Sokratesさんの備忘録ないし雑記帳

書きたいことを書いている.駄文注意.

自然数全体から「同様に確からしく」自然数をランダムに選ぶことができないという話

1. 導入

 最近Twitter で「自然数全体から『同様に確からしく』自然数をランダムに選ぶことができる」と思っている方を見かける. 残念ながらそのような確率空間は存在しないという話を書く*1

2.本論

 まず, 数学的に確率空間を定義しよう. そのためにまず完全加法族を定義する. 

定義( 完全加法族 )

 \( \Omega \)を集合とする. 

 \( \Omega \)の部分集合の族\( \mathcal{F} \)が次のi), ii), iii)の条件を満たすとき\( \mathcal{F} \)を\( \Omega \)上の完全加法族という. 

i) \( \emptyset, \Omega \in \mathcal{F}. \)

ii) \(\mathcal{F}\)の元の族 \( \left\{ E_i \right\}_{i \in \mathbb{N}}  \)を任意に取る. このとき, \[ \bigcup_{i = 0}^{\infty} E_i \in \mathcal{F}.\]

iii) \( E \in \mathcal{F} \)ならば\( \Omega \setminus E \in \mathcal{F}. \)

 要は補集合を取る作業と可算個の集合和に対して閉じている集合の族である. 

 当然だが, 一般的に\( \Omega \)上の完全加法族は複数存在する*2

 

 確率空間を定義する. 

定義(確率空間)

 \( \Omega \)を集合, \(\mathcal{F}\)を\( \Omega \)上の完全加法族とする. 

関数\( P:\mathcal{F} \to \left[0, 1\right] \)が次のI), II)を満たすとき, \(P\)を確率測度と言う. また, \( \left( \Omega, \mathcal{F}, P\right) \) の三つ組みを確率空間という. 

 

I) \( P\left(\emptyset\right) = 0, P\left(\Omega\right) = 1 \)

II) \( \left\{ E_i \right\}_{i \in \mathbb{N}}  \)を\( \mathcal{F} \)の元の族で互いに素な族とする(すなわち, \( i\neq j \)ならば\( E_i \cap E_j = \emptyset \)). このとき, 

\[ P \left(\bigcup_{i = 0}^{\infty} E_i \right) = \sum_{i = 0}^{\infty} P \left( E_i \right). \]

 高校数学風に説明すると, \(\Omega\)は「根元事象の集合」, \(\mathcal{F}\)は「事象の集合」, \(P\)は「事象の起こる確率を与える関数」となる. 

 確率空間の具体例などは参考文献として挙げるものを参照してほしい. 

 

 さて, ここから本題である. 

自然数全体から『同様に確からしく』自然数をランダムに選ぶ」という確率空間\( \left(\Omega, \mathcal{F}, P \right) \)は次を満たすものであるはずである. 

NOTE

a) \( \Omega = \mathbb{N} \). 

b) 任意の\(n \in \mathbb{N} \) について, \( \left\{ n \right\}\in\mathcal{F}\). 

c) 任意の\(n, m \in \mathbb{N} \) について, \( P\left(\left\{ n \right\}\right) = P\left(\left\{ m \right\}\right) \). 

a) は根元事象は「自然数を選ぶこと」なので当然である. 

b) は「ある自然数\(n\)を選ぶこと」に対して確率を与えなくてはならないので, 必要である. 

c)は「同様に確からしい」 という条件に対応する. 

 

さて, b)の条件から\( \mathcal{F} = 2^{\mathbb{N}} \)であることがわかる(ただし, \(2^{\mathbb{N}} \)は\(\mathbb{N}\)の部分集合全体の集合). なぜなら, 任意の\( S \subset \mathbb{N} \)に対して, \[ E_i = \begin{cases} \left\{ i \right\} & i \in S,  \\ \emptyset  &  \text{Otherwise,} \end{cases} \]と定義すれば, 当然すべての\(E_i\)は\( \mathcal{F}\)の元であるので,  \[ \bigcup_{i = 0}^{\infty} E_i \in \mathcal{F}\]

が成り立ち, 一方で定義から\[ S = \bigcup_{i = 0}^{\infty} E_i \]

も成り立つからである.

 

 さて, 問題はc)の条件である. 確率空間のI)の条件とII)の条件から\(P\)は次のようなことを成り立たせねばならない. 

NOTE

\[E_i = \left\{ i \right\} \,\, \left( i \in \mathbb{N} \right)\]

という\(\mathcal{F}\)の元の族を考える. II)の条件から

\[ P \left(\bigcup_{i = 0}^{\infty} E_i \right) = \sum_{i = 0}^{\infty} P \left( E_i \right). \]

ここで

\[ \mathbb{N} = \bigcup_{i = 0}^{\infty} E_i \]

であるから, I)と合わせて, 

\[  \sum_{i = 0}^{\infty} P \left( E_i \right) = 1  \qquad \text{(A)} \]

でなければならない. 

