Sokratesさんの備忘録ないし雑記帳

書きたいことを書いている.駄文注意.

「実数は実在するが虚数は実在しない」とする人々へ

最近,「実数は実在するが虚数は実在しない」とする人に絡まれることが多い.控えめに言って,どれも破綻しているのであるが,いちいち指摘するのにも疲れてきたので,ここにそれらへの反論をまとめておくことにする.

要約

実数の組に適当な演算を導入すれば「複素数」を実現できるのに,「実数の実在は認められるのに虚数は実在しない」と考えるのは哲学的にかなり無理筋な議論が必要になるのではないか.

いくつかの用語の説明

この節ではこの記事に使われる用語を説明する.これらは [1] に準拠して使っているつもりであるが,私の読み間違いなどが理由で,違うものになっている可能性はある.

(数学的対象の)実在

この記事で「(数学的対象)〇〇が実在」と述べた場合,「数学的対象 〇〇 という対象は数学者や人間などから独立して存在する」という意味で用いる.そもそも「『数学的対象が存在する』というのはどういうことか」という「存在」とは何かという問題はあるが,あまり詳細に述べるのはこの記事の役目ではないと考えるので,割愛する.適時,「存在論」についての本を参照せよ.

虚ろな数論者

「実数は実在するが虚数は実在しないとする人」といちいち呼称するするのがしんどいので,こういう人々を「虚ろな数論者」と呼ぶことにする.この記事独自の用語で,わたしも普段は使わない.急に「虚ろな数論者」と言われても何のことかわからん人がほとんどなので,この記事のような議論を他人とする際には注意してほしい*1

プラトン的な世界観 と アリストテレス的世界観

この記事において,「プラトン的な世界観」と述べた場合,「個物に先行する実在論」としての立場を意味する.つまり,少なくともいくつかの普遍者は,その実例に先行して独立して存在するとする立場を意味する.たとえば,この立場の人間にとっては,この世のありとあらゆる「赤い物」を破壊してしまったとしても「赤さ」という性質はなお存在し続ける.

また,「アリストテレス的な世界観」と述べた場合,「個物の内にある実在論」としての立場を意味する.つまり,普遍者の存在は認めるが,普遍者がその実例と独立に存在することは否定する.たとえば,この立場の人間にとっては,プラトン的な世界観の人間とは対照的に,この世のありとあらゆる「赤い物」を破壊してしまったとすると「赤さ」という性質もまた存在しなくなってしまう.

「数学的概念は物理的な対象からの抽象化によって得られる」とする立場の人間は「個物の内に普遍がある」と考えていると思われるため,アリストテレス的な世界観で生きていると推測する.対して,「数学的概念は物理的な対象からの抽象化によって発見される」とする立場の人間は「普遍者は個物に先行している」と考えていると思われるため,プラトン的な世界観で生きていると推測する.

「実数は実在する」ことを前提としている論者をこの記事では主に扱うので,この論者は少なくともこれらのどちらかの立場に立っていると考えられる.

「実数は実在するが虚数は実在しない」とする人々の意見とそれに対する簡単な反論

この節では,「実数は実在するが虚数は実在しない」とする人々(虚ろな数論者)の意見とそれに対する簡単な反論を述べる.

実数には対応する物理的な存在があるが,虚数には対応する物理的な存在がないので実在しない

「虚ろな数論者」の一番良く見かけるタイプの意見は「実数には対応する物理的な存在があるが,虚数に対応する物理的な存在がないので実在しない」である.というか,ほぼ大多数はこの立場である.この立場には次のような問題点がある.

  1. プラトン的な世界観からの批判
    1. 数学的な対象の実在は物理的な世界の存在には依存しないはずである.
  2. アリストテレス的な世界観からの批判
    1. そもそも実数に対応する物理的な存在はない.
      • そもそも十分大きな自然数に対応する物理的な存在もあるのか怪しい.
    2. もし,そのような存在が存在するのであれば,複素数にも対応する物理的な存在も存在するはずである.

これらについて順をおって説明する.

プラトン的な世界観の人間にとっては「物理的に存在しないから実在しない」はナンセンスである.なぜなら,「複素数」という数学的な対象の実在は物理的な存在に依存しないはずだからである.

さて,今度はアリストテレス的な立場から批判を加える.実数に対応するような「物理的な存在」とは何であろうか?これは「数直線」のことであろう.つまり「(幅のない)無限の長さの直線」を用意すれば良いことになる.当たり前だがそのようなものはこの世のどこにも物理的には存在しない.

それどころか,この立場の場合,実数の部分である「自然数」の実在も怪しい.アリストテレス的な世界観の人間にとって,「自然数」という概念は「何らかの物の塊」を数え上げる個数であろう.この世の「粒子の数」は高々有限個であると考えられるので,この世に存在する粒子の数よりも大きな「自然数」には物理的な対応物が存在しないことになる.そうするとグラハム数くらいの大きさのものは実在が怪しい.

さて,虚ろな数論者が「(幅のない)無限の長さの直線」をなんとか物理的に用意できたと仮定しよう.すると,この虚ろな数論者は次に複素数の物理的な対応物と思われるもの「wikipedia:複素平面」の実在を否定しなければならない.つまり「無限の広さの平面」の存在を否定しなければならない.そのようなものは「(幅のない)無限の長さの直線」が二本あれば破綻してしまう.用意できた「(幅のない)無限の長さの直線」が唯一つであることをぜひ示してほしい.その帰結として,この世は一次元であることも得られるはずだが,なぜ,我々はこの世を「三次元」と錯覚しているかもセットで説明してくれるととても嬉しい.

