Sokratesさんの備忘録ないし雑記帳

書きたいことを書いている.駄文注意.

水素水騒動を見て思うこと ——疑似科学を科学と認識する認識障害について——

 今回は雑記です. まとまりのない文章になりますがご了承ください. 

 

 水素水の効能がないことが公的機関によっても保証されたようですね. 

容器入り及び生成器で作る、飲む「水素水」−「水素水」には公的な定義等はなく、溶存水素濃度は様々です−(発表情報)_国民生活センター

 

 国民生活センターがこういった問題において, どの程度発言力を持つのかは知りませんが, あからさまな疑似科学に対して鉄槌が下される日も遠くないようです. 

 

 さて, 正直この問題についてそこまで僕自身はさほど興味ありません. 騙されそうになっている方に

疑似科学とされるものの科学性評定サイト

みたいなホームページを紹介することはありますが, 撲滅しようと熱心に活動しているわけではありません. 

 一番の興味は「なぜ, 人は疑似科学を『科学』と思い込むのか」ということです. もう少し正確にいうと「どうすれば, (手遅れな人たちはいったん置いといて)子供たちに疑似科学を見抜く力を備えさせられるか」ということです. 

 

 こう見えても教育関係に身を置いているので, 子供たちと話す機会が他の人よりも多いです. 小学校低学年の子たちと話していると, 彼らは今まで生きていた世界から「科学らしきもの」を得ようとしている(もしくはすでに得ている)ことがわかります. 

 そういった「科学らしきもの」は大人たちの目から見ると明らかに「科学」の段階に至っていないことが多いです(当たり前ですが). 

 特に多くて, その誤解を解くのが大変な「科学らしきもの」の片鱗の一つが「物体が運動するときその物体には力が働いている」というものです. これは実際には「力が働いていない(もしくは釣り合っている)物体は等速直線運動をする」という「慣性の法則」を知っている大人にとっては明らかな誤りであることがすぐにわかります*1

 よくよく考えてみたら, この誤解はそれほどおかしなことではありません. なぜって, アリストテレス的世界観(ニュートン以前)に生きていた昔の人々はそういった価値観の下で生きていたのですから. これは, 「昔の人々がアホだった」ということではなく, 単純にそういった思弁が「それほど重要でなかった」ので, 誤っていても誰も気にしなかったということなのでしょう*2

 

 さて, 問題はこの誤解がなぜ起こるのかということです. これは「力が働いていないと動かない」という事象をたくさん見ているからでしょう.

 たとえば, 「エンジンがかからないと動かない車」「押さないと動かないスーパーのカート」「投げないと動かないボール*3」などなど......

 

 我々は身の回りの世界で感じ取ることができる事象から「科学のような法則」を無意識のうちに作り出しています. しかし, その多くは誤りです. なぜなら, 一人の人間の感じられる世界はかなり狭いからです. また, 同じ事象を観察したところで正しい「科学法則」にたどり着けるのはほんの一握りで——認識障害とバシュラールなどは呼んでいます——多くの場合間違った推測をしてしまうからです. 

 科学の世界ではこういったことを防ぐために正しいと思われる「科学のような法則」が正しいかどうかを判定する「実験」を行うわけですが, ほとんどの人はそのようなことはしません. そして, 多くの場合最初の「科学のような法則」を「正しい」と思い込んでいます. 

 

 我々にとって大事なのは「最初の直観を疑う」ことかもしれません. 子供たちが「疑似科学」に騙されないようにするためにはそのことを教えるのが一番なのかなぁと思う今日この頃であります. 

 

 特にオチはありません. 乱文失礼しました. 

 

 

 ↓文中で出てきたバシュラールの本です. 今, 読んでますが, とても面白いです.  

 

*1:と思ってたんだけど, この前, 飲み会でこの話と似たようなことを話したら, 「え?何それ?気持ち悪い!」と言われました. おいおい, 大丈夫か?!となったのは内緒です.

*2:それ以外にも当時の権威たるキリスト教との兼ね合いもありそうですが.

*3:一番最後の例はよくよく考えてみると「飛んでいる最中は力が(重力以外)働いていない」ので「慣性の法則」に気付ける一つの事象ではありますが, そこまで考えが及ばないのが普通の小学生でしょう.

(跡地)【備忘録】数理論理学・数学基礎論の本

[注意]さまざま考えた結果この記事をリバイバルすることにした.下の記事に移行中である.移した部分は徐々に消していっている.(2020/08/05 追記)

この記事に元々書いてあった分の移行を完了したので,本文は全て消した*1.下のリバイバルした記事を読んでほしい.