 さて,  (A)が問題である. 簡単のため以下\( a_i = P \left( E_i \right)\)と書くことにする. 

 (A)が成立する必要条件として, \[ \lim_{i \to \infty} a_i = 0 \qquad \text{(B)}\] がある(収束する無限級数の性質).

 c)の性質を仮定すると, 各\(i, j \in \mathbb{N} \)に対して\(a_i = a_j\)である(つまり, \( \left\{ a_i \right\}_{i \in \mathbb{N}} \)は定数列である)から, (B)と合わせると, 全ての\(i \in \mathbb{N}\)に対して\[a_i = 0\]となる. しかし, これは(A)に矛盾する. 

 つまり, c)の条件を満たす確率空間は存在しないのである. 

3. 結論

自然数全体から『同様に確からしく』自然数をランダムに選ぶことができない」ことを示した.  

 

参考文献

[1] 伊藤清, 『確率論の基礎』, 岩波書店 

確率論の基礎 新版

確率論の基礎 新版

 

確率空間の定義の確認などに用いた.  コンパクトにまとまっているので復習にちょうど良いとされる(ホンマか?).

 

[2] 舟木直久, 『確率論』, 朝倉書店

確率論 講座数学の考え方 (20)

確率論 講座数学の考え方 (20)

 

 確率論の定評のある教科書である. 

*1:だいぶ昔に別の人がこの辺の話をもっとがっつりブログの記事かなにかに書いていた気がする. 探したのだが, 見つけられなかった. 知っている人がいれば教えてほしい.

*2:例として\( \left\{ \emptyset, \Omega\right\}\)と\(2^{\Omega}\)はそれぞれ完全加法族の定義を満たす.

つまようじを投げて円周率を求めてみた

この記事は

Math Advent Calendar 2018 - Adventar

の12/19付の分の記事です(え?10日も遅れてる?......スタンド攻撃を受けているようだな). 

 

ビュフォンの針という問題をご存じだろうか?

ビュフォンの針

 平面上に平行線が等間隔に多数書かれている. その間隔を \( l \) とする. 

 その平面上に長さ \( r \) の細い針を落とす.

 その針が平行線と交わる確率を求めよ(ただし, \( r \leq l \) としてよい). 

 この問題*1の答えは

ビュフォンの針の答え

\[ \frac{2r}{l\pi} \]

 である(詳細は省略. 時間があれば証明をそのうちアップするかもしれない. ). 

 

 さて, この答えをよく見ると円周率\( \pi \)が含まれている. そのため, 次のようなことが思いつく. 

 針を\(n\)回投げた時に交わった針の本数を\(m\)本とすれば, 大数の法則より

\[ \frac{2nr}{ml} \to \pi  \qquad \text{as} \qquad n \to \infty \]

が成り立つ.  
これを利用して円周率の近似値を求めることはできないか?

 

 そんなわけで実際にやってみた. 

 

 次のような条件の下で協力者Tと共に実験を行った. 

  • 針を投げるのは危ないので, 投げるのは形状の似ている「つまようじ」にする. 
  • 「平行線」は縞模様で表現することにした(線の太さを\(0\)に近づけて交わっているか交わっていないかの判断を簡単にするため). 
  • つまようじの長さと縞模様の間隔は同じにする(\(r=l\)を仮定する). 
  • 一気に複数本を箱に入れて投げる(手間を減らすため). 

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つまようじを入れるための箱(手作りなのでしょぼいのはご愛敬)

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投げては数え上げるを繰り返す

 

 のべ400本投げた実験結果は次のようになった.  

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実験結果

絶対誤差は-0.029.

相対誤差は0.009.

 

 時間の関係で今回はのべ400本しか投げることができなかったが, のべ400本の時点でかなり良い近似を得ることができたので, 回数を増やしていけばもっと良い近似値を得ることができるはずである. 機会があればまた挑戦をしたい. 

 

参考文献および実験器具たち

天書の証明

天書の証明

  • 作者: マーティン・アイグナー
  • 出版社: 丸善出版
  • 発売日: 2012/9/1
  • メディア: 単行本
 

 

妻楊枝 大 約500本 21003

妻楊枝 大 約500本 21003

 

 

 

 

*1:最後の\( r \leq l \)という条件は簡単のためつけてある. \( l < r \)のとき, 針の長さが平行線の間隔より大きくなるため, 交わる確率が大きくなるからであるからである.

【備忘録】人生で一度は証明を追いたい命題一覧

 だいぶ前にTwitterで「人生で一度は証明を追いたい定理」とかいう話題が盛り上がっていた. もとツイートを探そうかお思ったんだが, 見つからなかった(←探し方が悪い)ので誰が言い始めたのかはわからないのだが, 「なるほど, 確かにそういう定理・命題・補題はいくつかあるな」と思ったのを覚えている. 

