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Sokratesさんの備忘録ないし雑記帳

思考の流し台. 駄文注意. 数学以外の話も多い.

読書ノート――数学的対象の必然性とア・プリオリ――

 

数学を哲学する第2章第1節「必然性とア・プリオリな知識」まとめ

 

用語の定義

ア・プリオリ(a priori)「経験に先だって」「経験とは独立に」

ア・ポステリオリ (a posteriori)「経験的に知られている」

 

ア・プリオリに知られる知識」:⇔「『現実世界の様々な出来事がある特定の仕方で進行していくという経験』のどんなものにも依存しない知識およびそれを表現するための命題」

Remark

 その命題を把握するために必要な経験に関しては考えない. 

 たとえば, 「ア・プリオリな命題」としては, 数学的な命題「Euclid空間上の三角形の内角の和は180°」というものがあるが, この命題の内容を理解するためには「日本語の知識」「三角形という対象がいかなるものか」などの「経験による知識」が必要であるが, この命題が真であるかどうかにはこれらの知識には依存しない(と考えられる). 

Example

以下の2つの命題はア・プリオリである. 

「あらゆる赤い対象は色を持つ」

「『リンゴは赤い』ならば『リンゴは赤い』」

 

「ア・ポステリオリに知られる知識」:⇔「その知識を表現する命題が真であると知るには世界に対する経験が必要」

Remark

 この場合もその命題を把握するために必要な経験に関しては考えない. 

Example

以下の3つの命題はア・ポステリオリである. 

「猫がマットの上にいる」

ソクラテスは死ぬ」

「電場, 磁場はマクスウェル方程式に従う」

 

本論の内容

 数学的対象と他の科学的対象の違い

 科学的な対象は偶然性, 経験によるところが大きい. たとえば, 「重力が距離の2乗に反比例する」という命題はこの世界が偶然この世界がそうなっているからで, 必然性はない. 「重力が距離の3乗に反比例する」するような世界を空想することはできる. 

 だからこそ, 科学者たちは自分たちのより根本的なテーゼが誤っているのを(もちろん, 明らかな証拠が提出されるということがないといけないが)ためらいなく認める. 「科学は更新される神話である」という言があるが, いわゆる科学革命などが起こっているのがその証左である. たとえば, 光速に近い速度で動く物体に対してNewton力学を適用するべきでないと分かったのは19世紀後半から20世紀初頭のことであるが, 相対論という新たなテーゼを採用することによって物理は新しい時代を迎えた. 

 対して, 数学はそうではない. 自然数上での「5+7=12」はいつの時代でも「真」であるし「偽」であったことはない. 「5+7=11」が真になるような数学革命の類は未だかつて起きたことがないのである(新たな概念が見つかることによる数学革命は起きたことがあるが, ここでいう「数学革命」はそういったモノではない)

 こういった科学の蓋然性にあたるものが数学にはない. では, 数学的命題と科学的命題の差はなんであろうか?

 そのヒントは数学の方法論である「証明」にある. 数学の正しさは「前提の正しさ」と論証に用いられている「論理」の正しさにこそある. 

 

数学とア・プリオリ

 多くの思想家が認めるように数学は「正しさ」の度合いが高い. なぜだろうか? 

  また, 数学的言明は「ア・プリオリである」ように見える. なぜなら, その正しさは「証明」によって保証されるものだからである.

 この数学の「見た目の必然性」と「ア・プリオリ性」を説明することは数学の哲学(数理哲学)の課題の一つである. 

 この問題に対するアプローチの「伝統的路線」としてはその「ア・プリオリ性」と「必然性」を明確に「定義」しその関係性を明らかにし, それを数学に当てはめることによって「数学の必然性, ア・プリオリ性」を明らかにすることである. 

 しかし, 仮にその数学の「ア・プリオリ性」と「必然性」には微妙な問題が存在する. すなわち, 数学は物理的現象を記述するのにも用いられる点である. 

 

数学, 物理世界, ア・プリオリ, ア・ポステリオリ......

 数学は「ア・プリオリ」つまり経験によらないものなのに「物理世界の記述」という全く「ア・ポステリオリ」なモノを説明するのに使えるのか? 

 みんな大好きカント大先生はそれを「総合的ア・プリオリ」なる概念によって説明しようと試みたらしい. どうやら, 「数学」が「物的世界」を知覚する仕方であると捉えることによって, 「数学」の「ア・プリオリ性」を格率しようという試みらしい. 具体的には第3章で見るそうなので, その際に......