この記事にリンクを貼ってくれているサイトも多いようなので,この記事自体は残しておく.(2020/08/07 追記)

sokrates7chaos.hatenablog.com

*1:単にコメントアウトしただけなので,消した記事の文章をどうしても知りたい人は何らかの手段で私にコンタクトを取っていただければお見せする.

【数学】自然数に整数0が含まれることのある3つの理由

 最近ゴジラの話ばかり書いてて, このブログの目的を見失いつつあります.

 是非もないよね!(C.V.釘宮) 

 

 今回のテーマはこちらの記事から.  

【中学数学】自然数に整数0が含まれないたった1つの理由 | マイ勉 : ¥0で使える中学生の無料学習サイト  http://benkyo.me/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%95%B00/

 

 えー......

 なんだか残念な記事ですね......

 端的に言ってしまえば, 「自然数とは指を折って数えられる数である」と主張したいようなのですが, そうすると\(2^{10^{1000}}\)とかは全人類を集めても数え上げられないので自然数じゃないんですかね......

 もっというと, 手が折られていない状態は\(0\)じゃないのかなぁ......

 

 揚げ足取りはともかく, 数学の世界には「自然数に\(0\)を含まない派」と「自然数に\(0\)を含む派」の2通りの流儀が存在します. 日本の初等教育においては「自然数に\(0\)を含まない」とする定義しか教えないので, 上のような勘違いした記事が出てくるのでしょう. 

 

 そこで今回は「自然数に\(0\)を含むことがある」ことについて述べようと思います. わかりやすさとかあまり考えずに突っ走りますが, お付き合い願えると幸いです(書いているうちに楽しくなってきたのが悪い. ). 

 

 「自然数に\(0\)を含む」理由は以下のようなものが挙げられると思います. 

1. 「数」という概念自体歴史的にどんどん変わっていくものであったこと. つまり, \(0\)から始まろうが\(1\)から始まろうが数学的にはどうでもよいということ. 

2. 集合論との兼ね合い. つまり自然数論を集合論の上で展開するには\(0\)から始めた方が「自然」であること. 

3. 応用面でも\(0\)を含めておいた方が良いことがあること. 

 一つずつ見ていきましょう. 

1の理由. 

 そもそもギリシャ時代には\(1\)は数ではありませんでした. 現在の\(2\) 以上の整数が彼らにとっての「数」でした. これは\(1\)はunit(単位)であり, 「unitの集まり」としての「数」とは別物と捉えられていたからです. 

 実は現在の「連続量*1」としての「数」がヨーロッパにおいて認識され始めたのは16世紀以降です. これより以前は「数」は離散的と捉えられていたようです. 

 さらに19世紀の数学の厳密化集合論化の中で「自然数」という概念がようやく数学的に定義されることになります. 

 最終的に自然数を「いい感じに」定義したのはPeanoです. その際のPeano自身の定義では自然数を$1$から始まるものとして定義していました(後述). これが19世紀後半の話です. 意外とキチンとした「自然数」になったのは新しいんですねぇ*2

 それでは\(0\)から始まる自然数はいつ誰が定義したのか?

 これはBourbaki『数学原論』(1939)が最初のようです. なぜそのような定義を作ったかは2の理由の時に説明することにします. 

 

 こんな感じで我々が思っているよりも「数」という概念が今の形になるのは, 数千年単位の時間がかかっています. 数学の歴史は古い概念を新しい概念が乗り越えていくことで発展してきました. 当然, 中には元々のモチベーションや目的からどんどんずれていく概念, 分野はたくさんあります. 「自然数」だけが例外なはずがありません. いつまでも「1から始まる自然数」に固執するのは, なんらかの合理的な理由がないかぎり――実際, 整数論などの分野では自明な例外に\(0\)がなることが多いので取り除いておくことが多い――バカげたことのように思います*3

 ともあれ, 歴史的な側面からも「自然数に\(0\)を含むことは不自然ではない」のです. 

 

 それでは, 自然数に\(0\)を含む合理的に良いという側面について説明しましょう. 

2の理由. 

 先ほど, 自然数を「いい感じ」に定義したのがPeanoだと書きましたが, 彼のした定義は以下のようなものです(若干現代風に書き直してあります)  . 

【定義】自然数

 自然数全体の集合\(\mathbb{N}\)とは次の条件i)を満たし,またii), iii) を満たす自分自身への単射写像\(\mathop{\mathrm{suc}}\nolimits:\mathbb{N} \to \mathbb{N}\)を持つ集合のことである*4
i) \(0\in \mathbb{N}\).  
ii) \(0\notin \mathop{\mathrm{suc}}\nolimits\left(\mathbb{N}\right)\). 
iii) 任意の\(X\subset \mathbb{N}\)について, \(0\in X\)かつ\(\mathop{\mathrm{suc}}\nolimits\left(X\right)\subset X\)であれば, \(X=\mathbb{N}\). 