 ふと, そういうものをまとめてみようかという気分になったので, ここに一覧を晒すことにした. これは自分のモチベーション維持*1と「この命題の証明もかっこいいで」という情報が入ってくることを期待してのものである. 難易度がバラバラだったり分野に偏りがあるがご容赦願おう. どうせこの後どんどん増えていくし. 

整数論

・Fermatの最終定理 

  どうあがいても追いたい証明一位だった. ここが原点の数学徒は多いのでは. 

・Gelfond-Schneider の定理

  超越数論の一里塚のはず. 超越数論でとてもでかい結果と聞いているので興味はある. 

Logic

・Gödelの不完全性定理(特に第二の方)

  概略を追ったことはあるはず(ホントに追えてたかも怪しい)だが, やっぱりよくわかっていないのでもう一度追いたい. 主張はよく使うのにね. 

・Presburger arithmetic が否定完全であること

 これも結果はよく使うのに証明をよく知らない. Quantifier freeの形に変形するらしいのだがよくわかっとらん. 

Lindstrom Theorem

 最近知った定理で一階述語論理は「コンパクト性定理」と「Löwenheim–Skolem theorem」で特徴づけられるというものらしい. すさまじくきれいな定理である. 

・Getzen の算術の無矛盾性証明

Set Theory

・ZFCと連続体仮説(CH)の独立性. 

  Forcing わかりません案件.

(9/20追記) ZFが無矛盾であれば、ZFC+CH が無矛盾であることの方は某夏の学校である程度理解できた(と思う)。やはりForcing が全くわからない。(追記終わり)

・ZFのモデルで\(\mathbb{R}\)の任意の部分集合が Lebesgue 可測であるものが存在する. 

・Diaconescu's theorem

Category Theory

・米田の補題

 追ったんだよ, 一回. でも理解できてない感がすごいし, 定理の主張の内容も明らかによくわかってない. 圏論力を高めて再チャレンジしたい. 

*1:「えー, まだこの証明追っていないのぉ」という数学徒からの煽りとも言う. あまり言われると心折れるのでほどほどにネ.

数学と比喩~CR性は崇徳院である~

 数学をやっているとすごいレベルの比喩でもって数学的な概念を説明してくれる人に出会う. 最近自分の中でヒットしたのは「CR性は崇徳院」というものだ. 

 

 CR性というのは"Church Rosser 性" というものである種の順序集合の性質のことである. 正確には次のような性質である. 

定義 CR性

 $S$を集合, $>$を$S$上の二項関係とする. 

 $S$上の列で$s_0 > s_1 > \cdots > s_n $(ただし, $n \in \mathbb{N}$)というものがあったとき, $s_0 >\!\!\!> s_n$と書くことにする. 

 任意の$s, s_1, s_2 \in S$に対して$s >\!\!\!> s_i  \, \,  (i=1, 2)$ ならば, ある $s' \in S$ で $s_i >\!\!\!> s'$ を満たすものが存在するとする. 

 このとき, $\left(S, > \right)$はChurch Rosser 性(略してCR性)を持つと言う. 

 要は列が必ずどこかで合流するという性質である.  

 

 崇徳院というのは第75代天皇歌人として有名な方である(日本史弱者並みの紹介. 詳しくは 崇徳天皇 - Wikipedia を見てくれ). この方の和歌に次のようなものがある.

瀬を早(はや)み 岩にせかるる 滝川(たきがは)の

   われても末(すゑ)に 逢はむとぞ思ふ

小倉百人一首の77番目の詩として有名なこの歌だが, 意味としては次のようになる(と思う). 

水の流れが早くて, 岩によって流れが二つに分かれてしまう川であっても, (下流のほうで)最終的には合流する.  (そのように一度別れたとしても)あなたともう一度会いたいものだなぁ.  

 「CR性は崇徳院」というのはこの川の流れの合流性がCR性というものを表しているではないかということである. なんともロマンチックなたとえである. こういうのがサラッと言える大人はかっこいい. とある勉強会で聞いたたとえだが, こういうことを一度でいいから素で言ってみたいものである. 

 

参考文献

[1]高橋正子, 計算論, 近代科学社

計算論 計算可能性とラムダ計算 (コンピュータサイエンス大学講座)

計算論 計算可能性とラムダ計算 (コンピュータサイエンス大学講座)

 

 CR性の定義の参照に使っただけだけど一応......

 型なしλ計算の定番の教科書である. 

