を次のように呼ぶ(第一章).
    • 主観的形式合理性→経済領域
    • 客観的実質合理性→政治領域
    • 客観的形式合理性→法技術領域
    • 主観的実質合理性→社会領域
  • それぞれの領域の価値観を重んじていると思われる国としてアメリカフランスイラン日本の4国があり,そのことは重視される作文の型を見るとわかる(第一章・第二章).領域と国・作文の型の対応は以下の通り:
    • 経済領域→アメリカ・エッセイ
    • 政治領域→フランス・ディセルタシオン
    • 法技術領域→イラン・エンシャー
    • 社会領域→日本・感想文
  • それぞれの領域からは他の領域が非論理的に見える(第三章).
  • その他,社会全体へのありがたいお説教・提案もあったが,まとめると(多元思考なるものを使ってという前件はあるが)「それぞれの価値観を尊重しろ」や「場面によって,最も重視するべき価値基準を選べ」というごくごくありふれたことしか言っていないように思われる.

この内容に対するわたしの感想・批判のうちここで述べることをごく簡単にまとめると次のようになる:

  • 試み自体は面白い.が,不必要に大きなことを言おうとしている.
    • 各国で重視される文章術の種類が異なることは興味深かった.
    • いくつかの議論を削除・修正したうえで,意義付けなどを見直した方が良いと考えられる.
  • 著者のキーコンセプトである本質論理の定義がなされておらず,そのため何を指しているのかよくわからない.しかも既存の論理に対する理解との関係も書かれていないので余計にわからない.
  • 著者自身が現代の論理学やその周辺領域の広がりをまったく理解していないので意義付けがおかしい.
    • 価値観ごとに「論理」が異なるようなことを書いているが,それは論理学的には単に「前提が違うと,結論が変わる(ことがある)」というごく当たり前のことしか言っていないように思われる.
      • (2025/03/10 追記)既存の枠組みで十分説明できる事柄を説明するのにわざわざ「本質論理」なるものを導入する必要があったのだろうか?文章構造の話に終始した方が良かったのでは?(追記終わり)
    • そもそも「(形式)論理学では扱わない」と著者が断定しているもののいくつかは現代の形式論理学で扱っている.
      • 「うまく扱えていない」ならまだわかるのだが,「扱わない」は明らかにおかしい.
    • (2025/8/20 削除)おそらくだが,著者の言う「論理学」はかなり古い時代の理解のもののように思われる*14(削除終わり)
    • 記号化の話がほとんど出ないので(現代で言う)形式論理学の話はほとんどしていないように思われる一方,非形式論理学とするにも「扱っている」と主張されるものが狭すぎるので,どういうものを著者がイメージしているのかよくわからない.
    • 議論学という分野の人たちが,哲学・社会・政治・などのそれぞれの領域における議論について,論理,レトリックなどの面から分析をしている 【The Polish School of Argumentation: A Manifesto | Argumentation】 のだが,それらの先行研究に対する言及は全くない.
  • 「論理的思考」の本性について説明できているとはとても言えない
    • 「作文の型」が思考の型そのもののないしそれを反映させているかのような前提で書かれているが,それは誤りであろう
      • 本文中に引かれている実験・調査の結果は「作文の型」が思考の型そのもののであることを示唆しているとは全く思えない.単に「普段よく使う作文の型で文章を書いてしまう」ということを示唆しているだけではないか.
      • 何なら,「エッセイの型で書くには,結論を先に述べて実際の思考過程を倒立させる(p.66)」などと本人が書いてしまっており,(論理的)思考が作文の型とは異なることを暗に認めてしまっている.
    • 価値観を4種類に分けたうえで,それぞれにその価値観を代表するという国を割り当てているが,割り当てられ方やそれを支持するための証拠が妥当とは思えない
      • そもそも,「論理的」と感じる文章について論じる際に,書かされている当の日本人ですら「論理的である」と思っていない感想文を取り上げる必要があったのだろうか?
    • 価値観による分類と西洋の思考4パターンとの関連はあまりはっきりと書かれていないせいで,それらとの関係もよくわからない.
  • (先行研究の調査が不十分に思われるので当然だが)著者の考えるこの研究の意義はおかしい.
    • 結局,著者が主張・論証できているのは,「論理的である」と考える文章構造に異なる流儀があるという(2025/12/23 追記)カプランらによって既に指摘されている既知の(追記終わり)ことだけではないだろうか*15
      • (2025/12/23 削除)新規性の観点からは,(削除終わり)読み手の背景によって「論理的である」と考える文章構造が異なること自体はカプランらがすでに指摘していることだから,かなり好意的に見ても著者独自の新規性のある主張は「重視される合理性の種類により論理的文章の構造を分類することを提案する」と「提案した分類に従うと,アメリカのエッセイとフランスのディセルタシオン,イランのエンシャー,日本の感想文があてはまる」という部分のみであろう.
      • ただし,上で述べた通り,後者に関してはかなり恣意的な当てはめに思われ,全体として論証には失敗していると言わざるを得ない.
    • 無理やり合理性の分類に各国の文章を割り当てるよりは,単に各国で論理的とされている文章の比較に徹した方が良かったのではないか.門外漢からすると,そういう議論だけでも,もう少し慎重に議論すれば十二分に価値があるように思われるのだが.

これらの点について,「本質論理とは何か」,「著者の論理学に対する認識と実際の現代の論理学やその周辺領域との違い」「不十分な論証」「『論理的思考とは何か』の真の意義は何か」に分けて以下で述べる.以降単に(p. \(n\)) と書くことで,『論理的思考とは何か』のページ数を示す.

本質論理とは何か

この節では著者の言う本質論理(実質論理)の定義について考える.そもそも仮の定義すらしていない概念を中心に据えていろいろ述べていることが信じられないのだが,実際に書いてないのだからやむを得まい.そもそもこの時点でこの人自身が論理的な文章書けてないじゃん.
しかし,この概念がキーコンセプトである以上,どういう意味で「本質論理」を使っているのか推測しないと,著者の主張の解釈がそもそもできない.なんとか推測してみよう.
まず,著者が本質論理をどのように説明しているのかを見る.
以下は第1章の終わりまでに著者の考える論理について説明しているとおぼしき箇所やどう考えているのかの手がかりになりそうなことの要約である(一応,その趣旨の記述があったページ数を添える.引用は「」にて示す):

  1. 本質論理は(著者の誤解のために何を想定しているのかよくわからないが)形式論理学の「論理」ではない(p. i)
  2. 本質論理には文化的な側面を持ち,価値観に紐づけられている(p. i)
  3. 本質論理には思考パターンの側面と文化的な側面を持つ(p. i)
    • 著者の言う文化的な側面とは価値観のこと(p.viii)なので,実質「思考パターンの側面」があることが新規に大事な情報のようだ.
  4. 「思考するべき目的が異なれば,その手段としての結論を導く手続きが変わり,論理的であることの基準が変わる(p. i)」
    • どうもあとの文章を見るとこの「思考するべき目的」というのは合理性の意味で用いているようだ.「その手段」が何を指しているのか曖昧でよくわからない(思考法?議論の方法?)が,これが本質論理のことと受け取ることにした.つまり,『本質論理は結論を導く手続き』を示唆していると考えた.実際,そう受け取っても以降の議論において極端に矛盾しないように思われる*16
  5. 本質論理は「あるべき結論の形と結論に至る道筋(p.iii, iv)」である(p.iii, iv)
    • 「あるべき結論」ならまだわからなくもない主張なのだが「形」がついてしまったのでよくわからない主張である.とりあえず,「あるべき結論とそれに至る道筋」と受け取ることにする.『本質論理は結論を導く手続き』という解釈を支持する記述に思われる.
  6. 本質論理による思考法は無限にはなく有限である(p.iv)
  7. 「(文章が)論理的であること」とは「読み手にとって記述に必要な要素読み手期待する順番に並んでいることから生まれる感覚である(p.51) (下線で表されている強調は原文では傍点.ここでは表示の制限によりこのように表現した)」
    • ただ,これは文章が論理的であると人が感じる基準の話なので,論理そのものの説明と言われると首をひねらざるを得ないが,著者にとってはどうも大事なことらしく,四角囲みになっている
  8. 「レトリックのレベルで考え、異文化の型を使いこなすことによって、異なる論理と思考法を手に入れることができる(p.51)」
    • どうやら文章構造の型と論理と思考法は異なるものであるらしい?
    • だが,2章以降で文章の構造の話ばかりをしていることを鑑みると,論理は文章構造の型の側面を持っているということのようだ.
  9. 本質論理の4領域それぞれに固有の論理がある
    • この種の主張は(p.54) など,本書で繰り返し現れている.