 気が付いた人もいるかもしれませんが, この定義の自然数では\(0\)が含まれています. この\(0\)を\(1\)に置き換えたのが, オリジナルのPeanoの公理により近いものになります. 

 この定義のうち, わかりづらいのはiii)の定義でしょう. この部分は次のようにも書き換えられます. 

 iii)' \(\mathbb{N}\)の元\(n\)についての命題\(P\left(n\right)\)について, \(P\left(0\right)\)が成立し, また任意の\(k\in\mathbb{N}\)について\(P\left(k\right)\Rightarrow P\left(\mathop{\mathrm{suc}}\nolimits\left(k\right)\right)\)が成立するならば, 任意の\(n\in\mathbb{N}\)について\(P\left(n\right)\)が成立する.

 いわゆる数学的帰納法ですね( iii)の集合\(X\)を定義している命題が\(P\left(n\right)\)だと思えば, 話は分かりやすいかと思います). この形の数学的帰納法が扱えるのが自然数の根本的性質なのです*5

 

 こういった対象は同型を除いて一意に定まる[要証明]ので, 数学的に自然数がキチンと定義できたことになります(2016/9/12に解説を追加. 下の方を参照). 

 

 さて, 気になるのはこういった対象がホントに存在するのかどうかですが, 実は空集合を用いて次のように「構成」することができます. 

\begin{align*}0&:=\emptyset \\1&:=0\cup\left\{0\right\}=\left\{0\right\} \\2&:=1\cup\left\{1\right\}=\left\{0, 1\right\} \\3&:=2\cup\left\{2\right\}=\left\{0, 1, 2\right\} \\&\vdots\\&\vdots\\ \mathop{\mathrm{suc}}\nolimits\left(n\right)&:=\left(n-1\right)\cup\left\{n\right\}=\left\{0, 1, 2, \dots, n\right\}\\&\vdots \\&\vdots\end{align*}

 このように構成された対象はPeanoの公理を満たします[要証明]. 

 さて, 上の構成方法の始点を\(0:=\emptyset\)にしました. そのように定義すれば自然数と対応する集合の元の個数が同じになっていることがわかります.  集合を考えるうえで, \(\emptyset\)が必須であり, 始点にすることに自然さを感じることを鑑みるとやはり, \(0\)を自然数としてとらえた方が自然です.  なにより, 有限な集合の元の数え上げにおいて\(\emptyset\)だけ自然数で数えられないことに違和感を感じるのは私だけではないはずです. 

 

 ともかく, 現代の数学の主要な言語たる「集合」を考える上では\(0\)を自然数から外すことに違和感があるというのが, この節で述べたかったことであります. 

3の理由. 

 自然数に\(0\)を含めることの応用面での良さについてですが,  これはホントに簡単に. 

 

 計算論において, 帰納的関数を考えるとき, \(0\)を自然数に含めた方が便利であることが少し勉強するとわかります. このあたりはもっと詳細に述べるべきであろうと思いますが疲れてきたのでまた今度...... 

 

まとめ 

 えー, テンションが上がって必要以上に詳しく書いてしまった感がありますが, 「現代的には\(0\)は自然数なんだ」という気持ちは伝わったでしょうか? かなり雑に書いた部分もあるので, この記事は今後, 暇なときに更新をしていこうかと思います. 

 

 もしも, 何かしら誤りがあった場合, コメント欄にてお教え願えると幸いです.  

 

 

 

 もう, 「\(0\)は自然数」と言うの面倒になってきたので, 「非負整数」って言えばよい気がする......

 

参考文献

[1]三浦伸夫, 『数学の歴史』, 放送大学教育振興会

数学の歴史 (放送大学教材)

数学の歴史 (放送大学教材)

 

 16世紀以前の数学の歴史についてはこの本を参考にしました. 「放送大学の教材」だからと侮るなかれ, イギリスのアマチュア数学者(Philomath)について詳しく記述してある日本の本はこの本ぐらいではないでしょうか? 

 他の数学史についての本であればカッツ 数学の歴史とかOxford 数学史とか復刻版 カジョリ 初等数学史とか佐々木力氏の数学史とかブルバキ数学史〈上〉 (ちくま学芸文庫)が有名だと思います.  

[2]H.D.エビングハウス他, 『数』, 丸善出版

数 上 (シュプリンガー数学リーディングス)

数 上 (シュプリンガー数学リーディングス)

 

 16世紀以降の「自然数」についての歴史と自然数の公理的扱いについてはこの本を参考にしました. 「自然数」「実数」などの公理的扱いや構成法について詳しい本です. 