 [2] 

【百人一首講座】瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ─崇徳院 京都せんべい おかき専門店【長岡京小倉山荘】

崇徳院のほうはgoogle先生で「崇徳院 百人一首」検索したら, 一番頭に出てきたこちらを参照した. 訳は著作権的なチョメチョメが怖かったので自分で考えた(ので, 厳密には間違ってるかも). 

水素水騒動を見て思うこと ——疑似科学を科学と認識する認識障害について——

 今回は雑記です. まとまりのない文章になりますがご了承ください. 

 

 水素水の効能がないことが公的機関によっても保証されたようですね. 

容器入り及び生成器で作る、飲む「水素水」−「水素水」には公的な定義等はなく、溶存水素濃度は様々です−(発表情報)_国民生活センター

 

 国民生活センターがこういった問題において, どの程度発言力を持つのかは知りませんが, あからさまな疑似科学に対して鉄槌が下される日も遠くないようです. 

 

 さて, 正直この問題についてそこまで僕自身はさほど興味ありません. 騙されそうになっている方に

疑似科学とされるものの科学性評定サイト

みたいなホームページを紹介することはありますが, 撲滅しようと熱心に活動しているわけではありません. 

 一番の興味は「なぜ, 人は疑似科学を『科学』と思い込むのか」ということです. もう少し正確にいうと「どうすれば, (手遅れな人たちはいったん置いといて)子供たちに疑似科学を見抜く力を備えさせられるか」ということです. 

 

 こう見えても教育関係に身を置いているので, 子供たちと話す機会が他の人よりも多いです. 小学校低学年の子たちと話していると, 彼らは今まで生きていた世界から「科学らしきもの」を得ようとしている(もしくはすでに得ている)ことがわかります. 

 そういった「科学らしきもの」は大人たちの目から見ると明らかに「科学」の段階に至っていないことが多いです(当たり前ですが). 

 特に多くて, その誤解を解くのが大変な「科学らしきもの」の片鱗の一つが「物体が運動するときその物体には力が働いている」というものです. これは実際には「力が働いていない(もしくは釣り合っている)物体は等速直線運動をする」という「慣性の法則」を知っている大人にとっては明らかな誤りであることがすぐにわかります*1

 よくよく考えてみたら, この誤解はそれほどおかしなことではありません. なぜって, アリストテレス的世界観(ニュートン以前)に生きていた昔の人々はそういった価値観の下で生きていたのですから. これは, 「昔の人々がアホだった」ということではなく, 単純にそういった思弁が「それほど重要でなかった」ので, 誤っていても誰も気にしなかったということなのでしょう*2

 

 さて, 問題はこの誤解がなぜ起こるのかということです. これは「力が働いていないと動かない」という事象をたくさん見ているからでしょう.

 たとえば, 「エンジンがかからないと動かない車」「押さないと動かないスーパーのカート」「投げないと動かないボール*3」などなど......

 

 我々は身の回りの世界で感じ取ることができる事象から「科学のような法則」を無意識のうちに作り出しています. しかし, その多くは誤りです. なぜなら, 一人の人間の感じられる世界はかなり狭いからです. また, 同じ事象を観察したところで正しい「科学法則」にたどり着けるのはほんの一握りで——認識障害とバシュラールなどは呼んでいます——多くの場合間違った推測をしてしまうからです. 

 科学の世界ではこういったことを防ぐために正しいと思われる「科学のような法則」が正しいかどうかを判定する「実験」を行うわけですが, ほとんどの人はそのようなことはしません. そして, 多くの場合最初の「科学のような法則」を「正しい」と思い込んでいます. 

 

 我々にとって大事なのは「最初の直観を疑う」ことかもしれません. 子供たちが「疑似科学」に騙されないようにするためにはそのことを教えるのが一番なのかなぁと思う今日この頃であります. 

 

 特にオチはありません. 乱文失礼しました. 

 

 

 ↓文中で出てきたバシュラールの本です. 今, 読んでますが, とても面白いです.  

 

*1:と思ってたんだけど, この前, 飲み会でこの話と似たようなことを話したら, 「え?何それ?気持ち悪い!」と言われました. おいおい, 大丈夫か?!となったのは内緒です.

*2:それ以外にも当時の権威たるキリスト教との兼ね合いもありそうですが.

*3:一番最後の例はよくよく考えてみると「飛んでいる最中は力が(重力以外)働いていない」ので「慣性の法則」に気付ける一つの事象ではありますが, そこまで考えが及ばないのが普通の小学生でしょう.

(跡地)【備忘録】数理論理学・数学基礎論の本

[注意]さまざま考えた結果この記事をリバイバルすることにした.下の記事に移行中である.移した部分は徐々に消していっている.(2020/08/05 追記)

この記事に元々書いてあった分の移行を完了したので,本文は全て消した*1.下のリバイバルした記事を読んでほしい.