これだけの説明で4領域それぞれの論理の説明に移ることを鑑みると,「本質論理」についての説明はこれで十分と考えているようだ.実際,二章以降は各国の「論理」の背景の話しかほぼしてないし.これらをまとめると次の4点に集約されると思われる:

  • 「本質論理」は何らかの結論を導くための手続き.
  • 「本質論理」は本質論理の4領域それぞれに異なるもので,それぞれの領域の価値観(合理性)と紐づいている(ので,文化的な側面を持つ).
  • 「本質論理」は思考パターンの側面を持つ.
  • 「本質論理」は文章構造の型の側面を持つ.

いくつか推論が混じってしまっているが,結局「本質論理」とは「何らかの結論を導くための合理的で有限な手続き(思考パターン・文章構造の型を含む)」を指しているつもりのようだ.これ以上細かいことをはっきり書いてくれていないので,やむを得ず,この記事ではこの理解で『論理的思考とは何か』について解釈するしかない.個別ケースを後で見せているから良いとでも思っているのかもしれないが,それは具体例でしかない.しかもそのパートでも文化背景と価値観の話に終始しており,結局何を「論理」と考えているのかは書いていないため,説明的に定義しているとも言い難い.キーコンセプトをもっと大事にして詳しく語ってほしい.

さて,さしあたり「本質論理」を「何らかの結論を導くための合理的で有限な手続き(思考パターン・文章構造の型を含む)」とすることにした.実のところ,この定義には明らかに問題がある.次のようなシュチュエーションで行われた手続きは「何らかの結論を導くための合理的な有限な手続き」であるが,一般には「論理」としてみなされないものであろう*17

高校生の A は B 大学と C 大学に合格した. B 大学と C 大学は家からの距離が同じくらいで,その上,設備・就職実績などにもさほど大きな違いがないように思われ,どちらに進学するかの決め手に欠ける.昨今の世間の事情を鑑みると,進学をした方が良いことまでは確かなのだが,どちらを選んでも,自分の将来にさほど差が出ないように思われ,なかなかどちらに進学するか選べないでいた.そうこう迷っているうちに,どちらに進学するかの決定期限がやってきてしまった.親に急かされたこともあり,やむを得ず, A はコイントスを行って,表が出たら,B 大学に,裏が出たら C 大学に入学をすることにした.コイントスの結果,A は B 大学に入学することにした.
さて,A は「進学はしたいが,今この場でどちらかに決定しなければならない」という目的のために,すみやかに結論を出すべく行った合理的な手続きとして「コイントス」を選んだともいえるが,「コイントス」は果たして論理と呼べるのだろうか.

このような切羽詰まった状態で,急いで何らかの結論を出すために同程度の価値を持つ選択肢から偶然に頼った手段によって選ぶこと自体は合理的と言える(主観的実質合理性を持っていると言えそうだ)し,こういう場面でコイントスをする思考パターンの人間は居そうだが,果たしてそのような「何らかの結論を導くための合理的な手続き」は「(社会領域の)論理」だろうか?さすがに,コイントスを論理だと思っていないとは思うが.
逆に論理的思考ではあるが「何らかの結論を導くための合理的で有限な手続き」と思われないシチュエーションとしては次のような場合はどうだろうか.

ある日 A は同僚の R がベンツで会社に来ているのを見た.それを見て「R はベンツを持っているのだな」と考えた.家に帰ったとき,A はなんとなしに配偶者に「うちの同僚でベンツをもっている奴がいるみたいでさ」と述べた.
このとき A は特に意味もなく「同僚の R がベンツを持っている」という事実から「ある同僚がベンツを持っている」という演繹的な(したがって論理的な)推論を行って話をしている*18が,ここに何らかの合理的な手続きはあっただろうか?

「a が P である」ことから「P であるようなものが存在する」という論理的な推論は日常的に行われているが,この推論に何らかの合理的な手続きがあるとは思えない.この種の非常に簡単かつ普遍的な推論は「本質論理」ではないのだろうか?仮に「本質論理」だとしたら,4種類のどれに当たるのだろうか?
いずれにせよ,「コイントスを論理だと思ってそう」「すごい簡単な推論を論理と思っていなさそう」と思われてもしょうがない程度のことしか「論理」とは何かについて議論できていないように思われる.

著者の論理学に対する認識と実際の現代の論理学やその周辺領域との違いについて

この節では著者の論理学に対する認識と実際の現代の論理学との違いについて述べる.
著者はどうも「(形式)論理学」を1979年初版の『岩波哲学小辞典』に載っているようなかなり古い認識で書いているように思われる*19.しかし,現代の論理学は著者が言うような「世界共通で不変の論理的思考」を与えるもの*20ではないし―― なんなら,論理が唯一なのか複数なのかの議論がずいぶん前からある*21 ―― 著者が「論理学では扱わない」と断定しているいくつかのことについても扱う枠組みが現代の論理学にはある.原文のいくつかの議論はそういう著者の誤解の上に行われているように思われ,彼女の研究の解釈や意義がおかしなものになっているように思われる*22

現代論理学で扱う「論理」

この節では現代の論理学で扱う「論理」の説明をする*23.普通,論理学は論証(argument)や推論(inference)を扱う分野とされている.ここではまず論理学における論証*24を定義する.その後,現代で「形式論理学」と言われた場合,指していると思われる記号論理学と「非形式論理学」と呼ばれる領域を説明する*25.さらに,明らかに『論理的思考とは何か』のテーマと密接に関わるにもかかわらず言及されていない議論学Argumentation theory)について言及する*26

論理学における論証

論理学における論証とは「前提(premise)と呼ばれる言明*27」と「結論(conclusion)と呼ばれる(一つの)言明」のペアで,特に「前提が結論を支持している」もののことを指す.「支持している」は厳密な定義が難しい*28が,ざっくり言えば「前提の言明が結論の根拠になっている」という意味である.
論理学の観点から何らかの日常の議論を分析するとき,(ときには隠された前提を補ったうえで)複数の論証に分解する.たとえば,次のような文章を考えてみる*29

原判決は不正指令電磁的記録の解釈を誤り,その該当性を判断する際に考慮すべき事情を適切に考慮しなかったため,重大な事実誤認をしたものというべきであり,これらが判決に影響を及ぼすことは明らかであって,原判決を破棄しなければ著しく正義に反すると認められる。
(最高裁令和2年(あ)第457号 不正指令電磁的記録保管被告事件 令和4年1月20日 第一小法廷判決)