 ただ, このアプローチは問題があるようで, 「ア・プリオリ性」や「必然性」のような曖昧な概念の確立という問いを直観に関わる余計に難しい問題にすり替えてしまったのではないか, と捉えられているらしい. アルバート・コッファ(Coffa 1991)という人によると「19世紀を通しての西洋の哲学の課題」の主要項目が, こういったカントの立場を用いずに「ア・プリオリな本性」と「数学の応用」を説明することであったらしい. 現在もこの検討課題は今日でも生きているとのこと. 

 

「伝統的路線」以外

  もう一つの路線としては「数学的原理はア・プリオリではない」という路線である. 

 つまり「ア・プリオリ」なモノは存在しないとするか, 「ア・プリオリ」という概念をもう少し厳しく限定するかのどちらかを取るのである. 

 主に経験主義者やクワイン自然主義の影響下にある人々によって支持されているらしい. 最近はクワインのおかげでこの路線もポピュラーになりつつあるようだ. 

 この路線の場合は「数学的対象はなぜ, ア・プリオリに見えるのか」ということが主題になるようだ. 「ア・プリオリに見える何か」を数学は持っているはずなので, その「何か」とは何であろうか, という疑問にすり替わるわけである. 

 

疑問点

 数学革命について

 数学の歴史上も数学の基盤を疑うような出来事はあったような気がする. すなわち, 素朴集合論の矛盾などから起こった論争やクロネッカーの「神は自然数のみを作りたもうた」論などである. まぁ, そのあたりの事情には詳しくないので, 直観主義をもう少しかじってから議論した方がよいと思うので止めておく. 議論の大筋に関係するような話ではないので, 今回は目をつぶってしまおう.  

 

数学の必然性とア・プリオリ性についての問題に対する「伝統的路線」について

 「この路線の前提としては物事がそれらがそうであるように見えるとき, 実際にそうなっているという格率に従う. 」(p.29)と書いてある. うーん...... 

  なんかこの格率すごい主張である. 「みんなが犯人だと思ったからあいつが犯人です」みたいなことを言っているようなものだものな. 哲学やっている皆様はサイコメトリーとか持っていて, 真理が見抜けるとでもいうのか. コナン君も真っ青だ(もちろんこの格率は「哲学的対象」に限定してのことであろう). 

 さて冗談はさておき, 我々が数学が「ア・プリオリ」と判断するのは「証明」によってその正しさが保証されているからである. つまり「数学的言明の前提(公理)」と「論理」が「ア・プリオリ」で「真」なものと捉えているからこそ「数学はア・プリオリである」と感じるのであろう.

 論理の方はともかく「前提」の方はほんとかにゃあ?ってなる. 実際に「非伝統的路線」はそういう方向に動いているようだし.  んー, 結構大事なことなのに, まだこの辺りが確立されていないっていうのは不思議だ.  そうすると数学的な「構造」はこの世界のあらゆる場所に存在する「ア・プリオリ」な「実存」とでもなるのかしら? この辺り, 実存主義との関連が気になります気になります. 

 この辺りは, まだまだ検討の段階のようなので, もう少し勉強してからまた考えることにしよう. 

カントについて

 私はカントがあまり好きではない. ガウスが「双曲線幾何」についての論文を発表したがらなかった原因の一つに「カントのクソリプを恐れた」というものがあるっぽいからである. 一時期哲学者が嫌いになっていた原因がここにある. 

 どうも彼らの一部に専門ではない対象に対して思い込みでクソリプを飛ばす癖がある奴がいるように思われる. 曰く「不完全性定理は知性の不完全性を示した」だの「数学は不完全である」だの......

 「哲学者に数学をやらせるべきではない」ってどこぞの猫が言っていたのもうなづけるよね. うん. 疑問点というか完全に愚癡だね. 

 「総合的ア・プリオリ」なる概念は気になるが, 「蛮勇だった」っぽい記述があることを踏まえるとあまり期待できそうにありませんな. 

読書対象

 

数学を哲学する

数学を哲学する

 

 

 

注意
読書ノートは個人的なまとめおよびモチベーション維持としての側面が大きいので, 誤りや勘違いがある可能性があります. また, 本文に書いていないことを自分の解釈でかみ砕いて書いていることがあります. 読書の参考にとどめてください. 
明らかな誤りがある場合はコメントなどで優しく教えてください. いじめダメ絶対.