この記事にリンクを貼ってくれているサイトも多いようなので,この記事自体は残しておく.(2020/08/07 追記)

sokrates7chaos.hatenablog.com

*1:単にコメントアウトしただけなので,消した記事の文章をどうしても知りたい人は何らかの手段で私にコンタクトを取っていただければお見せする.

【数学】自然数に整数0が含まれることのある3つの理由

 最近ゴジラの話ばかり書いてて, このブログの目的を見失いつつあります.

 是非もないよね!(C.V.釘宮) 

 

 今回のテーマはこちらの記事から.  

【中学数学】自然数に整数0が含まれないたった1つの理由 | マイ勉 : ¥0で使える中学生の無料学習サイト  http://benkyo.me/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%95%B00/

 

 えー......

 なんだか残念な記事ですね......

 端的に言ってしまえば, 「自然数とは指を折って数えられる数である」と主張したいようなのですが, そうすると\(2^{10^{1000}}\)とかは全人類を集めても数え上げられないので自然数じゃないんですかね......

 もっというと, 手が折られていない状態は\(0\)じゃないのかなぁ......

 

 揚げ足取りはともかく, 数学の世界には「自然数に\(0\)を含まない派」と「自然数に\(0\)を含む派」の2通りの流儀が存在します. 日本の初等教育においては「自然数に\(0\)を含まない」とする定義しか教えないので, 上のような勘違いした記事が出てくるのでしょう. 

 

 そこで今回は「自然数に\(0\)を含むことがある」ことについて述べようと思います. わかりやすさとかあまり考えずに突っ走りますが, お付き合い願えると幸いです(書いているうちに楽しくなってきたのが悪い. ). 

 

 「自然数に\(0\)を含む」理由は以下のようなものが挙げられると思います. 

1. 「数」という概念自体歴史的にどんどん変わっていくものであったこと. つまり, \(0\)から始まろうが\(1\)から始まろうが数学的にはどうでもよいということ. 

2. 集合論との兼ね合い. つまり自然数論を集合論の上で展開するには\(0\)から始めた方が「自然」であること. 

3. 応用面でも\(0\)を含めておいた方が良いことがあること. 

 一つずつ見ていきましょう. 

1の理由. 

 そもそもギリシャ時代には\(1\)は数ではありませんでした. 現在の\(2\) 以上の整数が彼らにとっての「数」でした. これは\(1\)はunit(単位)であり, 「unitの集まり」としての「数」とは別物と捉えられていたからです. 

 実は現在の「連続量*1」としての「数」がヨーロッパにおいて認識され始めたのは16世紀以降です. これより以前は「数」は離散的と捉えられていたようです. 

 さらに19世紀の数学の厳密化集合論化の中で「自然数」という概念がようやく数学的に定義されることになります. 

 最終的に自然数を「いい感じに」定義したのはPeanoです. その際のPeano自身の定義では自然数を$1$から始まるものとして定義していました(後述). これが19世紀後半の話です. 意外とキチンとした「自然数」になったのは新しいんですねぇ*2

 それでは\(0\)から始まる自然数はいつ誰が定義したのか?

 これはBourbaki『数学原論』(1939)が最初のようです. なぜそのような定義を作ったかは2の理由の時に説明することにします. 

 

 こんな感じで我々が思っているよりも「数」という概念が今の形になるのは, 数千年単位の時間がかかっています. 数学の歴史は古い概念を新しい概念が乗り越えていくことで発展してきました. 当然, 中には元々のモチベーションや目的からどんどんずれていく概念, 分野はたくさんあります. 「自然数」だけが例外なはずがありません. いつまでも「1から始まる自然数」に固執するのは, なんらかの合理的な理由がないかぎり――実際, 整数論などの分野では自明な例外に\(0\)がなることが多いので取り除いておくことが多い――バカげたことのように思います*3

 ともあれ, 歴史的な側面からも「自然数に\(0\)を含むことは不自然ではない」のです. 

 

 それでは, 自然数に\(0\)を含む合理的に良いという側面について説明しましょう. 

2の理由. 

 先ほど, 自然数を「いい感じ」に定義したのがPeanoだと書きましたが, 彼のした定義は以下のようなものです(若干現代風に書き直してあります)  . 

【定義】自然数

 自然数全体の集合\(\mathbb{N}\)とは次の条件i)を満たし,またii), iii) を満たす自分自身への単射写像\(\mathop{\mathrm{suc}}\nolimits:\mathbb{N} \to \mathbb{N}\)を持つ集合のことである*4
i) \(0\in \mathbb{N}\).  
ii) \(0\notin \mathop{\mathrm{suc}}\nolimits\left(\mathbb{N}\right)\). 
iii) 任意の\(X\subset \mathbb{N}\)について, \(0\in X\)かつ\(\mathop{\mathrm{suc}}\nolimits\left(X\right)\subset X\)であれば, \(X=\mathbb{N}\). 