かなり複雑な文章だが,含まれている言明は次の5つである:
(1) 原判決(を下した裁判官)は不正指令電磁的記録の解釈を誤った.
(2) 原判決(を下した裁判官)は考慮すべき事情を適切に考慮しなかった.
(3) 原判決(を下した裁判官)は重大な事実誤認をした.
(4) 原判決は「重大な事実誤認」(をした裁判官の認識)に基づいて下された.
(5)「原判決を破棄しない」ならば「著しく正義に反する」
さらに,この文に陽には書いてない隠された前提は(おそらく)次の5つの言明だろう*30
(6) 誤った法解釈に基づくと考慮するべき事情が適切に考慮されない.
(7) 考慮するべき事情が適切に考慮されないと重大な事実誤認をする.(すべての裁判官 x について,「x が考慮するべき事情を適切に考慮しない」ならば「x は重大な事実誤認をする」)
(8) 重大な事実誤認(をした裁判官の認識に基づく)判決は誤っている.
(9) 原判決は誤っている.
(10) 「誤っている判決を破棄しない」ならば「著しく正義に反する」

さて,すると,引用した文章の議論は次のような複数の論証の組み合わせによってできていると考えられる:

  • 論証1
    • 前提:(1),(6) 結論: (2)
  • 論証2
    • 前提:(2),(7) 結論:(3)
  • 論証3
    • 前提:(3),(4),(8) 結論:(9)
  • 論証4
    • 前提:(9),(10) 結論:(5)

これを図で表すならば次のようになる:
\begin{prooftree}\AxiomC{(1)}\AxiomC{(6)} \BinaryInfC{(2)} \AxiomC{(7)} \BinaryInfC{(3)} \AxiomC{(4)}\AxiomC{(8)}\TrinaryInfC{(9)}\AxiomC{(10)}\BinaryInfC{(5)} \end{prooftree}
論理学においては文章の書き方がどうであれ,それらをこのように適切な言説群にパラフレーズした後にそれらを支持関係によってこのような図の形にしたものが,論理学者が考える「論理」である.当然,定義から明らかなようにコイントスは論理ではない().
次の文章も(分析すると同じ図になるという意味で)上記の最高裁の判決と同じ議論である.

原判決は破棄しなけばなればさ,著しく正義に反するぜ.なぜかって?原判決は不正指令電磁的記録の解釈を誤り,その該当性を判断する際に考慮すべき事情を適切に考慮しなかった.重大な事実誤認をしたってことだな.そいつをもとにして判断したってんだから,後は言わずもがなさ.

他にも

(原判決は)不正指令電磁的記録の解釈が誤っとるし,その該当性を判断する際に考慮すべき事情を適切に考慮しとらんやないか.こんなん,重大な事実誤認やで?こんなんで判決くださたれたらたまったもんちゃうで.こりゃ,原判決を破棄しなかったら,正義に反するで.

も同じ議論である.文章の見た目と論証の形式は(パラフレーズのやりやすさに違いはでるかもしれないが)別の話である.もちろん,適切にパラフレーズできるためには,適切に表現が選ばれ,適切なレトリック(修辞法)に則って,文章が記述されていなければならないが,その部分については論理学の中心的な興味ではない*31
さて,単にこのように書き換えを行うことが,論理学のゴールではない.論証を前提と呼ばれる命題群と結論と呼ばれる命題の組としてとらえたうえで,複数の論証に共通する構造(スキーム/形式)について考察する.たとえば,上の論証2 と次の論証では「すべての x について『x が P』ならば『x が Q』」と「a が P」から「a が Q」を結論するという構造が共通している:

前提 A:すべての人は死ぬ.(すべての x について,『x が人』ならば『x は死ぬ』)
前提 B:ソクラテスは人間である.
結論:ソクラテスは死ぬ.

このような複数の論証に共通する構造(スキーム/形式)のうち「前提の言明がすべて真なとき,結論も真」という条件をみたすものを演繹(deduction)と言い,そうでないものを帰納(induction)と呼ぶ*32
「論理的」と言うとき,この意味での「演繹」を指していることが多い.当の論理学者ですらそのような語用をしていることがある.しかしながら,「妥当な帰納的な推論」を全くせずに生きることが不可能であることを鑑みるとそのような言葉遣いは狭量すぎることであろう.

形式論理学・非形式論理学

我々は基本的に論証を自然言語(日本語や英語など)で行う.しかし,論証を分析するのに自然言語のままだと困ることがある.そこで,論証を分析するために「論理の形式だけを抜き出した理想的な言語(と思えるような数学的対象)」の形式言語人工言語)(formal language)や,その上で定められた論証の「モデル化」と考えられる形式的論理体系を用いることがある.(数理)論理学の教科書などに載っているような命題論理一階述語論理は形式的論理体系の例である*33.このような数学的な道具を用いて論証について考える分野を形式論理学(記号論理学)と呼ぶ.
それに対して,そのような派手な(?)数学的な道具に頼ることなく論理について研究する分野を非形式論理学と言う.形式論理学は数学的な道具を用いた「厳密な」考察ができるという強みがある一方で,数学的な道具を用いて「モデル化」する際に落ちてしまう要素(論証のレトリックな側面など)を扱えないという欠点がある.また,枚挙帰納法やアブダクション・(非形式的な)詭弁*34のようにそもそも数学的なモデル化がそもそも困難な論証*35も扱いにくい.そういった形式化をするにのがそもそも難しい論証やその側面に対してアプローチをする分野が非形式的論理学と言える*36.いわゆるクリティカルシンキングもこの分野の研究対象・領域になる*37
とはいえ,形式論理学も非形式論理学も先に述べたような「『前提』と『結論』のペアを『論証(推論)』とする」や「論証のスキームについて考察する」という点は変わらない.ただ,傾向として,形式論理学では形式化のしやすい演繹についての研究がどうしても大半を占めるのも確かである.そういった傾向が「論理学では演繹のみしか扱わない」という誤解を生むのかもしれない.

議論学 Argumentation theory

議論学Argumentation theory*38について(詳しくないので本当にかんたんに)述べる.
議論の理論とは,非形式論理学の隣接領域で,日常生活や生きているうえで行われる議論について研究する分野である. 特にポーランド学派の人々によって,政治や哲学などの特定の領域における議論について,論理やレトリックの観点から研究がされているようだ【The Polish School of Argumentation: A Manifesto | Argumentation】.この分野では,論理学・修辞学・弁証法を組み合わせて理論が練られているらしい【Informal Logic (Stanford Encyclopedia of Philosophy)】.『論理的思考とは何か』で本当に扱いたいのは,ここで言う議論であるようにも(エスパーすると)思われる*39が,この分野には全く触れられていない.

著者の認識と実際の論理学の違い

以上で述べた実際の(現代の)論理学の扱う「論理」と『論理的思考とは何か』に書かれた著者の論理学に対する認識を比較すれば,説明がかなり違うことが分かるかと思う.
ここでは,以上の説明を踏まえて(わたしの感覚では)おかしな説明のうち,目立ったもの(ただし,全部扱うのは疲れるので原文の序章「2. 論理学の論理」の記述のみ)を一つづつ指摘する.若干嫌らしいとは思うが,これが簡潔な指摘方法だろう.

  • 推論が真か偽か(P.5)

真理値(真か偽か)を問えるのは命題(言明)に対してだけなので,おかしな言葉遣いである.「推論は妥当かどうか」が正しい.最初に目についた「この著者は論理学の基本がわかっていないのかな」と思った記述である.