「実数には対応する物理的な存在があるが,虚数には対応する物理的な存在がないので実在しない」とする人々にやってほしいこと

「実数には対応する物理的な存在があるが,虚数には対応する物理的な存在がないので実在しない」とする人々にやってほしいことは次の通りである.

  • 「(幅のない)無限の長さの直線」という物理的な存在が唯一つ存在するが,この世に「無限の広さの平面」は存在し得ないことを示す

実数は物理的な存在の抽象化によって得ることができるが,虚数にはそのようなことができないので実在しない

「実数には対応する物理的な存在があるが,虚数に対応する物理的な存在がないので実在しない」という延長線上なのか「実数は物理的な存在の抽象化によって得ることができるが,虚数にはそのようなことができないので実在しない」という立場もよく見かける.この立場には次のような問題点がある.

  • もし,何らかの物理的存在からの抽象化によって実数概念を得たとするならば,そこから容易に複素数を得ることができ,それゆえ,虚数も実在してしまう.

「何らかの方法によって物理的存在からの抽象化によって実数概念を得た」としよう.さて,実数の組に適切な演算を入れることによって,複素数は構成することができる(wikipedia:ケーリー=ディクソンの構成法).この方法だと,通常高校数学の範囲でよく用いられる \(a+bi\) のような記法は使うことはできなくなるように思われるかもしれないが,\(a+bi\) を \((a, b)\) の略記だと思うことにすれば支障はなくなる.そのため,この論法を用いる「虚ろな数論者」はwikipedia:ケーリー=ディクソンの構成法ができない(または対象の実在を保証しない)ことを示さなければならない.

「実数は物理的な存在の抽象化によって得ることができるが,虚数にはそのようなことができないので実在しない」とする人々にやってほしいこと

「実数は物理的な存在の抽象化によって得ることができるが,虚数にはそのようなことができないので実在しない」とする人々にやってほしいことのリストは次の通りである.

  • 実数の組を考えることができない(または実数の組は実在しない)理由を与える,または
  • 実数の組に適切な演算を考えてはならない(またはそのような演算は実在しない)理由を与える.

数には大小があるはずなので,大小のない複素数は数ではない.ゆえに「虚数」は実在しない

「数には(演算と両立する)大小があるはずなので(演算と両立する)大小のない複素数は数ではない.ゆえに「虚数」は実在しない」という論法もたまに見かける.これは(高校数学の範囲内で扱う)「数概念」は複素数以外は大小関係を持っているから生じる論法だと考えられる.この論法には次のような問題点がある.

  1. そもそも「数」という概念自体かなりあやふやである.
  2. 複素数が数ではないからといって,実在の否定にはならない

まず,第一の点についてだが,「数」というのは曖昧な概念である.「自然数」,「整数」や「有理数」などには「数学的な定義」が存在するが,「数」というものに普遍的に認められている「数学的な定義」は存在しない.少なくとも私は聞いたことはない.実のところ「数」と名前のつくもので大小関係の定義されない数学的概念はいくつもある.そのため「数には大小があるはず」という点もかなり怪しい.

次に第二の点についてだが,「複素数は数でなかった」と仮定しよう.しかし,そのことは「複素数が実在しない」ことを帰結するだろうか?これは論理の飛躍である.この論法が成り立つためには「複素数が実在するならばそれは数でなければならない」ことを示す必要がある.「複素数が実在するならばそれは数でなければならない」ことを示すためには「数」とは何かを確立するところから始めなければならないと思われるので,まずそこから頑張ってほしい.

「数には大小があるはずなので,大小のない複素数は数ではない.ゆえに「虚数」は実在しない」とする人々にやってほしいこと

「数には大小があるはずなので,大小のない複素数は数ではない.ゆえに「虚数」は実在しない」とする人々にやってほしいことのリストは次の通りである.

  1. 「複素数」は「数」であるとする定義の確立
  2. 「複素数が実在するならばそれは数でなければならない」ということの証明

参考文献

 [1] スチュワート・シャピロ,金子洋之,『数学を哲学する』,筑摩書房

この記事に対するよくある勘違いについて(2023/05/13 追記)

わかりやすく書いたつもりだったが,(一般の人や数学徒には)馴染みのない用語が乱発されるせいか,誤読も多いので補足する.

この記事の目的は単に「虚数の実在」を認める立場を擁護することにはない

いわゆる「条件文」を読むのが難しいせいか,「虚数の実在」を単に擁護しているように見えるらしい.
この記事の目的は「実数は実在するが虚数は実在しない」という主張が破綻しているようにしか見えないことを指摘する記事である.
そのため,「実数も虚数も実在しない」という立ち位置の人には意味のない議論になっているはずである.
実際のところ,「数学的対象は実在しない(が数学は研究する価値のある学術領域である)」とする立場はある.

結局「存在」ってなに?

「存在」とは何かを探究する領域は「存在論」と呼ばれ,哲学の一領域である.正直,存在論について語るのにわたしはふさわしいと思えないので,それ以上の詳細は 現代存在論講義I—ファンダメンタルズ などの専門書を参照していただきたい.「数学的対象の存在論」に特化した本はあいにく知らないので上記にもあげた「数学を哲学する」などの該当しそうな章を読んでほしい.

*1:最初「虚ろな数論者」に「虚数虚構論者」という名前を付けようと思ったのだが,「虚構主義」という数学の哲学上の立場が確立されているのを鑑み,このような若干ダサい名前になった.