 気が付いた人もいるかもしれませんが, この定義の自然数では\(0\)が含まれています. この\(0\)を\(1\)に置き換えたのが, オリジナルのPeanoの公理により近いものになります. 

 この定義のうち, わかりづらいのはiii)の定義でしょう. この部分は次のようにも書き換えられます. 

 iii)' \(\mathbb{N}\)の元\(n\)についての命題\(P\left(n\right)\)について, \(P\left(0\right)\)が成立し, また任意の\(k\in\mathbb{N}\)について\(P\left(k\right)\Rightarrow P\left(\mathop{\mathrm{suc}}\nolimits\left(k\right)\right)\)が成立するならば, 任意の\(n\in\mathbb{N}\)について\(P\left(n\right)\)が成立する.

 いわゆる数学的帰納法ですね( iii)の集合\(X\)を定義している命題が\(P\left(n\right)\)だと思えば, 話は分かりやすいかと思います). この形の数学的帰納法が扱えるのが自然数の根本的性質なのです*5

 

 こういった対象は同型を除いて一意に定まる[要証明]ので, 数学的に自然数がキチンと定義できたことになります(2016/9/12に解説を追加. 下の方を参照). 

 

 さて, 気になるのはこういった対象がホントに存在するのかどうかですが, 実は空集合を用いて次のように「構成」することができます. 

\begin{align*}0&:=\emptyset \\1&:=0\cup\left\{0\right\}=\left\{0\right\} \\2&:=1\cup\left\{1\right\}=\left\{0, 1\right\} \\3&:=2\cup\left\{2\right\}=\left\{0, 1, 2\right\} \\&\vdots\\&\vdots\\ \mathop{\mathrm{suc}}\nolimits\left(n\right)&:=\left(n-1\right)\cup\left\{n\right\}=\left\{0, 1, 2, \dots, n\right\}\\&\vdots \\&\vdots\end{align*}

 このように構成された対象はPeanoの公理を満たします[要証明]. 

 さて, 上の構成方法の始点を\(0:=\emptyset\)にしました. そのように定義すれば自然数と対応する集合の元の個数が同じになっていることがわかります.  集合を考えるうえで, \(\emptyset\)が必須であり, 始点にすることに自然さを感じることを鑑みるとやはり, \(0\)を自然数としてとらえた方が自然です.  なにより, 有限な集合の元の数え上げにおいて\(\emptyset\)だけ自然数で数えられないことに違和感を感じるのは私だけではないはずです. 

 

 ともかく, 現代の数学の主要な言語たる「集合」を考える上では\(0\)を自然数から外すことに違和感があるというのが, この節で述べたかったことであります. 

3の理由. 

 自然数に\(0\)を含めることの応用面での良さについてですが,  これはホントに簡単に. 

 

 計算論において, 帰納的関数を考えるとき, \(0\)を自然数に含めた方が便利であることが少し勉強するとわかります. このあたりはもっと詳細に述べるべきであろうと思いますが疲れてきたのでまた今度...... 

 

まとめ 

 えー, テンションが上がって必要以上に詳しく書いてしまった感がありますが, 「現代的には\(0\)は自然数なんだ」という気持ちは伝わったでしょうか? かなり雑に書いた部分もあるので, この記事は今後, 暇なときに更新をしていこうかと思います. 

 

 もしも, 何かしら誤りがあった場合, コメント欄にてお教え願えると幸いです.  

 

 

 

 もう, 「\(0\)は自然数」と言うの面倒になってきたので, 「非負整数」って言えばよい気がする......

 

参考文献

[1]三浦伸夫, 『数学の歴史』, 放送大学教育振興会

数学の歴史 (放送大学教材)

数学の歴史 (放送大学教材)

 

 16世紀以前の数学の歴史についてはこの本を参考にしました. 「放送大学の教材」だからと侮るなかれ, イギリスのアマチュア数学者(Philomath)について詳しく記述してある日本の本はこの本ぐらいではないでしょうか? 

 他の数学史についての本であればカッツ 数学の歴史とかOxford 数学史とか復刻版 カジョリ 初等数学史とか佐々木力氏の数学史とかブルバキ数学史〈上〉 (ちくま学芸文庫)が有名だと思います.  

[2]H.D.エビングハウス他, 『数』, 丸善出版

数 上 (シュプリンガー数学リーディングス)

数 上 (シュプリンガー数学リーディングス)

 

 16世紀以降の「自然数」についての歴史と自然数の公理的扱いについてはこの本を参考にしました. 「自然数」「実数」などの公理的扱いや構成法について詳しい本です. 

 下巻"数 下 (シュプリンガー数学リーディングス)"もありますが今回はそちらは参照しませんでした. 