  • 無矛盾とは「A と非 A (A でないもの)は同時に成立しない」という原理である。(p.6)

若干難しいのだが,現代論理学では「A が導出されること」と「A がであること」は区別される.その上で,普通,「A は成立する」は「A がである」と受け取られる. 無矛盾とはなんらかの論理的な体系の性質で「矛盾命題(「A かつ Aでない*40」)が導出されない」というを指すので,「成り立つ」という言葉遣いはおかしい.せめて,「(非論理的な前提なしで)『A が導出可能』と『非 A (A でないもの)が導出可能』が同時に成り立たないこと」というべきだ*41

  • すでに知られている「正しいこと」からまだ知られていないことがらを推理すること、つまり既知の真とされていること(大前提)から未知のことを推理する(結論を導き出す)ことを「演繹的推論」と呼び(p.7)

この本の定義だと「前提が真の推論」を「演繹的推論」としてしまっているが,そうすると「『佐藤は発見時に死体のそばに立っていた』から『佐藤は殺人を犯した』」のような推論も「演繹的推論」となってしまう(当たり前だが,運悪く佐藤がたまたま他の人よりも早く現場にたどり着いただけかもしれないので,前提が真だからと言って結論は必ず真ではない).「演繹的推論」というのは普通(先に説明した)「演繹」(という論証のスキーム)の一例になっている推論を指す.

  • この原理に照らすと、命題は、真か偽かのいずれかであって、その中間やグレーゾーンはない。(p.8)
  • 真か偽かきっぱりと判断がつくことがらについてのみ形式を通して考え、それらの中間は考えない。(p.13)

「二値原理(命題は真であるか偽であるかのいずれかである)」が論理学では絶対かのようなものいいが複数出てくるが,誤りである.二値原理を前提としない(形式的)論理として,たとえば,構成的論理(直観主義論理)や多値論理(と呼ばれる複数の論理群)がある.

  • さて、演輝的推論という観点から見た時、文の真偽に働きかける言葉は限られている。演譯的推論の真偽に深く関わるのは、「ではない」という否定と、「そして」、「または」、「ならば」、 「かつ」という接続詞である。これらに、「すべて」と「である(存在する)」を加えれば、一般的な論理学が扱う対象をカバーできる。(p.11)

実は,論理学には必然性(~でなければならない)・可能性(~は可能である)・義務(~するべき)・信念(~を信じている)・認識(~を知っている)などの「様相」という概念を扱う様相論理(modal logic)という分野があり,ここにあげられているものではカバーできない「文の真偽に関わる関係」を扱うことがある.もっとも,一番主要な(形式)論理として,一階述語論理があるが,この論理で扱う「論理的な関係」はこの文で尽くされている*42ので,「一般に」の受け取り方によっては擁護の余地があるかもしれない.しかし,その辺りの事情を分かった上で,言っているようには思えなかったので,指摘する.

  • では簡単な例をもとに推論を形式化して、(p.11)

原文でこの後行われていることは形式化ではない.単なる分析である.現代で,論理学の文脈で「形式化」と言うと記号化のこと(人工言語によって論理の形式だけを表現すること)を指す.(2025/06/21 追記)人工言語の例は,たとえば,「空モデル」のはなし - Sokratesさんの備忘録ないし雑記帳に与えた.(追記終わり)

  • また人間の観察の仕方によって真偽の判断が変わったり、観察のチャンスの有無によって影響されたりするような存在も取り扱わない。(p.13)

「φを知っている」という意味の様相を考える論理があるので,誤りである(認知論理).また,公開告知論理のように「φ を知ったことによる認知の変化」を扱うような様相論理もある.さらに,観察の骨頂であろう「因果推論(統計の検証の一種)」を論理的に形式化する研究が存在する([2210.16751] Formalizing Statistical Causality via Modal Logic).著者が思っているより論理学の扱う範囲は広い.

  • 論理学がすすめる思考法(p.13)

論理学は論理という規範を研究する学問であって,論理という規範を与えているわけではないから,何かをすすめる学問ではない.

  • たとえば、事実をひとつひとつたどることによって「ありえること」と「ありえないこと」を峻別して法廷でのアリバイを崩したり、(p. 16)

アリバイ崩しはどうやっても帰納的な推論が紛れ込むので,「演繹的推論」のみで行えるものではないから原文の趣旨からすると,おかしな例示である.もっとも,「前提が真な推論」をすべて「演繹的推論」と思っているのであれば,おかしくないのだが.......

  • 先の真偽表からも分かるように、論理学においては必然的に起こり得ることと起こり得ないことが明確に分かる。(p. 16)

真偽と必然性を混同している.何かが必然的に起きるかどうかは真偽表からわかることではない.

著者の論理学やその周辺領域に対する誤解による問題

著者の論理学に対する誤解によって,著者の本質論理の概念と現代論理学の枠組みやその周辺領域における論理に対する研究・理解との比較検討ができていない*43.「論理」が価値観によって変わるかのようなことを言っているが,それは単に(暗黙の)前提が変わったことによって,論証できることがかわったというだけに過ぎないように思われる.それゆえ,そのようなことは論理学的には新規性のある指摘ではない.(2025/11/17 追記)すでに説明がついている物事を「本質論理」なる独自概念を用いて説明するのであれば,それ相応の理論的メリットがなければならないが,著者の論理学に対する無知ゆえにその辺りの議論ができる段階にあるとは思えない.そもそも「本質論理」なる概念が定義不明のため,他人にはその理論的なメリットを議論できる段階にない.(追記終わり)
論理について語るのに,論理を主な研究対象としている現代論理学やその周辺領域で考えられている論理との比較をせずに独自概念を打ち立てたところで,有意義な議論ははできないだろう.その上,本質論理自体がかなり曖昧でよくわからず,「論理」でないものを含むと受け取られかねない概念である一方で,非常に簡単な推論を排除してしまいかねない概念とも思えてしまう(少なくともそのような説明しかなされていない)ような代物である.そのような概念が論理学における論理の理解よりも「論理的思考」なるものについて説明できているとは思えない.論理や論証,議論などについて社会学的に検討すること自体は積極的に勧めるし,価値のあることに思われるが,まず,ここ100 年で急速に発展した現代論理学やその周辺領域である議論学に対する理解を深めてからのほうが,より有意義な議論ができるように思われる*44

不十分な論証

この節では著者の議論で不十分に見える点について指摘する.

「作文の型」が論理と思考の型を作る?

この本自体が「『作文の型』は論理と思考の型を作る」という前提の下で書かれているが,これはかなりあやしいだろう.「エッセイの型で書くには,結論を先に述べて実際の思考過程を倒立させる(p.66)」などと本人が書いてしまっているし.倒立させる必要があるなら,作文の型と論理と思考の型は同じではないし,作ってないじゃん.
この記事自体も(論理的な文章のはずだが)実際の思考順とは全く異なる順番に文章を並べている.また,数学の証明と言う論理的な文章の最たるものを書く際を思い出すと,実際の証明と思考過程が離れていることがよくある.すくなくとも証明が思いつくまでの試行錯誤は証明には残さないのが(そのことの是非はあるが)普通である.このようなことは,ある程度まじめに(中学・高校程度の)数学に取り組んだ方にはおなじみの現象だろう.
本文で紹介されている例もかなり好意的に解釈しても単に「いつも指導されているような文章の型で書いてしまう」以上の話はないように思える.唯一可能性がありそうなのは「マンガの登場人物ががっかりした理由」を述べる際に日本とアメリカで異なる例だが,これも(本文でも暗に認めてしまっているが)「仏教の縁起思想になじみが深いかどうか」という文化背景の方が影響として大きい*45ようにも思われるので,「『作文の型』は論理と思考の型を作る」という結論を出すのはいくらなんでも早計だろう.

国を割り当てる必要があったのか?