 下巻"数 下 (シュプリンガー数学リーディングス)"もありますが今回はそちらは参照しませんでした. 

[番外] 清史弘, 『受験数学の理論1 数と式』, 駿台文庫

駿台受験シリーズ 分野別 受験数学の理論1 数と式

駿台受験シリーズ 分野別 受験数学の理論1 数と式

 

 私が「自然数に0を含むことがある」ということを初めて知ったのはこの本が最初だと思います. 高校時代このシリーズをやたらと気に入って全巻そろえたのは良い思い出です. 今回は参照はしていませんがついでに.

 ただ, Peanoの公理についての記述周辺に語弊のある説明があったような記憶があるので, 注意をしてください.  

 

追記(2016/9/12)

 どうも, 同型を除いて一意に定まるという概念がわかりづらいようなので, 少しだけ解説します. ここで言う「同型を除いて一意に定まる」というのは, 「名前の付け方によらず, (今回の場合は「自然数の」)構造が一つに決まる」というのが「気持ち」です. この「気持ち」をもう少しフォーマルな形にすると次のようになります. 

定理

 集合とその上の単射関数, およびその上の元の組である\(\left(\mathbb{N}, \mathop{\mathrm{suc}}\nolimits, 0\right)\)と\(\left(\mathbb{N}', \mathop{\mathrm{suc'}}\nolimits, 0'\right)\)が両者ともにPeanoの公理を満たすとき, 次の性質を満たす全単射関数\(M:\mathbb{N}\to\mathbb{N}'\)が存在する. 

i) \(M\left(0\right)=0'\). 

ii) \(M\left(\mathop{\mathrm{suc}}\nolimits\left(n\right)\right)=\mathop{\mathrm{suc'}}\nolimits\left(M\left(n\right)\right)\).

 これが成り立つことの証明は後日もう少し時間があるときに追加したいと思います. 

 

 そうすると, \[0, 1, 2, 3, \cdots\]も\[0, 1, 10, 11, \cdots\]も\[a, b, c, \cdots , aa, ab, \cdots\]みたいな文字列もすべて(\(\mathop{\mathrm{suc}}\nolimits\)をしっかり定めることができれば)数学的には自然数です. 

 

 現代的な数学では「数学的構造」が同じものは同一視するので, 名前がどうなっていようと構わないのです. 

*1:義務教育をしっかり受けた人々には, 数直線に隙間がないというイメージがあるはずです.

*2:当然ですがnaiveな取り扱いはもっと以前よりなされていました. たまに勘違いをしている人がいますが, 現在数学の主流な「言語」たる集合論が成立したのは19世紀のことです. それ以前は「公理」などはあまり重視されずもっと素朴に数学をやっていたようです. 「公理」が現代のように最重要視されるようになったのは, Hilbertなどの登場以降のように思います.

*3:余談ですが, 「函数」という概念も古い概念だよねという話を大学時代の指導教官とした覚えがあります. 入れたものを別のものに変えて吐き出すブラックボックスとしてのイメージの「函数」と集合の元同士の関係としての「関数」とを比べると, Functionの捉え方は現代的には後者にするべきでしょう. 書いてて思ったのですが, 計算可能関数は「プログラム」という「函」にいれたものが変化して返り値を返すと思うと「函数」ですね.

*4:厳密にいうと, \(\left(\mathbb{N}, \mathop{\mathrm{suc}}\nolimits, 0\right)\)の組として定義されるべきものです. それぞれ, \(\mathbb{N}\)は全体の集合, \(\mathop{\mathrm{suc}}\nolimits\)は次の数字を指定する関数, \(0\)は自然数の始点といった気持ちがあります.

*5: 詳しく知りたい人へ. 高校数学においては数学的帰納法の形として「任意の\(k\in\mathbb{N}\)について\(P\left(k\right)\Rightarrow P\left(\mathop{\mathrm{suc}}\nolimits\left(k\right)\right)\)」の部分を「任意の\(k\in\mathbb{N}, l\leqq k\)について\(P\left(l\right)\Rightarrow P\left(k\right)\)」に置き換えた形の数学的帰納法を紹介されることがありますが, このうち後者の「数学的帰納法」は「整列集合」一般に適用されるものです(整列集合についてはそのうちこのブログに書きそう). 本文中のタイプの数学的帰納法こそが「自然数」を「自然数」足らしめる根本的な性質なのです. 

シン・ゴジラはいいぞ2

 シン・ゴジラを最初に見てから数週間がたとうとしている. 