[番外] 清史弘, 『受験数学の理論1 数と式』, 駿台文庫

駿台受験シリーズ 分野別 受験数学の理論1 数と式

駿台受験シリーズ 分野別 受験数学の理論1 数と式

 

 私が「自然数に0を含むことがある」ということを初めて知ったのはこの本が最初だと思います. 高校時代このシリーズをやたらと気に入って全巻そろえたのは良い思い出です. 今回は参照はしていませんがついでに.

 ただ, Peanoの公理についての記述周辺に語弊のある説明があったような記憶があるので, 注意をしてください.  

 

追記(2016/9/12)

 どうも, 同型を除いて一意に定まるという概念がわかりづらいようなので, 少しだけ解説します. ここで言う「同型を除いて一意に定まる」というのは, 「名前の付け方によらず, (今回の場合は「自然数の」)構造が一つに決まる」というのが「気持ち」です. この「気持ち」をもう少しフォーマルな形にすると次のようになります. 

定理

 集合とその上の単射関数, およびその上の元の組である\(\left(\mathbb{N}, \mathop{\mathrm{suc}}\nolimits, 0\right)\)と\(\left(\mathbb{N}', \mathop{\mathrm{suc'}}\nolimits, 0'\right)\)が両者ともにPeanoの公理を満たすとき, 次の性質を満たす全単射関数\(M:\mathbb{N}\to\mathbb{N}'\)が存在する. 

i) \(M\left(0\right)=0'\). 

ii) \(M\left(\mathop{\mathrm{suc}}\nolimits\left(n\right)\right)=\mathop{\mathrm{suc'}}\nolimits\left(M\left(n\right)\right)\).

 これが成り立つことの証明は後日もう少し時間があるときに追加したいと思います. 

 

 そうすると, \[0, 1, 2, 3, \cdots\]も\[0, 1, 10, 11, \cdots\]も\[a, b, c, \cdots , aa, ab, \cdots\]みたいな文字列もすべて(\(\mathop{\mathrm{suc}}\nolimits\)をしっかり定めることができれば)数学的には自然数です. 

 

 現代的な数学では「数学的構造」が同じものは同一視するので, 名前がどうなっていようと構わないのです. 

*1:義務教育をしっかり受けた人々には, 数直線に隙間がないというイメージがあるはずです.

*2:当然ですがnaiveな取り扱いはもっと以前よりなされていました. たまに勘違いをしている人がいますが, 現在数学の主流な「言語」たる集合論が成立したのは19世紀のことです. それ以前は「公理」などはあまり重視されずもっと素朴に数学をやっていたようです. 「公理」が現代のように最重要視されるようになったのは, Hilbertなどの登場以降のように思います.

*3:余談ですが, 「函数」という概念も古い概念だよねという話を大学時代の指導教官とした覚えがあります. 入れたものを別のものに変えて吐き出すブラックボックスとしてのイメージの「函数」と集合の元同士の関係としての「関数」とを比べると, Functionの捉え方は現代的には後者にするべきでしょう. 書いてて思ったのですが, 計算可能関数は「プログラム」という「函」にいれたものが変化して返り値を返すと思うと「函数」ですね.

*4:厳密にいうと, \(\left(\mathbb{N}, \mathop{\mathrm{suc}}\nolimits, 0\right)\)の組として定義されるべきものです. それぞれ, \(\mathbb{N}\)は全体の集合, \(\mathop{\mathrm{suc}}\nolimits\)は次の数字を指定する関数, \(0\)は自然数の始点といった気持ちがあります.

*5: 詳しく知りたい人へ. 高校数学においては数学的帰納法の形として「任意の\(k\in\mathbb{N}\)について\(P\left(k\right)\Rightarrow P\left(\mathop{\mathrm{suc}}\nolimits\left(k\right)\right)\)」の部分を「任意の\(k\in\mathbb{N}, l\leqq k\)について\(P\left(l\right)\Rightarrow P\left(k\right)\)」に置き換えた形の数学的帰納法を紹介されることがありますが, このうち後者の「数学的帰納法」は「整列集合」一般に適用されるものです(整列集合についてはそのうちこのブログに書きそう). 本文中のタイプの数学的帰納法こそが「自然数」を「自然数」足らしめる根本的な性質なのです. 

シン・ゴジラはいいぞ2

 シン・ゴジラを最初に見てから数週間がたとうとしている. 

 結局, 3回ほど見てしまった. 

 正直, 最初は圧倒されすぎて感想を言葉にすることが困難だったが, 3回目の視聴を経てようやく, 感想を言葉にできそうな気配がしてきている. 

 今回はそんな, わたしの感想のようなものを垂れ流そうと思う. 

 

 この映画で最も圧倒されたのは, その作りこみの深さだ. というよりも「虚構にいかにしてリアルを持ち込むか」ということに対するこだわりであろうか. 