原文では合理性の分類を行った後に,その各領域に各国の作文の型を当てはめているが,なぜそのような当てはめを行ったかについては特に述べられていない.
そもそも国を各領域に割り当てる必要があったのだろうか?カプランの地域ごとの分類から離れたのに,なぜ,「地域ごと」にわざわざ戻る必要があるのだろうか.
各国の文章教育ありきで,それぞれに合理性を割り当てているつもりだったとしても,なぜそのように判断したのかは著者の思い込み以上のものはないように思われる*46.「アメリカの型は時間効率性を重視する型だから経済的な領域だ」「フランスの型はあらゆる状況を考える型だから政治的な領域だ」などと述べているが,「政治領域でも時間効率が求められる場合もあるし,経済的にリスキーな状況に,あらゆる状況を考える必要がある場合もあるだろうから,妥当な当てはめではないだろう」と思えてしまう.なんなら,「あらゆる状況を一人で考えるのに効率の良い型だからディセルタシオンは経済領域(主観的形式合理性を持つ)」「客観的に見て効率よく情報を伝えるという目的のために最適なエッセイという型は政治領域(客観的実質合理性を持つ)」と言っても良さそうにすら思えるのだが.
イランのエンシャーを法技術領域に当てはめたのもよくわからない当てはめ方で,「法学」は法技術領域にあてはまるらしいが,法学の論文や裁判の判決文の文章はエンシャーのような文章ではないだろう.代表選手として良いとは思えない.
一番よくわからないのが,書かされている当の日本人ですら「論理的である」と思っていない感想文を取り上げたことである.「文章構造」を考える際に,他の作文とは違う発想をしなければならないことは書かれているものの,何をもって「論理的」であるかについてはいまいち判然としない.おそらく,「人間として○○という点で成長した」という結論を出す点を言っているのだろうとは思われるが,その辺りをはっきり主張できているとは思えないし,仮にそうだとしてもそれをもって「論理的文章」とは普通言わないだろう.それが許されるのであれば,ふんだんに文学的表現を使い,叙述トリックが使われるような推理小説でさえも「犯人はだれか」「犯人はどのように犯罪を犯したのか」「犯人の動機は何か」などの結論を導くための「論理的な文章」ということになるのではないか.
仮に感想文が論理的文章であることを認めたとしよう.それでも,なぜこれが社会領域(主観的実質合理性を重視している領域)なのかはやはり判然としない.感想文教育は高度経済成長期などにも行われていたようだが,エコノミックアニマルと欧米人に揶揄されるような日本人を育てたのはなんと経済領域ではない「感想文」ということになる.しかし,当然疑問に思うその辺のねじれについて本文では全く論じられていない.なんなら,日本も「受験戦争」と言われている(た)のだが,なぜ,効率性を求める経済領域の「エッセイ」や「小論文」はもっと教育現場に入り込まなかったのだろうか?その辺もいまいちはっきり論じられていないため,著者の行った感想文を社会領域に対して当てはめたことに対する妥当性が全く感じられない.

西洋の思考4パターンとの関係は?

一番最大の問題は西洋の思考4パターンとして,序章であげた「従来の論理の理解」との関連がほぼ論じられていないことだ.せいぜい「各領域の価値基準に基づいて形式的論理的に判断したとき,合理的な行為が決まる(p.59)」という記述と「フランスのディセルタシオン」の形式が哲学の思考パターンとしてあげられていた弁証法と同じ*47であることくらいにしか出てこない.前者に至っては,形式的論理を演繹に限定しているにも関わらず,各国の論理について語る部分では明らかな帰納的な推論も含まれてしまっているので,主張として破綻している*48.(誤解があるとはいえ)先行研究との比較がまったくされていないので,論理について何かが新たにわかったとはとてもではないが言えない.(2025/3/7 削除)社会学的な観点からはともかく,論理学の観点からは(削除終わり*49)(2025/8/16 修正)先行研究批判がされていない以上,そもそも学術的な論としての体を成しているとすら言えないだろう.「本質論理」なる一般的な概念ではないどころか,専門家同士のジャーゴンですらない本人の独自概念をキーコンセプトにしているにもかかわらず、その説明が満足にされておらず,またその概念を用いることの利点欠点が先行研究などとほぼ比較検討されていないなどといった,基本的なことすらなされていない現状の議論では,そもそも学術的な論として成立していない.それゆえ,専門家にすら「本質論理」の意味がわからない.実際,わたしは論理について日々研究している人間だが,「本質論理」が何を指しているのかよくわからないことは先に書いたとおりである.この本は「高校生などに自分の研究内容を伝える」という体裁の本であるが,専門家にすら伝わらない概念が中心的役割を果たす本から一般人は何を読み取ればよいのだろうか*50?(修正終わり)

『論理的思考とは何か』の真の意義は何か

この節では『論理的思考とは何か』が示せたこととその意義について考察する.
『論理的思考とは何か』の新規性のある主張はなんだろうか?「読み手の背景によって『論理的である』と考える文章構造が異なること」自体はカプランらがすでに指摘していることなので,これは著者の功績ではない.そうすると,著者の功績として考えられそうなのは次の二点くらいではないだろうか:

  • 重視される合理性の種類により論理的文章の構造を分類することを提案したこと
  • 提案した分類に従うと,アメリカのエッセイとフランスのディセルタシオン,イランのエンシャー,日本の感想文があてはまるとしたこと

しかしながら,後者は先に指摘した通り,なぜあてはまるのかが著者の思い込み以上のものがないように思われ,そこまで意義のあることに思えない.そうすると,前者も単に提案しただけに過ぎず,それによる分類の妥当性については議論できる段階にないだろう*51.結局,現時点では「各国の作文教育には違いがあり,そこには各国それぞれの文化的な背景がある」以上のことは言えておらず,それによる文化比較も(2025/3/28 追記)前提となる本質論理が定義不明な概念であるため,(追記終わり)あまりできていないように思える.

結論(2025/03/28 改稿)

『論文的思考とは何か』は(仮に社会学としての議論を認めるとしても)論理学・議論学の観点からはまったく新規性はなく,参考にするべき議論も特にはない.これはそもそも先行研究のサーベイがほとんど行われていないためであるように思われ,それ以上に先行研究と自身の研究の比較をまったくしない著者の態度に起因すると考えられる.
また,社会学的な観点からも議論が恣意的過ぎて,論理的思考とは何かを明らかにすることに何らの寄与もないように思われる.本質論理の下で感想文が論理的文章であると主張してることから,本質論理なるものは明らかに一般的な「論理」とは異なるものである.要は,この本の著者は「本質論理」なる本人にしか見えない藁人形をぶん殴って「論理的思考を明らかにした」と述べ,一人悦に入ってるだけである.「本質論理」なる研究対象が(曖昧であること以上に)定義すら不明な以上,これに学術的な価値を見出すことは全く不可能である.
価値があるとすると,論理的な文章を書く際の文章の構造(レトリック)に国の教育方針によって差があることの報告の部分くらいだろう.文化比較がしたいようにも思われるので,論理から離れて,「各国の作文教育の比較」という方向に論を練り直す方が有意義に思われる.
ただ,現在のように感想文とエッセイのように全く異なる文章同士を比較しても特に際立った特徴は見つけられないと思われるので,

  • 国の教育方針同士の比較
  • 同じような目的の文章同士の構造の比較(エッセイ・ディセルタシオン・小論文の比較とか,感想文とアメリカのパーソナル・ライティングの比較とか)

などの類似点がもう少し多くある対象同士の比較を行う方が有意義だろう.
(大意は変えず,こちらの意図をわかりやすくするために,表現や改行箇所などを改めた.(2023/03/22 追記))
(明示し忘れていた前提を明示.(2023/03/28 追記))

参考文献

論理学における論理の説明は主に以下を参照した

非形式論理学については主に以下を参照した

まともに論理について勉強するためには(2025/03/26 追記 2025/4/27 節タイトル修正)

「まともに論理について勉強するにはどうすればいいのか」みたいなことをこの記事を見た人から聞かれることが増えた.以前書いた以下の記事が参考になると思う:
sokrates7chaos.hatenablog.com

補遺:「『本質論理』は『論理的文章の型』」と理解することができない点について(2025/10/12)

