Sokratesさんの備忘録ないし雑記帳

思考の流し台. 駄文注意.

人工知能全能説―—シリーズ認知の歪み1―—

 最近, 「人の認知」に対する興味が日に日に増してきている. 我々は常に「認知の歪み」を受けて生きているためになかなか「ありのままの現実」ないし「ナマの真実」とでもいうべきものを知覚できない. 

 「認知の歪み」は思い込み, 勘違い, 錯覚etc. さまざまな原因で起こる. それはどんな賢者であれ聖者であれ, 「人*1」である限り逃れることのできない「人間の業」もしくは「人間の本質」とでも言うべきものであるように思う(これ自体も認知の歪みである可能性はある).  

 そのような認知の歪みに対してたまにテキトーな思考を垂れ流す場が欲しくなった. せっかくブログの存在を認知したのでここで垂れ流すことにする. 

 今回のテーマは「人工知能全能説」である. キチンと取材した話ではないのでこの記事自体が「認知の歪み」を強く受けていることに注意されたい. 

 

 

 近頃人工知能に対する世間一般の興味が高まっているようである. 某放送局が「自前の人工知能を作りました」というので蓋を開けてみたら疑似相関を大量に検出するための箱ものにすぎず, 「人工知能」というには程遠い何かであったという心温まる出来事があったのは記憶に新しい. 

 また, 人工知能の開発をやっていた——少なくとも上記の放送局よりは真剣に―—会社の社長が良くわからない理由で逮捕されたという悲しすぎる事件があったことは読者諸氏もご存知のことであろうと思う. 

 

 人工知能に関することでよく聞かれる認知の歪みは「人工知能全能説」だ. 誰が言い出したのか知らないが曰く「人工知能は全ての問題を解決してくれる」らしい. また, いつの日か「人工知能は人類の知能」を超え「人類の仕事を奪い生存を脅かす」ようになるらしい. そもそも人類自身の「知能」がどうなっているのかわからない——だいぶわかってきたことも増えてきたらしいが——のにすごい発想である.  まぁ, 後者については元々「ロボット」という言葉が初めて用いられたKarel Čapekの戯曲"Rossumovi univerzální roboti"以来の伝統*2のような気もするが......

 

 現在の人工知能と実際の人類の知能の隔たりは大きい. 

 第一に人工知能は「問題・課題の発見」は本質的にはできない. あくまでも彼らは人類が設定した「課題設定」に乗っ取って業務をこなしているだけである. 人類が課題設定をした範囲内においてであれば「問題」の発見自体は可能かもしれないが——故障個所の発見など——一番最大の目的の設定はあくまでも人類が行わなくてはならない. これは課題設定を行うために必要な「価値」という概念自体が, 人工知能が扱うには曖昧過ぎることが原因のように思う*3

 第二に人工知能は「アブダクション」ができない. 我々人類は課題解決や問題の設定において「仮説形成」ということを行う. 「きっとこれは○○が原因で起きているのだろう」であるとか,  「これはこういう原理で動いているのであろう」などの「仮説」を考え, それを帰納法なり演繹法なりを使って検証することによって人類の思考は進む. しかし, 人工知能は「仮説の検証」ということは行えるかもしれないが, そもそも「仮説」を考案すること自体はできていない. 某放送局の作った人工知能も「相関」の発見・提示までは行えていたようだが, そこからの仮説提示自体は人間が行っていた.

 少なくとも現行の人工知能の理論では「仮説形成」を行うには無理があるように思う. 

 

 ともあれ, 人工知能は我々人類に対して有用であることは間違いなさそうである. しかしあくまでも人工知能は道具である. 道具を使いこなすためには道具の特性を正確に把握する必要がある. どこまでのことが人工知能には「できて」「できない」のか. そこの見極めをすることが今後重要な課題となっていくであろう. 

 

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

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フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)

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*1:そういった認知の歪みから解放された者が「仏」と呼ばれるのかもしれない. しかし, 思うに「仏」になるための必要条件くらいのものなのであろう. 「仏」はさらに「認知の歪み」から解放されたうえで「問題解決」という視野も必要ではないかと思う. 

*2:この伝統も一種の認知の歪みなのかもしれぬ. もっと根源的には「造物主への反乱」という"Frankenstein: or The Modern Prometheus"などでも用いられたものなのであろう. 我々人類自身が「神の創造物」であるとする欧米社会キリスト教社会ではその欲求自体が自然なのだろう.

*3:結局のところ「人の幸福」という共通する基盤はあるのであるが, そもそも幸福と言うもの自体が曖昧模糊なところがある. すべての科学であれ宗教であれそこに指向を持っているはずだが, その定義はなかなかに難しい. 卑近な例として, おそらくこの記事を読んでいる人間の多くは「真理の発見」にこそ幸福を覚えるが, 残念なことにそれに価値を見出すことのできる人間と言うのは限られている. 「真理」に価値を置くのが間違っているという哲学者も出ている始末なので「幸福」というモノを論じるには人類はまだ未熟なのかもしれない.