 結局, 3回ほど見てしまった. 

 正直, 最初は圧倒されすぎて感想を言葉にすることが困難だったが, 3回目の視聴を経てようやく, 感想を言葉にできそうな気配がしてきている. 

 今回はそんな, わたしの感想のようなものを垂れ流そうと思う. 

 

 この映画で最も圧倒されたのは, その作りこみの深さだ. というよりも「虚構にいかにしてリアルを持ち込むか」ということに対するこだわりであろうか. 

 この映画を見ながら私が一番に考えたこと. それは

ゴジラが攻めて来たら, どこに逃げよう?

であった.

 

 この映画は,  「ゴジラ」という日本で最も有名な「虚構」を「現実」に持ち込んだ作品である. 

 たとえば, 怪獣映画ではおなじみの自衛隊の出動であるが, 劇中ではどのような解釈で自衛隊を出動させるか悩むシーンが存在する. 法律は門外漢なので詳しくないが, どうもどの解釈で出動するかによって, 自衛隊のできることに差があるようだ. 

 そういった細かな「現実の壁」を象徴するシーンは挙げるときりがないので止めておくが, こういったシーンの積み重ねが我々に「これは現実ではないのか」という錯覚を与える. この「虚構」と「現実」の壁の「破壊」こそがこの映画の真骨頂だ. 

 

 その壁が壊されたからこそ, わたしは思う. 

ゴジラが攻めて来たらどこに逃げよう.

  

 そういった意味でこの映画は「怪獣映画」ファンにはお勧めできないかもしれない. この映画は「怪獣プロレス」をみるための映画ではないのだ. 

 庵野監督自身としては「現在の東京でゴジラを暴れさせたい」という欲求で作った作品なのだろうが, もはや作品はその手を離れ, それこそこの映画の「ゴジラ」のように個々人の中に「進化」し入り込んでいく. 

 

 もう一度あの言葉を叫びたい. 

シン・ゴジラはいいぞ 

  庵野監督ありがとう. スタッフのみなさん, ありがとう. キャストの皆さんありがとう. 

 皆様に円谷魂の栄光あれ! 

三角形の心~ETCのはなし~

 みなさん, こんばんは. 

 夏がそろそろ終わるんやなってやっている仮面の日曜数学者です. 

 

 皆さんは, 三角形の「心」のことをご存知ですか?

 えぇ,そうです. 高校で習ったであろう「五心」のことです. 

 「重心」「外心」「内心」「垂心」「傍心」ですね. 

 

 実はこれ以外にも三角形には「心」があります. なんと現状一万個以上あるそうです. 

 そんな三角形の「心」の百科事典が世の中には存在します. 

 その名もENCYCLOPEDIA OF TRIANGLE CENTERSと言います(英語のサイトです). 

 http://faculty.evansville.edu/ck6/encyclopedia/ETC.html

  

 もともとはこの本が元のようです. 400個の心が載っているそうです. (12/17追記 と書いていたのですが, いただいたコメントによると, 私の勘違いの可能性が高いようです. そのため, 本のページへのリンクなども全て消しました. 詳しくは下の鴨先生のコメントをご覧ください)

 

 すごいですねぇ......

 最初の数個くらいであれば知っているのですが, 後半何を思って定義したのかわからないモノばかりです. 

 なにをとちく......もとい何を考えて, こんなに三角形の「心」を増やしたのかはわかりませんが, 間違いなくこのページを眺めていれば「三角形」のプロフェッショナルになれるかと思います. 

 

 そのうち, 読み込んでみたいページではありますが, そんな時間あるのかなぁ......

シン・ゴジラはいいぞ

 シン・ゴジラはいいぞ

という言葉がある. 

 

 シン・ゴジラといえば現在公開中の庵野監督の本気の塊の特撮映画である. 

www.shin-godzilla.jp

 

 私はこの作品の感想をどう書こうか, どう表現しようかこの数日迷ってきた. 

 しかし, この作品の圧倒的力の前ではどのような言葉を尽くしても何となく浮ついてしまう. 

 いろいろな感想をいろいろな人が書いているが, どれもどことなくこの作品の一面を捕らえているだけで, 「そうなんだよ」と共感しつつも「でも, この作品の本当のすごさはそこじゃないはずなんだ」と思ってしまう. 

 この作品の前では批判的なコメントですら, この作品の力にあてられて受け止め切れていないだけなのではないかと思う時がある. もちろん, ご愛敬みたいなコメントもあるが......

 

 いろいろと言葉を尽くしてすごさを語ろうと思ったが, どうやっても表面論・技術論に終始してしまいそうである. それは今の僕が語りたいことではない. 