『本質論理』を『論理的文章の型』とする解釈が不可能なことを説明する.個人的に,このことは最初に「本質論理」を措定してから話を始めるという原文の構成からも「『本質論理』は『論理的文章の型』ではないこと」は明らかだと思うのだが,そうではない人も多いようだ.
「論理的文章の型」と本質論理を捉えることができない一番わかりやすい根拠は「感想文」を「独自の論理を持つ(p.114)」として,論理的文章としていることだ.感想文は論理的文章ではないと一般には捉えられていることを著者も認めている.それにも関わらず,感想文を「論理的文章」としているということは,一般にイメージされる「論理」ではない意味,(2025/11/17 追記)言い換えると,何らかの特殊な意味(追記終わり)で「『論理』的文章」とするしかない.つまり,日本の感想文を「論理的文章」というのは「本質論理」という著者の独自概念の下で「論理的文章」ということである*52.先に「本質論理」というものがあった上で,日本の感想文(という独自の構造を持つ文章)を「論理的文章」と捉えることができるということは,「本質論理」は(一般に)論理的文章とされているものの文章の型ではない.実際,他にも何か所か論理と「論理的文章」の型を並列して並べ,別の概念として扱っている箇所がある.
『本質論理』を『論理的文章の型』とする解釈をする原因は,この本の宣伝文句にあるようである.出版社も読者を混乱させるような宣伝方法を取るべきではないと思うのだが,本を売らなければならないという出版社の性質上,多少ミスリードで無理筋な解釈で良いので,価値のある本に見せなければならないのだろう(道義的にどうかとは思うが).

おまけ:その他『論理的思考とは何か』について思ったこと

ここでは本文で取り扱うほどではないように思われた『論理的思考とは何か』について思ったことのうち大きめなものを並べる*53

  • 普通,文章術・価値観・思考法(発想法)・論理などに分けて考えるべきものが区別されていないように思われる.
    • 実際,その辺り著者自身も混乱しているかのような記述が散見される
    • もし,「文章術・価値観・思考法(発想法)・論理などに分けて考えられない」と考えているのであらば,「なぜそういった区別ができないのか」という問または区別をしてしまうと起こる問題についての議論が必要だが,ほぼなされていない.
  • 4つの本質論理の領域のうち,どれに則ってこの本を書いたのか明示されていないので,主張が中途半端である.
    • 論理が著者の主張するとおり4種類しかないということであれば,どの種類の論理の領域に則って書かれたかを明示しないのは,本人がそもそも多元的思考なるものをできていないように思われる.
    • 仮に4種類のどれでもないなら,本質論理は一番肝心の彼女自身の論理をカバーできていないか,この本は論理に則らず書かれたものであるかのどちらかである.仮に後者だった場合,学術的であることに論理は必要ないと考えている可能性がある.
  • 論理学以外の「前提知識」として本人が挙げている分野に対する理解も浅い上にところどころおかしい.
    • どうにもここまで,おかしな点が多いと,著者が参考文献の要約のような形で書いている文章にも信が置けない
      • まぁ,そこを信用しても,本文中に見た通り議論として成立していないのだが.......

おまけ:論理の社会構築説を示すには

論理の社会構築説を示す方針と方針ごとに示さなければならないことを考えてみたので,メモとして書いてみる.

  • 「前提」と「結論」の組という単位で論理について考える論理学の枠組み自体が文化に影響を受けていることを示しに行く
    • 「前提」と「結論」の組の列と分析できないが,直観的に「論理的」と受け取らざるを得ない議論の存在を示す.そんなのあるんか?
  • 隠された前提なども含めてすべての前提を考慮し,曖昧さを消し去っても文化圏によって,異なる支持関係の強度を成しているように思われる議論の例を示す.
    • ただし,「文化圏ごとに異なる価値観」は「隠された前提」として扱えてしまうだろうから,かなり望みは薄いだろう.

はてなブログランキング掲載(2025/03/10 追記)

この記事は以下のランキングで 19 位をいただいた.ありがとうございます.
blog.hatenablog.com

この記事より手間のかからなかった 非哲学科向けの哲学の本 - Sokratesさんの備忘録ないし雑記帳 の方が順位が良いことについて思うところはある.

*1:第2刷(2024年11月5日発行)を私は持っているので,以下で示すページ数などはその版のものを指している.

*2:なぜか書き忘れていたので追記(2025/03/10 追記)

*3:論理的思考とは何か (岩波新書) 』を読んだ結果,この研究は(あくまでも現段階ではだが)論理学的にあまりおもしろみがないように思われ,あと,雑な論理学の説明が鼻について読む気がなくなってしまった.もしかすると,『「論理的思考」の社会的構築: フランスの思考表現スタイルと言葉の教育』(2025/03/10 追記)や『「論理的思考」の文化的基盤 4つの思考表現スタイル』(追記終わり)ではこの記事で書いていることが乗り越えている可能性はある.そのようなことがあったら,一応知らせてもらえると助かる.

*4:(2025/03/10 追記)次のようなリストを趣味で作る程度には論理学的ではない論理の語用には寛容なつもりで居る:論理学的でない論理学用語の語用の一覧 - Sokratesさんの備忘録ないし雑記帳.(追記終わり)

*5:ここまで書かないと,社会学の議論として評価してもダメなことが理解できない人間が多いようなので,追記.独自概念を定義すらせず用いるのは控えめに言って学部生の卒論の水準にすら達していないと思われる.(2025/3/27 追記)

*6:ちなみに,この動画はアリストテレスの論理学周りの話題を解説するという体裁のものだったのだが,(古い時代の論理については専門外とはいえ,わたしの知っている範囲で見ても)アリストテレス論理学の解説としてはかなり違和感がある.一番混乱を招きそうだなと思った点として,「(アリストテレス流の分析のために)文(判断)を"S is P"(判断の標準形)などの形にパラフレーズする必要がある」という文の形式の正しさの話と「(三段論法における)大前提・小前提・結論の文の形式による推論の妥当性」という推論の正しさの話を変に混同したような語り方をしていた点を挙げておく. ところで,この記事ではアリストテレス論理をほとんど取り扱っていない.現代論理学とアリストテレス論理学(およびその系譜の伝統的論理学)は扱っている対象も手法もかなり異なる.たとえば, アリストテレス論理学では概念同士の関係に対する判断が主題のため, "All S is P" や "Some S is P" という形式やその否定形の文(判断)を重要視するが,現代論理学ではそこまで重要視をせず,もっぱらより複雑な文を扱うし,扱うにしても多くの場合,さらなるパラフレーズを行って扱うことになる(この辺りの話はすこし複雑なので詳細は割愛).そのため,この記事はアリストテレス論理学の学習の参考にはならない(元の動画にそのような意図がないことは明らかだが,誤解してこの記事に来る人もいると思うので念のため).

*7:一番遺憾だった点として,「本の著者は論理的思考をできていない」という個人攻撃的批判をしたかのような紹介のされ方をしたことである.たしかに,「この本の著者は論理的文章を書けていない(内容・構成が学部の卒業論文の水準にも満たない)」という主旨のことは書いたし,議論が妥当ではないと批判しているが,あくまでも批判対象は本と研究の内容であって,著者本人の能力というパーソナルな部分に対してではない(すこし思うところがあることは認めるが).そもそも「論理的思考」なる意味内容のコンセンサスがあまり取れていない用語を無定義に使うことにわたしは反対である.そのような用語を使ってわたしの主張をまとめられることに強い不快感がある.

*8:後述するが,この点にそもそも誤解がある.