 この映画を見ながら私が一番に考えたこと. それは

ゴジラが攻めて来たら, どこに逃げよう?

であった.

 

 この映画は,  「ゴジラ」という日本で最も有名な「虚構」を「現実」に持ち込んだ作品である. 

 たとえば, 怪獣映画ではおなじみの自衛隊の出動であるが, 劇中ではどのような解釈で自衛隊を出動させるか悩むシーンが存在する. 法律は門外漢なので詳しくないが, どうもどの解釈で出動するかによって, 自衛隊のできることに差があるようだ. 

 そういった細かな「現実の壁」を象徴するシーンは挙げるときりがないので止めておくが, こういったシーンの積み重ねが我々に「これは現実ではないのか」という錯覚を与える. この「虚構」と「現実」の壁の「破壊」こそがこの映画の真骨頂だ. 

 

 その壁が壊されたからこそ, わたしは思う. 

ゴジラが攻めて来たらどこに逃げよう.

  

 そういった意味でこの映画は「怪獣映画」ファンにはお勧めできないかもしれない. この映画は「怪獣プロレス」をみるための映画ではないのだ. 

 庵野監督自身としては「現在の東京でゴジラを暴れさせたい」という欲求で作った作品なのだろうが, もはや作品はその手を離れ, それこそこの映画の「ゴジラ」のように個々人の中に「進化」し入り込んでいく. 

 

 もう一度あの言葉を叫びたい. 

シン・ゴジラはいいぞ 

  庵野監督ありがとう. スタッフのみなさん, ありがとう. キャストの皆さんありがとう. 

 皆様に円谷魂の栄光あれ! 

三角形の心~ETCのはなし~

 みなさん, こんばんは. 

 夏がそろそろ終わるんやなってやっている仮面の日曜数学者です. 

 

 皆さんは, 三角形の「心」のことをご存知ですか?

 えぇ,そうです. 高校で習ったであろう「五心」のことです. 

 「重心」「外心」「内心」「垂心」「傍心」ですね. 

 

 実はこれ以外にも三角形には「心」があります. なんと現状一万個以上あるそうです. 

 そんな三角形の「心」の百科事典が世の中には存在します. 

 その名もENCYCLOPEDIA OF TRIANGLE CENTERSと言います(英語のサイトです). 

 http://faculty.evansville.edu/ck6/encyclopedia/ETC.html

  

 もともとはこの本が元のようです. 400個の心が載っているそうです. (12/17追記 と書いていたのですが, いただいたコメントによると, 私の勘違いの可能性が高いようです. そのため, 本のページへのリンクなども全て消しました. 詳しくは下の鴨先生のコメントをご覧ください)

 

 すごいですねぇ......

 最初の数個くらいであれば知っているのですが, 後半何を思って定義したのかわからないモノばかりです. 

 なにをとちく......もとい何を考えて, こんなに三角形の「心」を増やしたのかはわかりませんが, 間違いなくこのページを眺めていれば「三角形」のプロフェッショナルになれるかと思います. 

 

 そのうち, 読み込んでみたいページではありますが, そんな時間あるのかなぁ......

シン・ゴジラはいいぞ

 シン・ゴジラはいいぞ

という言葉がある. 

 

 シン・ゴジラといえば現在公開中の庵野監督の本気の塊の特撮映画である. 

www.shin-godzilla.jp

 

 私はこの作品の感想をどう書こうか, どう表現しようかこの数日迷ってきた. 

 しかし, この作品の圧倒的力の前ではどのような言葉を尽くしても何となく浮ついてしまう. 

 いろいろな感想をいろいろな人が書いているが, どれもどことなくこの作品の一面を捕らえているだけで, 「そうなんだよ」と共感しつつも「でも, この作品の本当のすごさはそこじゃないはずなんだ」と思ってしまう. 

 この作品の前では批判的なコメントですら, この作品の力にあてられて受け止め切れていないだけなのではないかと思う時がある. もちろん, ご愛敬みたいなコメントもあるが......

 

 いろいろと言葉を尽くしてすごさを語ろうと思ったが, どうやっても表面論・技術論に終始してしまいそうである. それは今の僕が語りたいことではない. 

 だからこそ, この作品に対する感想を述べるのであれば, 今はこの一言にするしかないのである. 

 

シン・ゴジラはいいぞ
 

 この一言にあらゆる評価, 感動は込められている. 

 もっと冷静にこの作品を見つめられるようになった時にこの作品の感想, 考察をしっかりと書き残したいと思う. 

 ひとまず, 庵野監督ありがとう! スタッフの皆さんありがとう! キャストの皆さんありがとう!

 みんなシン・ゴジラを見よう. 話はそれからだ. 

 

シン・ゴジラ音楽集

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