 だからこそ, この作品に対する感想を述べるのであれば, 今はこの一言にするしかないのである. 

 

シン・ゴジラはいいぞ
 

 この一言にあらゆる評価, 感動は込められている. 

 もっと冷静にこの作品を見つめられるようになった時にこの作品の感想, 考察をしっかりと書き残したいと思う. 

 ひとまず, 庵野監督ありがとう! スタッフの皆さんありがとう! キャストの皆さんありがとう!

 みんなシン・ゴジラを見よう. 話はそれからだ. 

 

シン・ゴジラ音楽集

シン・ゴジラ音楽集

 

 

 

夏休みだ. 読書感想文だ! 小中高生向け数学書紹介だ!!

 世間ではそろそろ夏休みのようです. 私はむしろこの時期がもっとも忙しかったりするので, 夏休みは苦しい季節だったりします.......

 

 さて, そろそろ小中高生が読書感想文などに悩み始める時期かなぁ, ということでそんな子供たちのための数学書を並べてみようと思います. 読書感想文に悩んでいる理系っ子よ, 頑張れ! 

 今回は次のような基準で本を選びました. 

1. 小学生, 中学生, 高校生が読んで(たぶん)わかりそうなもの. 

2. 自分が読んだことのあるもの(またはそのリメイク, 再販)

3. マンガではない本(現状, マンガを学校の宿題に採用することを渋る教師が多いことを鑑みて......)

 それじゃあ, 張り切っていきましょう! 

(疲れすぎてテンションがおかしい.

 

【小学生~中学生くらい向け】

数の悪魔―算数・数学が楽しくなる12夜

数の悪魔―算数・数学が楽しくなる12夜

  • 作者: ハンス・マグヌスエンツェンスベルガー,丘沢静也
  • 出版社/メーカー: 晶文社
  • 発売日: 2000/04/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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  子供のころに読んで楽しかった本です. 確か小学生のときに通っていた塾の本棚に紛れ込んでいたのを貸してもらって読んだのがファーストコンタクトです. この本と同じくらいの時期に父が買ってきたマンガ おはなし数学史―これなら読める!これならわかる! (ブルーバックス)*1の2冊が自分の数学好きの原点かもしれません. 

 赤い悪魔に導かれて, ロバート君が数学の世界を探検する話です. 

 登場する用語が独特で, ルートを「大根を抜く」と表現していたりします. 何となくですが「点の代わりに椅子, 直線の代わりに机, 球面の代わりにビールと呼ぶことにしても幾何学はできる」と宣言したヒルベルトの形式主義のにおいを感じます(知ったかぶり). 

 用語はともかく内容の一部は高校以上のことに触れていたりしますね. なぜか \(1+1=2\) のラッセルの証明(を試みた跡)が載っているし......

 実家を出るときに父にねだって買ってもらったモノを売ってしまったのですが, 数年前, 本屋で見かけて懐かしくなりつい自分のお給料で買ってしまいました. 

 

【中学生向け】

はじめまして数学 リメイク

はじめまして数学 リメイク

 

 この本のリメイク前の本を全巻中学生の時に読みました. 当時は寝る間も惜しんで夢中になって読んだ記憶があります. 

 数の直感的「イメージ」から始まり, 記数法などの話やベクトルを使った足し算引き算のイメージの話, 虚数の話などをへて可算濃度の話にたどり着きます. 

 一部表現に誤解を招きそうだと感じる箇所がいくつかありますが, そういった箇所を自分で探すのも勉強かもしれません. 

 

【中学生~高校生向け】

フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

 

  言わずと知れたサイモン・シンの名著ですね. ちょっとページ数が多いので読むのが大変ですが, 読書感想文の題材としては良いかも. 

 幾人もの数学者を歴史の闇に葬ると共に数学の歴史を大きく動かしたフェルマー予想が解かれるまでの過程を書いた本です. 

 同じ作者の次のシリーズも読書感想文の題材としては良いかもしれません. 

 こちらは我々の生活を支える「暗号」の話です. 

暗号解読〈上〉 (新潮文庫)

暗号解読〈上〉 (新潮文庫)

 

 

暗号解読 下巻 (新潮文庫 シ 37-3)

暗号解読 下巻 (新潮文庫 シ 37-3)

 

 

【中学生~高校生向け】*2

文庫 放浪の天才数学者エルデシュ (草思社文庫)

文庫 放浪の天才数学者エルデシュ (草思社文庫)

 

 

放浪の天才数学者エルデシュ

放浪の天才数学者エルデシュ

 

  

ガロア―天才数学者の生涯 (中公新書)

ガロア―天才数学者の生涯 (中公新書)

 

 

ビューティフル・マインド: 天才数学者の絶望と奇跡 (新潮文庫)

ビューティフル・マインド: 天才数学者の絶望と奇跡 (新潮文庫)

 

 

 数学者の伝記シリーズ. このあたりしかぱっと思いつかなかったけれど他にもたくさんありそうです.  これらも読書感想文にぴったりです. 