*9:キーコンセプトにもかかわらず,『論理的思考とは何か』には本質論理と書かれている箇所(p. i,p.167)と実質論理(p.55)と書かれている箇所があり,どうにも用語が安定してないように感じる.「実質論理」と書かれている箇所が(四角囲みの中という目立つ場所とはいえ)一か所なので,単なるタイプミスの可能性もあるが,キーコンセプトをこんな間違え方するだろうか.この記事では基本的に「本質論理」と呼ぶことにする.この著者がワリと不用意におかしな言い回しをすることが多いので,素で特に決めていないのではないかと疑っている. (2025/03/06 追記)このインタビューを見る限り,「本質論理」が意図しているのは「議論 Argumentationリーズニング Reasoning(こっちのような気もする 2025/5/3 追記)」のことのように思われるが,結局そのことをしっかりと主張できてないことには変わりない.(追記終わり)

*10:「本性である」とは言っていない(実際直接は書いてない)と著者は反論するかもしれないが,もし,そうなら,「論理的思考とはこういうものだ」と断定的には言えないはずである.

*11:なぜそう推測したのかは後述する.(2025/03/06 追記)このインタビューを見る限り,著者が「本質論理」という言葉で指示しているのは「議論 Argumentation」のことのようにも思われるが,結局そのことをしっかりと主張できてない以上,これ以上は何も言えない.(追記終わり)(2025/5/3 削除 違うような気がしてきたため)

*12:個人的に,最初に「本質論理」を措定してから話を始めるという原文の構成からも「『本質論理』は『論理的文章の型』ではないこと」は明らかだと思うのだが,そうではない人も多いようだ.より分かりやすく「論理的文章の型」と本質論理を捉えることができない証拠は「感想文」を「独自の論理を持つ(p.114)」として,論理的文章としていることだ.感想文は論理的文章ではないと一般には捉えられていることを著者も暗に認めている一方で,「論理的文章」としているということは,一般にイメージされる「論理」ではない意味で「論理的文章」ということになる.つまり,日本の感想文を「論理的文章」というのは「本質論理」という著者の独自概念の下で「論理的文章」ということである.先に「本質論理」というものがあった上で,日本の感想文(という独自の構造を持つ文章)を「論理的文章」と捉えることができるということは,「本質論理」は(一般に)論理的文章とされているものの文章の型ではない.実際,他にも何か所か論理と「論理的文章」の型を並列して並べ,別の概念として扱っている箇所がある.出版社も読者を混乱させるような宣伝方法を取るべきではないと思うのだが,本を売らなければならないという出版社の性質上,多少ミスリードで無理筋な解釈で良いので,価値のある本に見せなければならないのだろう(道義的にどうかと思うが).(2025/03/15 追記 2025/3/16 改稿 2025/10/12 移動)

*13:あたかも一般的な捉え方かのように書いてあるが,寡聞にして,このような分類はこの本でしか見たことないので,著者の主張であるとわたしは受け取った.ただし,彼女の言う「(形式)論理学」は現代の(形式)論理学全体ではなく,(2025/8/20 修正)彼女の頭の中にのみ存在するナニカである非常に限定された範囲のみを指すものである(修正終わり)(2025/8/20 追記)現代の論理学として受け取ってもおかしいことはもちろん,(最近になって少し勉強した)伝統的論理学の話として受け取ってもおかしい部分が大半を占めるため,このように受け取るしかないと考えを新ためた.伝統的論理学に現代形式論理学をほんのわずかに混ぜた忌まわしいキメラのようなものではないかと想像される.(追記終わり)また,「レトリック」もいわゆる修辞学を指しているのではなく,弁論術を指しているように思われる.おそらく,アリストテレスの語法を変に引きづっているのだろう.そのワリには,ロゴスとレトリックを分けて議論できていないのだが.......(2025/03/09 追記 3/10 改稿)この記事を読んだ方から Chaïm Perelman らの New Rhetoric を踏まえた語法ではないかと言う指摘をいただいた.正直,わたしは論理学には多少の知識があるが,レトリックや議論学のことはあまりよく知らないので,調べなおし,また,原文の説明を読み直してみた.結論としては,やはり,「変に誤解してアリストテレスの語法を引きづっているだけなのでは?」という印象の方がまだ強い.原文の説明はアリストテレスの弁論術の説明から始めており,『アリストテレス 弁論術 (岩波文庫)』 での記述を「蓋然性の高い推論」がレトリックに含まれることの根拠にしていた.また,仮に New Rhetoric のつもりであるなら当然あるべき Perelman による枠組みである旨の説明などはなかった(引用自体はされているのだが,別件で引用されている).なんとなくだが,論理学と同様,著者はあまりレトリック周りの先行研究もわかっていないのではないかという印象を受けてしまった.余談だが,アブダクションについての説明も(パースのアブダクションのことだと受け取っても)微妙に違和感のあるものになっており,「あまりわかっていないのかな」という印象がある.いずれにせよ,「レトリックと論理は区別されるべきもの」ということ自体は New Rhetoric でも共有されていることに見える(ザッと調べた限りなので,詳しく調べたら違うのかもしれないが)ので,この分類は著者独自の分類なのだろう.(追記終わり)

*14:(2025/8/20 削除)古い時代の論理学の理解としても間違っているような気はするが,19世紀以前の論理学は詳しくないので,断言できない.(削除終わり)伝統的論理学を少し勉強した結果,その話だと受け取ってもおかしいことがはっきりしたため,単におかしなことを言っているだけと判断した.(2025/8/20 追記)

*15:(8/14 追記)「一般書に新規性を求めるのおかしいのではないか」という意見をいただいたが,ここで問題にしているのは「この本で紹介されている研究内容そのものの新規性」である.かなり研究内容に踏み込まないと新規性がわからない研究はあるが,この研究はそういう類のものではない(と少なくとも本人は主張している).(追記終わり)

*16:ぶっちゃけ,こんなアクロバットな推論を重ねないとわからないような書き方をしているということでもあり,説明をする気がないのではないかと疑っている.

*17:我ながら「なんでこんな例を考えないといけないんだ」という気持ちはある.(2025/3/28 追記)「給食で余ったデザートを食べる人を決めるためにじゃんけんをする」の方がより自然でかつわたしの意図に合う例なことにいまさら気が付いた.この場合,じゃんけんを論理と考えている可能性がある.「もめるくらいならさっさとじゃんけんで決めた方が時間の節約である」ということで,客観的実質合理性があるから,このじゃんけんは政治領域の論理なんだろう(どっちにせよアホくさい例だ).(追記終わり)

*18:もしかすると,「同僚の R がベンツを持っている」と「ある同僚がベンツを持っている」の区別がつかない人もいるかもしれない.次のように考えると違いがわかりやすい.前者は「同僚の R がベンツを持っている」ときのみ真になるのに対して,後者は R がベンツを所有していなくても,別の同僚 O がベンツを所有している場合も真になる.

*19:というか,説明がほぼそのままなので,おそらく,この本が元ネタなのだろう.引用されてないけど.ちなみに,「三原則」という最近の教科書では見慣れないものも『岩波哲学小辞典』には載っていた.どうも,Law of thought - Wikipediaに書いてある"The three traditional laws"のことのようだ.(2025/8/20 追記)ちなみに,本文の説明は伝統的論理学の話と受け取ってもおかしい部分が多い.(追記終わり)

*20:論理学が「論理」という規範を与えていると誤解している可能性がある.「論理学はすすめる」なんて書かないでほしい.......

*21:論理一元主義 vs 論理多元主義の論争については詳細をよく知らないので,"Logical Pluralism (Stanford Encyclopedia of Philosophy)"を参照のこと.

*22:もしかすると,「伝統的な論理学ではこのように論理について考えられてきたが,論理とはそのようなものではない」という話をしたかったのかもしれないが,現代論理学の話をまったく無視した説明をしてよいということにはならない.(2025/8/20 追記)しかも,本文の説明は伝統的論理学の話と受け取ってもおかしい.(追記終わり)

*23:論理学的はない「論理」の語用については次に趣味でまとめている: 論理学的でない論理学用語の語用の一覧 - Sokratesさんの備忘録ないし雑記帳

*24:厳密には違うものだが,この記事では論証(命題間の支持関係)と推論(実際に新たな命題を導くこと)の区別を特別行わない.実際問題,(この記事でこの後定義する意味での)形式論理学ではもっぱら「推論」としか言わない.

*25: Formal logic - Propositional Calculus, Symbolic Notation, Deductive Reasoning | Britannicaなどを見る限り,やはり,何らかの「記号化」が前提の分野が形式論理学だとするのが現代だと一般的に思われる.

*26:(2025/03/07 追記)Argument と Argumentation はテクニカルタームとしては違う意味で用いられることがある.前者は(この後定義する意味である)「前提と結論のペア」として使われ,後者は実際に人間(など)が行う Arguments が具体的に表れるコミュニケーションを伴う活動を指す【Argument and Argumentation (Stanford Encyclopedia of Philosophy)】.(追記終わり)

*27:正確には命題(proposition)なのだが,それらの細かい違いは本題とは関係なので,割愛する.

*28:明確な基準のコンセンサスが与えられているのは演繹(後述)の範囲くらいだろう.

*29:いわゆる「コインハイブ事件」の判決文から引用した.

*30:言明の論理的な構造にこだわるならばもっと細かくなるが,疲れてしまうのでそこまではやらないことにする.ところで,もしかすると,法学の慣例表現などにわたしが明るくないので,もしかすると,ここで分析したのとは異なる論証が行われていると法学では考えられている可能性はある(わたしの気が付かなかった隠れた前提があるとか,わたしの事実誤認があるとか).この例に限らず,実のところ,論証の分析には対象領域の知識が必要である.

*31:もっとも,論理学においてレトリックがまったく扱われていないわけではない.非形式論理学(後述)の分野では,論証のレトリックな側面もトピックとしてあげられている(Informal Logic (Stanford Encyclopedia of Philosophy)).

*32:この定義だと「アブダクション」と呼ばれる推論の形式は帰納に含まれるが,一部の論理学者・哲学者はこれを帰納とは別にする流儀を取る(三分法).また,「帰納」という名前で呼ばれることの多い,\begin{prooftree}\AxiomC{\(a_{0}\) は P} \AxiomC{\(\cdots\)}\AxiomC{\(a_{n}\) は P}\TrinaryInfC{すべての x について,x は P} \end{prooftree}という形式の推論は「枚挙帰納法」などと呼び分けることがある.このあたりの歴史的な経緯について,わたしはよくわかっていない.

*33:気が向いたら,具体例を書いて載せる.

*34:燻製ニシンの虚偽 - Wikipediaお前だって論法 - Wikipedia などを形式言語で扱うのは難しい.

*35:少なくともこれらの論証のモデル化の決定版はない.

*36:2006年の論文なので,今は少し状況が違うかもしれないが「Informal logic (非形式論理)という言葉をみんな好き勝手いろんな意味で使いすぎだよね」みたいな論文がでているので,そう単純な話ではないとも思うが......【Making Sense of “Informal Logic” | Informal Logic】.

*37:ロジカルシンキングをクリティカルシンキングと同一視する人も居るのだが,著者の考えている『論理的思考』が何を想定しているのかよくわからない上に,クリティカルシンキングについて著者が全く言及しないので,クリティカルシンキングと著者の考える『論理的思考』の関係はよくわからない.

*38:どうでもいいが「議論学」というよりは「論争論」や「討論の理論」などの方が原語の雰囲気が出る気がする.

*39:(2025/03/06 追記)実際,このインタビューを見る限り,著者が「本質論理」という言葉で指示しているのは「議論 Argumentation」のことのようにも思われる.が,結局そのことをしっかりと主張できてない以上,これ以上は何も言えない.(追記終わり)(2025/5/3 削除 違うような気がしてきたため)

*40:実はこういう文脈で「非 \(A\)」という言い方はこの本で初めて見た表現で,若干の違和感があるので,この言い方をする.

*41: 細かいことを言うと「A が導出可能」かつ「『A でない』が導出可能」でも, 「A かつ Aでない」が導出可能でないような論理があるので,これでも若干おかしいのだが,わたしみたいな人間が渋い顔をするくらいで,一般的には許容範囲だろう.詳細はParaconsistent Logic (Stanford Encyclopedia of Philosophy) に出てくる体系を参照のこと.

*42:「そして」という人間の認知に対してはともかく,論理的にはあまり意味がないように思われる言葉も含まれているが.

*43:元々,本人の理解する論理学の論理との関係もあまり議論されていないという問題点はあるが.......

*44:正直,議論学みたいに日本語の文献が少ない(少なくともわたしはこの分野の日本語の本を2冊くらいしか知らない)分野に対する言及がないだけであったら「先行研究って後から生えてくるよね」と若干の同情の上での指摘していたと思う.が,いくらなんでも論理学に対する誤解がひどいので,単なるサーベイ不足の結果であろうと思われる.

*45:本音を言うと,質問自体がうまく訳せておらず,日米で異なる意味に受け取られた可能性もあるように思われるが,もとの研究の質問の確認する時間を惜しく感じる程度には,この件に時間を割きたくはない.

*46:文章にまとめているうちに,自分の論の欠陥に気が付き,修正をすることはよくあることだが,なぜか著者はそれを「文章の型に則って書いたら,論理が変わって,結論が変わった」と思い込んでいるようなので,元々そういう方なのかもしれない.

*47:哲学の思考パターンとして,弁証法が上がること自体にも違和感があるが,これはわたしが分析哲学の強い影響下にいるせいかもしれない.

*48:ちなみに,エンシャーの話を見る限り,命題と言明の区別がついていない節がある.言明から「解釈」を経て,何らかの命題を得る必要がある場合,それは演繹ではない推論を行っていると考えられるが,あまりその辺を理解していないように思われる.

*49:一部の自称社会学者たちの雑な議論に対しての皮肉を込めてこう書いてしまったが,こちらの意図がわかりづらくなっているだけに思われたため削除(2025/03/07追記)

*50:どうもこの本を擁護している人たちを見ていると,自分の思い込みにあてはまる自分にとって都合の良い言説を文章の断片に見ているにすぎないように思われる.大概の場合,本文の記述と矛盾することを読み取っている.(以下完全な余談)こういった言説のうち一番意味不明すぎて面白かったのは「アメリカの論理が流行っているので,他の論理に目を向けさせることに価値があった」という擁護である.なぜかわからないが,複数の人間が主張しているのを見かける.この本で「アメリカの論理」とされているのは(そもそもがこれを論理とすることがよくわからないが)「5段落エッセイ」というもののことのはずである.しかし,これが流行っているとわたしは知らなかった.すくなくとも,日本では流行っていないと考えられる.わたしは一度も5段落エッセイを書いたことがないし,日本で文章教育を受けた人間の多くがそうだろう.もしかすると,この本の擁護者たちの一部は頻繁に5段落エッセイを書く普通でない界隈に生きているがゆえに,5段落エッセイに何かしら思うところがあるのかもしれない.

*51:(2025/03/10 追記)実のところ,前者くらいは価値として擁護できるようにこの記事を書き始める前には考えていたのだが,記事を書いているうちに「具体例部分がダメで,関連する理論部分との比較の議論もざばざばなら,枠組みの有用性の論証としてダメだろう」となってしまい救えなかった.とてもかなしいが,これは論理が変わったという話ではなく,書いているうちに論理の穴に気が付いたというだけだろう().(追記終わり)

*52:本文でもツッコんだが,なぜ,感想文を論理的文章とできるのかについて,著者は理由を述べていない.本質論理って何なんですかね.

*53:正直細いことを含めればまだ言いたいことはある.