 ただ, ガロア周辺の伝記シリーズは注意深く選んだ方が良いです. 悪名高い数学をつくった人びと (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)のシリーズの誤った記述を真に受けて書かれた本も多いからです. 

 特にコーシーがガロアを評価していなかったという記述がある本は間違いなく誤りです. コーシーがガロアを高く評価していたという記述のある手紙が発見されていますので......

 

【高校生向け】

数学ガール (数学ガールシリーズ 1)

数学ガール (数学ガールシリーズ 1)

 

 高校生, 読書感想文あるのかなとも思うのですが, 一応.

 結城先生の有名な本ですね. いまだに続編が書かれているのでやはり人気があるのでしょう. 個人的には一番最初の巻が読んでいて一番面白かったです. 

 内容は主人公の「ぼく」が「ミルカさん」という美人天才女子高生と「テトラちゃん」というかわいい後輩といちゃいちゃしながら数学をする話です(我ながら身もふたもない説明. 結城先生ごめんなさい......). 

 たまにこのストーリーが邪魔になる程度に「数学」の部分は結構しっかりしています. 

 

【高校生向け】

オイラーの贈物―人類の至宝eiπ=-1を学ぶ

オイラーの贈物―人類の至宝eiπ=-1を学ぶ

 

 みんな大好きオイラーの公式[e^{i heta}=cos heta +isin heta]の高校生向けの解説本ですね. 文庫版で持っています. 

 電卓周りの記述は正直蛇足だなと思うし, 人類の至宝は$e^{i heta}=cos heta +isin heta$であって, $e^{ipi}=-1$はそこから自明に出てくる式なのでなんだかなぁという気もしますが, 入り口としては良いでしょう. 

 読んだことはないですが下の本も同著者では有名ですね. 分厚すぎて読む気が起こらなかったが......

虚数の情緒―中学生からの全方位独学法

虚数の情緒―中学生からの全方位独学法

 

 

【番外】

円周率1000000桁表

円周率1000000桁表

 

    「数表で読書感想文かけるか!!」と思うのですが, ここの出版社なぜかこの本で読書感想文を募集していたりします. 

15/05/27:円周率100万桁表読書感想文コンクールについて :暗黒通信団

 誰が募集するんだろうと思っていたら, 募集があったみたいで驚きです. 物好きだなぁ. 

 ここの出版する本で高校生でも読めそうな本が一冊だけあったのでそちらも紹介しておきましょう. これを読書感想文に使うのもありかも. 怪しい名前の団体から出ているけど, 内容に変なところはないです. あるとしても誤植くらいです. 

整数論のための前菜

整数論のための前菜

 

 

 僕に思いつくのはこのぐらいです. 結構自分にとって懐かしい本が結構ありました. これ以外にも良い本はきっとありますから, 本屋に行って探すなりAmazonのサジェストに従うなりすると良いと思います. 

 それでは小中高生の皆さん, 宿題頑張ってください! おじさんも陰ながら応援しています. さよなら. さよなら. さよなら. 

*1:マンガなので今回は除外......

*2:小学生向けにしようか迷ったのですが, ここに挙げた本は小学生向けとは言い難いのでこれで......

今日もバカ噺を一つ

 仮面の日曜数学者です. 

 

 キチンとした記事を書こうとすると, やっぱり時間がかかるので今日もバカ噺を書こうかと思います*1.

 今, 白雪姫がケーキを統計を使って公平に分割する話がはやっているようなので, そういった噺を一つ. 

motcho.hateblo.jp

 

統計に詳しいという噂のJは絶対に飛行機に乗らないことを公言している. 

曰く「飛行機には爆弾がのせられている確率が高い」からだそうで. 

そんな彼を飛行場で見かけた. なんと飛行機の搭乗待ちらしい. 

なぜだろうと思って話を聞いてみると

「飛行機には爆弾が一個乗っている確率は高いが, 二個乗っている確率が低いことが分かった. 特に一個一個別々に飛行機に乗せられる確率はかなり低い. だから, すでに一個持ってきた」

 

*1:キチンとしたのも並行して書いていますが, 間違ったことを書きたくないので, 取材に時間がかかります......

数学小噺を一つ.

 仮面の数学者です. 前回の更新が2か月前なんて信じない......

 毎日のようにブログを更新できる人を僕は心の底から尊敬しています. 創作で最も難しいのは最後まで作品を完成させることだっていうけど, ブログも同じような気がします. 

つまり, 大事なのは根気......

 

 今日書こうと思い立ったのは「数学ジョーク」についてです. 

 

 数学やっている人は意外とジョークが好きです. 一番の好例は存在しない数学者をあたかも存在するかのように扱ったBourbakiの件でしょう. 彼らの場合フランス人なので「えすぷり」ってやつですかね.

 

 そんなわけかどうかはわかりませんが, 世の中には「数学」をテーマにしたジョークがたくさんあります. 今日はその中から有名なものを一つ. 

 イギリスのコンウォールの大草原の中を汽車が走っていく. その中で学会帰りの天文学者, 物理学者, 数学者, 生物学者が談笑していた. そんな4人の目の前の草原に黒い動物がいるのが見える. 天文学者が言う. 

「コンウォールのヤギは全身が黒いんだなぁ」

それを聞いた物理学者が笑いながら

「それは少し正確じゃない. コンウォールにいるヤギのうちの一匹の全身が黒いんだ」

それを聞いた数学者はボソッとつぶやいた. 

「それだから君らはよく間違いを犯すんだ. もっと正確にはコンウォールにいるヤギのうちの一匹は少なくともこちら側が黒いんだ」

それを聞いていた生物学者, 笑いをかみ殺しながらこういった. 

「君たち, あれは羊だ. 」

 

非参考文献

 個人的に落語が好きで昔, 天狗連っぽいことをやっていました. そんなときにこういった数学ジョークを使っていました. そんなわけで好きな落語の本をここに置いておきます. 

落語こてんパン (ちくま文庫)

落語こてんパン (ちくま文庫)

 

 

同じということ―定義のはなし―

仮面の日曜数学者です. 

約一か月ぶりの更新です. 新しい年度が始まってバタバタしてました. 

 

 知り合いの中学生から聞いたのですが, 昨今の数学の先生の中には「数学の定義は一字一句全く同じでなければならない」と思い込んでいる人がいるそうです. 

 その子が出会った事案としては素数の定義についてテストで「1より大きい自然数の中で約数を1とそれ自身の他に持たないもの」と答えたところバツをもらったそうです. なぜかというと素数の定義は「1より大きい自然数の中で約数を1とそれ自身のみであるもの」と教えたからだそうです. とても悲しい事件です. 国語力の低下が叫ばれる理由もわかります. 

 

 まぁ, 学校の数学の先生が数学をわかっていらっしゃらないのはいつものことなので, そのことを批判する気はありません*1が, 今回は数学における「同じ」とは何かについて少し書いてみようと思います. 

 

 同じ対象だけれども違う定義があるものとして, 自然対数の底$e$が最初に思いつきます. もちろんここでいう「定義が違う」とは先の例の教師のような日本語レベルのゆれの問題ではありません. 

 

 私が知っているだけでも次の3つがあります. 

 

1. 次の等式を満たすような$e$を自然対数の底という.  \[\lim_{h \to 0} \frac{e^{1+h}-e^1}{h} =e. \]

2. 次の極限\[\lim_{n\to \infty}\left(1+\frac1n \right)^{n} \]の行き先を自然対数の底という. 

3. 次の級数\[\sum_{n=0}^{\infty}\frac{1}{n!}\]の行き先を自然対数の底という. 

 

 これらの定義が「同じ」であるというのは「論理的に同値である」からです. すなわち,

定義1. $\Leftrightarrow$ 定義2. $\Leftrightarrow$ 定義3.

 が成り立ちます*2

 同様にして論理的に同値であれば同じものを「定義」できます. 素数も「自然数のうち約数を2つのみ持つもの」などと定義してもよいわけです. 

 そのように多くの定義を持つものは多くの場合「抽象的」なものであることが多いです. たとえば, 群, 位相空間, 連続写像etc. 

 

 なぜそのように定義が複数あるものがあるのか? おそらく「同じ構造」を持つことがわかっていれば, 数学的には同じ対象で, どの定義から話を始めるのが一番楽かということなのでしょう. 定義はもちろん大事ですが, それが表す対象がなんであるかということが最も大事だと思います. 

 

 そういった数学的対象がどこにいるのかという問題は難しいのでまたの機会に. 

 

そんなわけでGW楽しんでいきましょう. 

 

 

ところで, 自然数の定義に0は含むべき異論は認めない. 

*1:しする気も起きません. あきらめました.

*2: $\Leftrightarrow$は「左辺から右辺が証明できかつ右辺から左辺が証明できる」という意味だと思ってください.